蜥蜴の偶像崇拝





 オルフェウスは、とある国の王だった。

 男らしく整った容姿以外は、歴代の王に比べて特に秀でたところも劣ったところもない、特筆すべきことのない平凡な王だった。長い王国の歴史書の中で、彼の名はたった一行年表に記されるだけに終わるような、そんな普通の男のはずだった。
 しかし、実際に彼の名が記されることはなかった。
 何故なら、彼が国を治め始めてから数年後、人間だけがかかる謎の病気により世界中の人間が死に絶えてしまったからだ。
 そうして数千、数万年の時が過ぎてしまえば、その世界を生きた人間の記録など全て風化してしまうだけだった。


 さて、平凡なオルフェウスであったが、たった一つだけ、特筆すべきことではないが、奇妙な性質を持っていた。
 蜥蜴に異様に好かれる、という、何の特にもならない奇妙な質であった。

 この王の性質は、彼の周囲の人間も知っていたが、何の役にも立たないので不思議なものだと首を傾げるばかりだった。
 当のオルフェウス本人も、何故こんなにも好かれるのだろうか、と困ったように笑い膝の上に鎮座する蜥蜴を撫でてやることがしばしばあった。
 オルフェウスは蜥蜴を飼っていたわけではない。オルフェウスが蜥蜴を好きだったわけでもない。
 それでも何故か、オルフェウスが外を歩けば茂みから掌の大きさのものから、大きいもので犬ほどの大きさの蜥蜴が現れて、オルフェウスの後ろをのそのそと追ってくるのだ。
 時には、寝室に侵入してくる蜥蜴までいる始末であった。
 王の寝所にはネズミ一匹入らせないと豪語する近衛兵たちだったが、気配のない蜥蜴を阻むことは出来なかったらしい。
 真夜中に突然胸の上に蜥蜴が落ちてきて悲鳴をあげたこともあったが、蜥蜴がオルフェウスを暗殺するわけでもなかったし、どれだけ警備を強化しようと蜥蜴は寝室に現れたので、結局放置になった。
 侍女は、汚れるので、王が蜥蜴に引っ付かれるのをあまり良くは思っていなかったが、毎日のことなので諦めた。
 オルフェウスは毎日、その華美な服に蜥蜴を引っ付け、毎晩蜥蜴と(強制的に)寝ることになったが、蜥蜴に罪はないので好きにさせた。
 犬に好かれる人はいる。猫に好かれる人もいる。それならば、蜥蜴に好かれる人もいるだろう。
 オルフェウスを含め、人々はそう思った。
 ある意味、平和な治世であったかもしれない。

 いや、平和な治世になるはずだった。歴史書でも特に取り上げられる出来事もない、当時を生きる人々にとってはとても幸福な時代になるはずだった。


 オルフェウスが国を治めて数年後、世界中の多くの人間が不治の病で息絶えた。
 どんどんと人が死んでいく中、ついにオルフェウス本人も28歳という若さで命を失うことになる。

 しかし、病で死んだわけではない。
 謎の病に怯える人間が、何も出来ない国に対して怒りを抑えきれず、オルフェウスを刺したのである。

 腹を刺されたオルフェウス。
 犯人はすぐさま捕らえられ殺されたが、オルフェウスの傷は治癒者がどれほど治癒の魔法をかけても癒えることはなかった。
 三日三晩、熱と傷みに苦しめられたオルフェウスは、四日目の朝、三日間の苦しみが嘘のような穏やかな顔をしてその心臓の鼓動を止めた。

 臣下は嘆き悲しみ、美しい棺の中に王を納めた。
 そんな王の亡骸の入った棺の周りには、数の減った臣下たちとは対照的に、沢山の蜥蜴たちが集まっていた。
 三日三晩苦しんでいたオルフェウスの傍にも蜥蜴は居たらしい。
 最期まで蜥蜴に好かれた王は、素晴らしき才能があったわけではなかったが、穏やかな気質の、優しい王様だった。

 そうして、棺に収められた王様は、城の地下深くにある地底湖の底へと沈められた。
 その国の習わしで、王の亡骸を納めた棺はその地底湖に7日沈め、8日目に引き上げて火をくべその魂を天上へと送るのだ。

 当時も、そうするはずだった。
 しかし、地底湖から棺を引き上げる前に、臣下たちは死に絶えてしまった。

 それからずうっと、地底湖の底でオルフェウスは眠り続けている。

 そんな彼をある男が見つけたのは、それから何万年も後のことであった。


刧刧


『神様だ、神様だ』
『なんと高貴なそのお姿』
『なんと気高いそのお姿』
『一目で分かる、このお方こそ我らが神よ』
『我々が守るべき、至高のお方』
『守らねば、守らねば。うつくしき神はか弱いお方』
『お側にいるだけで力が沸いてくるとは、このお方のお力のなんと強力なことか』
『神様を見つけたあやつが族長で誰も文句はあるまいよ。なにせ、我らの神様を見つけてきたのだ』
『見ているだけで幸せだ。しかし、動いてくれたらそれはどれだけ素晴らしいことだろう?』

『柔らな真白い肢体。滑らかな金色の髪。閉じた瞳は何色か。閉じた口から発せられる声はどんな音色を奏でるのか。ああ、ああ、どうかその瞳を見せてはくれまいか。ああ、ああ、どうかその声を聞かせてはくれまいか』



 沢山の言葉は、オルフェウスのぼんやりとした意識の中で浮かんでは溶け、溶けては浮かんだ。聞き慣れない言葉だというのに、何故かオルフェウスはその言葉を理解できた。
 神に救いを求めるわけではなく、ただただ愛を注ぐ"彼ら"。
 時に、まるで恋人に愛を乞うような切ない言葉を漏らす"彼ら"。
 何とも不可思議な存在だった。

 そうして、どのくらいの時が経っただろう。

 オルフェウスは、唐突に思い出した。
 自分は確か、刺されたのではなかったか。
 原因不明の病に世界中が襲われているなか、腹を刺されたはずなのだ。
 しかし、意識はある。ということは、どうやら助かったようである。
 それならば、起きなければならない。
 オルフェウスは王だった。
 特筆すべき才能はないが、多くの国民を抱える王だった。

 早く、早く、目覚めて彼らを安心させてやらねばならない。


「ん……」

 ごくり、と息をのむ音がする。
 オルフェウスは、重たい瞼を何とか持ち上げ、数度瞬きを繰り返した。
 ぼやける視界が瞬きを繰り返す毎に鮮明になっていく。それと同時に、側にいくつかの気配があることに気付いた。

 その気配のひとつが、そうっとオルフェウスの方へと近寄ってくる。

「……神が、目覚めた。なんと美しい緑の目か」

 低く、地を揺らすような声は、歓喜と恍惚に揺れていた。聞き覚えのない声である。

 いや、それどころか、見覚えのない顔だった。

 濁った黄色の目。黒い縦長の瞳孔。錆色の鱗に覆われた、オルフェウスより一回りは大きい二足歩行の巨体。

 蜥蜴の顔の、人ならざるもの。

 オルフェウスの意識は、ふっと途絶えた。
 オルフェウスは、けして剛胆な性格をしていない。国王という地位につくも、その内心は日々重圧に苦しみ胃を痛める平凡な男だった。
 悲鳴を上げなかっただけ誉めてほしいと、オルフェウスは気を失う直前、思った。
 実際には、喉がひきつり声が出なかっただけである。


刧刧


「我らが神のなんと美しいことか」

 うっとりとその蜥蜴男が見やるのは、天蓋付きのベッドに腰掛ける一人の人間の男。黒を基調とした金の装飾が美しいローブを身にまとい、その胸には緑色の宝石を光らせたオルフェウスは、困ったように眉根を下げていた。
 実際にはパニックに陥って意識が朦朧としているのだが、王様生活を何とかこなしてきたオルフェウスは、その内心が荒れ狂っていたとしても「困ったなあ」という表情に留めることが出来る。いや、たとえ本人が焦ってる顔を全面に出していると思っていたとしても、周りから見たら「困ったなあ」という表情にしか見えないのだから、意識して留めているとは言えないかもしれない。
 さて、そんなオルフェウスだが、今現在、今まで生きてきた中で一番の混乱の真っ最中だった。

 死んだと思ったら生きていて。目が覚めたと思ったら、二足歩行の巨大な蜥蜴が居た。しかも喋る。

 自他共に認める顔以外平凡なオルフェウスにとって、大変由々しき事態である。

「神よ、そのような浮かない顔をして如何なされたか?」
「ああ、いや……」

 蜥蜴だった。夢かと期待したが、喋って歩く蜥蜴に違いなかった。
 頭がイカれたか、はたまた、怪我の後遺症か。と、そこでふと思い出す。
 確か刺されたはすである。腹辺りに触れるが包帯などが巻かれたような厚みはない。服をはだけて確認すると、そこには白い肌があるだけで傷跡は一切なかった。

「神よ!そのように不用意に肌を晒すのはあってはなりませぬ」

 蜥蜴男が慌ててオルフェウスのはだけた服を元に戻した。しかし、傷跡のない己の肌を確認したオルフェウスは、困惑に眉を寄せた。

「傷がない……どういうことだ?」
「あの傷は、消した。神の御身にあるあの傷は不相応」

 オルフェウスの呟きを聞き取った蜥蜴男が、どこか怒りを抱いているようにも見えた。二足歩行し言葉も話しているとは言え、顔は蜥蜴のままで、その表情の変化で感情を読み解くのは通常は困難だ。しかし、オルフェウスには何となく、その蜥蜴男の表情の変化に気づくことができた。
 それはおそらくやたらと蜥蜴に好かれたことで、普通の蜥蜴の機嫌の良し悪しを雰囲気で察する事ができるようになったことに関係あるのだろう。

「傷を、消した。ということは、その、貴殿が私を助けてくれたのか?」

 そう尋ねると、蜥蜴男はその濁った黄色の目をぎょろつかせ、それから小さくうなだれてしまった。2m以上はあろうかという巨体の男がするには惨めな姿で、オルフェウスは自分が悪いわけでもないのに、罪悪感を抱いてしまう。

「……我らが祖先の言い伝えによれば、神よ、貴方は一度亡くなった。祖先はそれを防ぐことができず、ただ、神の痛みを何とか和らげることしかできなかったと」
「……貴殿の祖先、とは」
「神のお言葉では、蜥蜴、と」

 そう言えば、と思い出す。刺された当初は痛みと苦しみに苛まれていたが、徐々に緩やかに、痛みは薄れていっていたような気がする。霞む視界の端にいたのは、家臣とそれから、数匹の蜥蜴たち。
 表情など分からないのに、なぜか心配されているように思えて、苦しいながらも笑ってしまった覚えがあった。

 もし、この蜥蜴男が言うことが本当なのであれば。あの蜥蜴たちが、オルフェウスの痛みを少なからず癒してくれたということなのか。
 随分と夢物語的というか、蜥蜴にそのようなことができるなど思えないのだが、こうして人ではない生き物を前にしていれば、不思議と信じられる気がした。

「そうなのか。……では、俺はあの蜥蜴たちに感謝しなければな」
「祖先も、今の神のお言葉を喜んでいることだろう」

 濁った黄色の目が歪む。おそらく笑ったのだろう。

「先ほどから貴殿は私を神と呼んでいるようだが、私はそのような身分のものではない」
「分かっている。貴方は遠い昔に栄えた種族の1人。国を治めていたと伝え聞いている」
「ならば何故、私を神と?それに、遠い昔とは?今はいつだ?」
「貴方が亡くなって、3万年ほどは経つだろう」
「……3万年?それはまた随分と寝過ごしてしまったみたいだな」

 3万年、とは信じがたい話だ。しかし、目の前にいる人間ではない存在を見ると、あながち無い話とは言えない。
 そもそもこれは夢かもしれないし、それどころかオルフェウスの頭がおかしくなっている可能性もある。

「そして、我らが貴方を何故神と呼ぶか、であったな。それは簡単なこと。我らは貴方を信仰しているのだ」
「私を……?」
「我らが祖先の愛した存在。祖先はおそらく、貴方を神としては見ていなかったろう。祖先にとって貴方の側は居心地が良く、貴方に触れると心を癒され、貴方に話しかけられれば至上の幸福を得られたようだ。我らはその話を幼い頃から繰り返し耳にした。もちろん、全員が全員、信奉していたわけではない。斯く言う俺も、所詮は虚像と思っていた。存在するだけで我らが愛さずにはいられないものなど、居るわけがないと。しかし、実際に貴方を見つけ、俺の心は震えた。俺だけでなく、我が一族、祖先の血を引く者は皆、貴方を前にして、貴方を愛せずにはいられなかった。貴方に、“神”としての能力は無いのだろう。だが、我らにとっては、貴方は神にも等しい存在なのだ」

 蜥蜴男の目が徐々に興奮に燃え上がり、語る言葉にも熱が入って行く様を見て、演技だと思う者はきっといないだろう。
 熱弁を振るう蜥蜴男のオルフェウスを見る目は恍惚に揺れており、オルフェウスはぞくりと背筋を震わせた。

 そのオルフェウスの怯えに、きっと男は気付いていた。太く硬い手が、オルフェウスの手をそっと握った。男らしい手ではあるものの、所詮は人間の手で、蜥蜴の手よりも柔らかい。そこに、蜥蜴の指が軽く食い込んだ。痛みは全く無い。

「……神よ。貴方は我らの神で相違無い。そうであろう?」

 オルフェウスが神ではないと理解しておきながら、“神”だと断言する異形の男の目は真剣だった。

 違う、と。神ではない、と、言える雰囲気ではなかった。

 固まるオルフェウスの金色の髪を優しく撫でて、蜥蜴男はその鋭い歯をむき出しにし笑う。

「神よ。貴方を目にしたその時から、そしてこれから先未来永劫、俺は貴方を愛している。俺の神様」

 これは夢である。夢だ。そうに違いない。蜥蜴が二足で歩いて喋って、あまつ自分を神扱いしてくるなどあり得ない。
 どこか凪いだ心地でそう結論付けたオルフェウスは、そっと目を閉じ再度意識を手放した、のだが。

 結局次に起きても周りを固めるのは二足歩行の蜥蜴男に蜥蜴女だったのは、言うまでもない。



END.