脇役男の話





 兄上、とか細い声で呼ばれる度に、おどおどとした赤い片目が向けられる度に、ガレスは一瞬周囲に目をやってから、どうした、と出来得る限り優しげな声音で問い返す。
 おそるおそる差し出された華奢な手を、やり切れない思いでそっと握り、子供の目線だからこそ見つけた誰にも目につかない場所へ誘い、彼のたどたどしい喋りを聞く。


 それだけしか、ガレスが彼にしてやれることは無かった。


 ガレス・ルジェ・アヴァロスは、ニエーネナイ王国の王族の一人だ。国王の実弟の息子であるから、王族の中でも地位は高い。その上、国王の亡き伯父に似た色合いと容貌を持つために国王の覚えもめでたく、数居る王族の中でもガレスを知らぬ人は少なかった。
 いずれ王の愛妾になるのでは、と悪意の盛り込まれた噂話が密やかに流れたのは、ガレスが聡明で、魔術にも剣にも長けた秀でた子供だったからだろう。
 当時のニエーネナイ王国の上流階級の人間は、己の私欲に塗れており、その政治は汚職と賄賂に満ちていた。
 それ故に、王に気に入られている子どもの登場に、貴族たちは嫉妬したのだ。
 ニエーネナイ王国の王は、好き勝手に生きていた。気に入ったものは力づくで手に入れた。気に入らないものはあっさりと破壊し蹂躙した。
 ニエーネナイ王国の民にとって、王は絶対唯一の存在だった。たとえ、それがいかに横暴で悪辣であろうと、誰も逆らえなかった。
 そんな国の最高権力者に気に入られることは、この国に生きる者にとっては最重要事項だ。気に入られさえすれば、その後は安泰。逆に、気分を害した瞬間にその首は撥ねられた。

 もしも、ガレスが無知な子どもであれば、彼の王の寵愛を何の躊躇いもなく受け止め、その悪政に対しても何も思うことは無かったかもしれない。
 いや、無知でなく聡明であったとしても、その独裁政治を是とし、ガレス自身がその国のかじ取りをしていたかもしれない。

 ガレスが自国に対し不信感を抱く分岐点。それは、幼き頃のふたつの出会いだ。

 貴族や王族のなかではよくある話だが、ガレスの父は一人の美しい女性を囲っていた。ガレスも数度目にしたが、大層美しい女性だった。
 闇夜の如き黒色の髪は神秘的で、海のように深い青い目は見る者を魅了した。
 どこぞの娼婦か、はたまた没落貴族のご令嬢か、あるいは憐れな街娘かは、分からない。
 ガレスが気付いたころには、既に女性は父の籠の中の鳥だった。
 足の腱を切られ、大声を出せぬよう喉を裂かれた姿は、酷く憐れだった。
 父はその儚い姿を一層好んだようだが、ガレスはその弱り切った姿を見るのが嫌で仕方がなかった。
 それはきっと罪悪感だった。
 そしてその罪悪感が、ガレスにとっての始まりだったのだろう。
 これが、分岐点である一つの出会い。
 
 二つ目の出会いは、彼女と父の子、つまりガレスにとっての異母弟との出会いだった。
 ガレスが彼女の存在を知った時、既に彼女には幼い子供が一人いた。
 不思議なことに、彼女が幽閉されている部屋にガレスが近づくことは、禁じられてはいなかった。思うに、おそらく父はその憐れな彼女を自慢したかったのだろう。
 とはいえ、彼女に対して罪悪感と共に苦手意識を抱いていたガレスがその部屋に近づくことは滅多になかった。
 しかし、ある日偶然その部屋の近くに用事があった際に近づいたとき、侍女の苛立った声と幼子の声を聞いた。
 実弟二人の声とは違うし、そもそも、王族の子に対して侍女が怒鳴ることなどあり得ない。
 気になって見に行けば、黒い髪の小さな子どもを叩く侍女を見た。
 叩かれた子どもは薄手の服を着ていたがボロボロで、傷だらけだった。つい声を掛ければ侍女は慌てて振り返り、何やら言い訳染みたことを喚いていた。
 早口で要領の得ない話だったが、ざっくり纏めると叩かれていた子は、ガレスの父と幽閉されている彼女との間の子供らしい。
 いらない、呪われた子なのだと侍女は言い、あろうことかその幼子を残しそそくさと去ってしまった。
 正真正銘王族の子であるガレスを前に、その「いらない呪われた子」を置いていく拙さに、ガレスは呆れた。動揺していたにしても、その呪われた子をガレスから即座に遠ざけることが、その侍女がやるべきことであったはずなのに。
 ガレスがその子どもに視線を戻せば、子供は酷く怯えた様子を見せた。右目には薄汚れた包帯が粗雑に巻かれており、露わな左目はガレスのものよりも深い赤色だった。
 満足に物を食べられていないのだろう、その小さな身体は華奢だった。小さな身体は傷だらけで、その扱いの悪さは窺い知れた。
 彼を見て、ガレスが抱いたのは同情だ。可哀想だと思った。幽閉された彼女と同じく、きっとこの子どもに明るい未来は無いのだ。
 彼をそこに置いておくわけにもいかずに、話しかけ、手を引き、彼が過ごしているらしい部屋へと連れて行った。
 侍女の様子から、きっと父もこの子どもを良く思っていないのだろうと察していたので、ガレスはそれ以上彼に関わる気は無かった。
 子どもを部屋に押し込んでさっさと身を翻したガレスの服の裾を掴んだのは、小さな手だった。
 自分の意志で小さな手を懸命に伸ばしてガレスを引き止めた子どもは、か細い声で言ったのだ。

 兄上、と。

 名乗ってはいない。初めて顔を合わせ存在を認知したのもその時だ。
 初対面の子どもに、兄上と呼びかけられて、ガレスは咄嗟に反応を返せなかった。

 そこで、反射的に小さな手を振り払えなかったのは、閉じ込められた美しい女性が脳裏を過ったからだ。
 暫し迷った挙句、子どもの柔らかな黒髪を撫で「またな」と声をかけてしまった。やってしまった、と思ったが、子どもが酷く嬉しそうに笑うので、ガレスはますます引っ込みがつかなくなった。

 それから、ガレスは大人たちの目を盗んではその子どもに会いに行った。
 実弟よりも更に年下の子どもが、無条件に懐き甘えてくるのに絆されたこともあったが、それでも一番は罪悪感を覚えたからだ。
 罪悪感を覚えたからこそ、最低限の教育しか施されていなかった彼に、ガレスはこっそりと知識を分け与えた。
 当時12歳のガレスに、6歳の子どもへ教えられることなど限られている。しかし、限られている中で、ガレスは出来る限りの知識を教えたと思っていた。
 後継者であるガレスだからこそ持ち出せる、父の書庫の本をこっそりと持っていってやることもあった。 
 最初は文字すら読めなかったのに、すぐに文字を覚えすらすらと本を読み始めたときには、異母弟こそが天才なのだとガレスは感心した。
 ガレスはよく天才だと誉められるが、異母弟の才能を目の当たりにしてからは、己に天が与えた才能など無いとはっきりと理解した。

 そしてある日。まるで天啓が如く。そう、それはさながら背後から尊き何かに囁かれたように。
 ガレスは理解した。

『この子どもこそが世界の中心である』

 哀れにも、ガレスは理解してしまったのだ。
 己は異母弟の物語の端役であるということを。


END.

優秀過ぎるがあくまで脇役にしかなれない男が、うっかり自分の立ち位置を理解し、納得してしまうお話。を書きたくて断念。