未だ戻らない。





 気だるい身体を起こして見回した室内にいたのは、赤髪の男だった。肩の上で粗雑に切られた赤髪に酷い不快感を覚えるも、男の顔を見ても何も思い出せなかった。
 それどころか、自分が何者で、何処にいるかさえ分からなかった。

 俺はいったい誰だ。そして、俺を見つめるこの若い男は誰で、俺の何だ。

 痛む頭を押さえて問いかける。
 男は驚いたように目を見開いてから、「ファル」と名乗った。そして、俺の6歳下の弟であるとも。
 その言葉に嘘はないようだと何故か確信できた。

 ファルは奇妙な男だった。ちぐはぐなのだ。
 俺のことを兄貴と呼ぶが、時折兄上、と呼ぶことがある。
 普段は言葉使いが荒いのに、時折酷く丁寧で品のある言葉遣いとなる。
 その振る舞いも、例えば大きなジョッキに注がれた酒を一息で飲んだ後、とても洗練された所作で肉を食った。
 そのちぐはぐな行動は、どうやら俺と二人でいる時にのみ、出てくるようだった。

 奇妙なことはそれだけではない。
 ファルは俺の名が「クロノス」であると言ったが、俺はそれに違和感を覚えた。
 それは俺の名前ではない。前の名前は思い出せないが、違うのだと漠然と感じた。
 何故俺の名を偽ったのかは分からないが、それをすぐに問い詰めるよりも、納得したふりをして探るのが得策だと判断し、俺は「クロノス」と名乗ることにした。

 俺の怪我がある程度良くなった頃、ファルは町を出ると言った。
 異論は無かった。その頃には、俺は仔細は分からずとも自分たちの状況をある程度察することができていた。
 
 俺たちは偶然赴いた隣国で、革命に巻き込まれ、怪我をした俺を連れてこの町まで何とか逃げてきたのだと言う。
 俺とファルは孤児で、隣国を挟んだ向こうの国に住んでいたが、ファルが冒険者になりたいと駄々をこねて隣国の冒険者ギルドのある街へと足を踏み入れ、そして革命に巻き込まれたのだと言う。
 随分と杜撰な設定で、呆れるしかなかった。
 ファル自身無理のある設定だと思っていたようだが、それでも撤回するつもりは無いようだった。
 俺とファルがどういった存在なのか分からないが、革命が起きた隣国からできる限り遠くへ行くべきなのだと、ファルの言動から察することは出来た。
 追われているわけではなさそうだが、ある種それに近い境遇にあるようだった。

 そして俺たちは、街を出て同じ国の商業都市へと足を踏み入れた。
 そこでファルが冒険者ギルドに入り、1月過ごした後、国を出た。
 それから街から街へ、国を超え、徐々に革命の起こった国から遠ざかって行った。


 そして6月経ち、全く戻る気配のない記憶に俺は焦り始めていた。
 記憶は戻らない。にも関わらず、俺の奥底で何かが喚いているのだ。

 早くしろ、と。あれを取り戻せ、と。
 奪われた、俺が手にすべきだったものを、奪い返せ。でなければ、逃げられる。
 ああ、ああ。俺のものだ、俺の。銀色がちらつく。憎い。疎ましい。俺が欲したソレを、あれは奪った!赤い色!血の色、炎の色、憤怒の色!!

「兄貴、起きてるか?」
「ああ」

 柔らかな声は、ぐちゃぐちゃになっていたはずの脳内にするりと飛び込んできた。
 目を開ければ、扉の前で淡い赤色の髪の男がどこか心配げな目で俺を見ていた。

 グレーの外套を羽織り、腰に剣を携えていることから、これから出るのだと知れた。

「行くのか」
「招集がかかったんだ。B級以上は必ず出て来いってギルドからのお達しだ」

 肩を竦め、どこか気乗りのしないように溜め息をつくファルの服装を見て俺は溜め息をついた。
 紺色のシャツの胸元が盛大にはだけていたからだ。頓着していないのではなく、わざとなのだろう。

「……おい」
「ん?」
「前は閉めろと何度言ったら分かるんだ」

 胸元のシャツを掴み、ボタンを留める。ファルは複雑な顔をして少し俯いていた。

「暑いんだよ」

 その言葉に、俺は咄嗟にその首に触れていた。ぎょっとしたファルが、一瞬手を動かしかけたのが分かった。

「冷てぇ、って!兄貴!」
「暑いなら冷やせば良い」
「は?!……っ」

 声に出さず、俺は詠唱を告げた。
 俺は氷系統の魔法を使えるのだと、この時初めて気付いたのだった。おそらく、記憶を無くす前の俺が使えていたのだろう。

「あ、……にき、今、何した」
「冷やしただけだ。そんなことも分からんのか」
「そうじゃ……そうじゃねぇよ。今のは魔法だな?」
「魔法以外に何だと言うんだ」

 困惑するファルに何故か苛立ちを感じて俺は少しだけ背の低いファルを睨みつけた。
 ファルは少し沈黙した後、首を緩く振った。

「いや……そうだよな。ありがとな、兄貴。涼しくなった。じゃあ、俺行くけど、無理すんなよ」
「馬鹿にするな。俺はもう治ってる」
「そうかい、兄上!」

 ああ、まただ。

「それでは行ってきます、兄上」

 くるりと、荒くれ者がするには優雅過ぎる仕草で軽やかに踵を返した弟は、普段の野性味あふれる笑みとは異なる、柔らかな微笑を浮かべてこの仮の宿から出て行った。

 窓の方へと移動し通りを見下ろすと、暫くして赤毛頭が通りを歩いていくのが見えた。
 その姿が見えなくなり、俺が再び先程座っていた椅子に腰を下ろした時、カタン、と何かが落ちる音がした。
 振り返れば、二つのベッドの内、ファルが使っているベッドの枕元に何かが落ちているのが見えた。
 ベッド近くの壁に留め金がむき出しになっていることから、どうやらかけられていた絵が落ちたようだった。

 それを何気なく手に取れば、遥か昔の神話の挿絵のようだった。
 神話などと言う稚拙な寓話に何を見出せと言うのか、と先人たちの暇潰しの妄想を鼻で笑う。絵の端にタイトルが書いてあった。『クロノス』。
 有名な英雄の兄の名だ。英雄である弟の為に奮闘する清廉潔白、品行方正な「良い兄」の代名詞。
 皮肉なことに、俺の今の名前でもある。

 馬鹿馬鹿しい、と俺はその絵を握りつぶした。容易に潰れたその絵を炎を作り出して燃やした。
 灰と化したそれを床に落とす。
 根本の記憶は戻らない。
 だが、既に魔法の使い方は思い出していた。
 そして、剣の使い方も。それから、他者を肉体的に痛めつける方法も。
 

▼ ▼ ▼

 
 けして小さいとは言えない怪我を負って、ふらふらと弟が帰って来たのはそれから2日後の夜の事だった。
 できる限り音を立てぬよう扉を開けて室内に身体を滑り込ませたファルは、顔を上げてひっと息をのんだ。
 暗い部屋で椅子に座っていた俺を見て、ファルは思わずと言ったように一歩身を引き、扉に軽く背をぶつけた。その衝撃で我に返ったのか、ファルは慌てて手を部屋の壁に這わせた。
 パチンと軽い音がして、少量の魔力の流れが視えたと思えば、天井から吊り下げられた魔力式の照明が明るく瞬いた。

「あっ、兄貴……!起きてるなら明かりをつけておいてください!驚くだろう!」

 周囲を気にしてか声を潜めながら苦言を呈するファルは、言葉の通り心底驚いているらしい。胸元を押さえているのは、心臓の鼓動が早くなっているのを何とか抑えようとしている気持ちの表れなのだろう。
 俺が軽く椅子を引き立ち上がれば、ファルは僅かに肩を揺らした。まるで警戒するかのように俺の挙動を見つめるファルに近づいて、その腕を掴む。
 そして、逃さぬように軽く扉に押し付けて、少し裂傷のあるその顔を上から覗き込んだ。新緑の目が、ゆらりと揺らめく。
 あにうえ、と掠れた声で呟くその唇は切れて血が滲んでいた。おそらく、討伐対象のゴブリンの攻撃が掠って転んだ時に歯でも当たったのだろう。親指でぐいと擦れば、僅かに涙目になった。
 まだ血の滲む右脇腹の爪の痕や肩の噛み痕の方が痛いだろうに、妙なところで鈍い弟だった。
 肩を触れば、ファルはそこの痛みを思い出したのか顔を顰めた。

「怪我をしたな」
「別に、大した怪我じゃな、痛っ!」

 咄嗟に澄ました顔を取り繕おうとしたファルの肩に爪を立てれば、ファルは悲鳴にも似た声を上げた。右脇腹を掴めば、痛みを我慢できなかったのか、反射的にファルは俺を渾身の力で押し返そうとした。
 しかし、ファルの力が俺に及ぶわけもなく、僅かに俺を押し返しただけに終わった。痛みに俯きぶるぶると震えたファルは、ぎこちない動きで顔を上げた。
 ゆらゆらと水気に揺らめく緑は宝石のように煌めいている。

「大した怪我ではないのだろう?」

 鼻で笑って問えば、ファルは文句を言おうとしたのか開きかけた口をぐっと閉じた。それから眉間に皺を寄せて、数秒黙り込んでから、消え入るような声で「痛い」と認めた。
 俺はファルから身を離し、左腰から腕を回してファルの体を引き寄せ、半ば引き摺る様にベッドルームへと連れて行くと、ベッドへと放り投げた。

 ベッドに倒れ込んだことで傷に響いたのか、ファルは痛みに呻いている。そのベッドに腰掛ければ、男二人分の重みに、ベッドはぎしりと軋んだ音を立てた。
 ベッドに沈み込んでいる弟を見下ろせば、ファルはぐったりとした様子で力なく俺を見た。身体を横たえることで、痛みに加えて体の疲れが如実に表れたようだ。
 起き上ろうと試みたようだが、ベッドに沈んだままなのはきっと身体がほとんど動かないからだろう。
 緑の目をぼんやりと瞬かせる姿は何処か幼い。

「……兄上」

 言葉は返さずに見返せば、ファルは僅かに体を丸めた。

「……いたい。つかれた」
「そうか」
「いたいし、ねむい」
「そうか」
「うん……」

 髪と同色の赤い睫毛が揺れる。本人は眠いと言うが、これはおそらく睡魔と言うよりは気を失いかけていると言った方が良いのだろう。
 投げ出された指先に軽く触れた。些か冷たい。微睡む瞳を閉じさせるため、瞼の上に手を置けば、ファルは細く長く息を吐いた。

「……眠ったか」

 答えはない。完全に意識を失ったようだ。それもそのはず、この怪我は軽い血止め程度の治療しか為されていないのだ、この脆い身体にはそれだけでも負担になる。
 血と泥とで汚れた服を半ば裂くように脱がせれば、右脇腹と肩からはじんわりと血が滲み出ていた。

 俺よりも僅かに白い身体は、意外にも綺麗に筋肉がついていた。肩の傷をなぞる。胸を辿り、腹に触れ、右脇腹に手を当てる。
 肩の傷も、右脇腹の傷も、いつどこで負ったのか、俺は知っている。その怪我の深さも、治療の甘さもすべて。
 この拙い治療で済ませようとするなど、愚かだとしか言いようがない。

 軽く魔力を流して、右脇腹と肩の傷を塞いだ。ぼろ切れと化した服は床に放り棄て、俺はベッドから腰を上げた。白いシーツに赤毛を散らばらせて昏々と眠る男を暫し観察した。
 苦しげにしていた顔は、傷を塞いだからか少しばかり緩んでいる。しかし、3日前に見た寝顔よりは些か固い。眼の下にはうっすらと隈が出来ていた。この2日間、気を張っていてろくに眠っていなかったからだろう。
 何となく触れた首は、華奢では無いが、俺が力を入れればすぐに圧し折れるはずだ。

 この弟は弱い。そこらの人間より多少戦えるが、それだけだ。
 それを本人も自覚しているはずである。それなのに、何故、冒険者になったのか。
 この男は何を隠している?何故、俺の記憶が戻るのを恐れている?俺が怖いのか。それでは、何故、今共にいる?

―――何故、俺はこの男と共に居るのだろうか。

 ギシ、とベッドが軋む。ファルが身じろぎをした音だった。力を込めかけた手を、ファルの喉元から離した。

「呑気なものだな」

 この俺の前で無防備に眠る弟を見ていると馬鹿馬鹿しくなってきて、俺は元から予定していた事を為すことにした。

 黒の外套を羽織り、三度瞬く。
 ファルを含め、今回の討伐に駆り出されたB級冒険者どもは詰めが甘い。殺し損ねたゴブリンが何匹いるのか、考えたことがあるのだろうか。
 あの戦果で討伐依頼完了を認めたギルドは一度潰れた方が良いだろう。

 殺され損ねた獲物は、きちんと殺しつくしてやらねばならない。

「さて、首を撥ねて、中身を引きずり出してやらねばならんな」

 俺のものを勝手に傷つけたのだ、処刑されるべきである。


END.


異母兄さん:現在も記憶喪失中のお兄さん。ただし魔法や戦い方などは思い出した模様。とあるクエストで一度弟が死にかけて以来、弟がどこかへ行くときは必ず千里眼で見守るようになった。真っ暗な部屋だとよく視えるため見守り中は一切明りはつけない。悪役系強面30代男性が真っ暗な部屋の椅子に座り寝ることもなくじっとしている姿は傍から見たら滅茶苦茶怖い。ちなみに自分がしていることに一切疑問を持っていない。

異母弟くん:兄上の記憶が戻ったかと一瞬疑うも、臭いものには蓋をするが如くその可能性をそっ閉じすることにした模様。最近兄上が真っ暗な部屋で息を潜めて帰りを待っているのがちょっと怖い。ビビるから先に寝ててくれと言いたいが言えない。怪我して帰ったら兄上が怖いので隠そうとするがすぐバレる。