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 気だるい身体を起こして見回した室内にいたのは、赤髪の男だった。肩の上で粗雑に切られた赤髪に酷い不快感を覚えるも、男の顔を見ても何も思い出せなかった。
 それどころか、自分が何者で、何処にいるかさえ分からなかった。

 俺はいったい誰だ。そして、俺を見つめるこの若い男は誰で、俺の何なのだ。

 痛む頭を押さえて問いかける。
 男は言った。

「……俺はファル。あんたの弟だ」

 違和感を抱く。

「俺は冒険者になりたくて、隣国のギルドがある町に行ったんだ。兄貴は……俺についてきてくれて。それで、革命に巻き込まれた」

 不信感を抱く。

「何とか隣国を脱して、この町に転がり込んだんだ」

 男は嘘をついていた。少なくとも俺は男の語る言葉を全て嘘だと思ったのだ。
 じわりじわりと這い上がる不快感。それをひとまず飲み込んで俺は再び問いかけた。

「……俺は誰だ」

 男は一瞬、部屋の壁にある絵に視線を向けた。それから、躊躇いがちに呟いた。

「クロノス。兄貴の名前は、クロノスだ」

 ああ、この男は嘘をついている!この俺に、この男は、弟は嘘をついた!
 この俺が、クロノスだと?

 この小さな宿屋にすら絵画が置いてある、誰もが知っている有名な英雄の兄の名だ!英雄である弟の為に奮闘する清廉潔白、品行方正な「良い兄」の代名詞!

 ありえない。この名ほど、この俺に相応しくないものはない。

不愉快だ、この俺にその名を名乗れと言うのか、ファルマディアス!!!

 王の座を目の前で奪われたことを思い出した。この俺が無様に剣で貫かれ瀕死となったことを思い出した。下賤で汚れた血を引く銀の男を思い出した。
 怒りに目の前が赤く染まる。顔をあげ、俺は血の繋がりがある弟を見た。

 あの美しい豊かな赤い髪は粗雑に切られていた。あの傷ひとつ無かった象牙の肌は荒れ、傷がついていた。草臥れた服を着て、ベッドに横たわる俺を見下ろしていた。目の下には色濃い隈がはっきりと見てとれた。
 そんな王族とも分からぬ格好で俺を見下ろすファルマディアスは、その緑の目を細め、眉を寄せ、ぽつりと言った。

「……兄上。生きていて良かった」

 あり得ぬはずなのにその声に安堵の色を感じて、俺はこの男に吐き捨てるべき言葉を飲み込んでしまった。

 あり得ない。誰だ、この目の前にいる男は。
 あれは俺を恐れていたはずだ。俺が生きていることに安堵するはずがない。
 革命が起きた今、嬉々として国を捨てるだろう男が、恐れていたこの俺の死を願わないはずがないのだ。

 ずきり、と頭の奥が痛む。

「……なぜ。なぜ、俺を助けた」
「………」
「この怪我だと、運ぶのも楽ではなかったはずだ。おまえはなぜ、俺を助けた……ファル」

「……兄を助けることに、理由は必要ですか」

ーーーここで貴方を見捨てられるほど、貴方のことが嫌いではない。逃げましょう、兄上。共に逃げるのが嫌であれば、せめてその怪我が治るまで。

 奇妙なことだった。今も、そしてあの時も、俺を見下ろす緑の目に恐れの色がないのが、不可解だった。

 おまえは、俺が嫌いではなかったのか、ファルマディアス。


△ △ △


 俺を産み落とした女は、この国の王の1番目の側室だった。女の悲願は、王の母となること。
 後継者を、正妃よりも早く、一番最初に産むことで、女は悲願に一歩近づいた。
 あとは息子である俺を王位につけるだけ。しかし、そう簡単に事は運ばない。
 俺が生まれた1年後、王妃に子供が生まれたのだ。男児であった。
 長兄ではあるが、側室の息子。
 第二子ではあるが、王妃の息子。
 この二人が王位を争うのだと当時の者は予想しただろうが、加えて他の側室までも次々と男児を産んだことで、王位継承争いは泥沼と化した。
 王の血を引く王子は5人。そのうちの4人が王位を巡って対立することとなった。

 俺は、俺を生んだ母の野望などどうでも良かった。しかし、それはけして、王位を狙わないと言う理由にはならない。
 俺は王になりたかった。
 単純な話だ。他者が俺の上に立つことが腹立たしかった。他者に追従することなど反吐が出る。他者に頭を下げる?膝をつく?嗚呼、嗚呼、何と忌々しい!何度、父である国王に命令されてその首を切り落としたいと思ったことか。
 兄弟などただの邪魔な障害物でしかなかった。俺の玉座を狙う不届き者どもめ。
 何度始末しようと思ったか。しかし王位を争っているのは周知の事実で、下手に手を出すのも得策ではなく、俺は耽々と奴らを殺すタイミングをうかがっていた。
 躊躇いなど覚えなかった、元々、奴らに情など無い。大体、奴らに限らず他者に情など抱いたことなど無かった。
 俺の配下が全て俺を恐れていることなど知っていた。恐怖は人を従わせるのだ。気に入らぬものは須らく殺した。甘さなど見せなかったし、そもそも甘さを抱くことも無かった。

 しかし、分からぬ生き物がいた。王位争いに参加していない6歳下の異母弟だった。
 あれは王位に全くの興味を示さず、そしてその母親もまた同じであった。当初その話を人づてに聞いたときは、何を馬鹿なと鼻で笑ったものだ。
 どうせ周囲を油断させるための方便である。その愚策を暴いてやろうと、俺はあれに会いに行った。あれが生まれて6年経った日のことだった。

 この国の側室には、王城の敷地内に別棟が与えられる。基本的にその別棟に足を踏み入ることができるのは王と、その側室に仕える人間くらいで、たとえ兄とは言え、否、異母兄だからこそ、俺が足を踏み入れることは通常容易ではない。
 しかし、使用人に幾らかの金を握らせれば、俺はあっさりとそこへ入ることができた。
 他の兄弟の住む棟であればけしてあり得ぬことだ。その警備の杜撰さに、最初はこれもたくらみの一部かと疑った。
 しかし、俺を恐れて目を伏せる者は居ても、俺を言葉巧みに追い出そうとする輩も、見張るような者もおらず、俺は本当にここに王族が住んでいるのかということ自体を疑った。
 子どもは、敷地内の一角にある中庭にいた。俺に背を向ける形で座り込んでいる赤い髪の子どもは、俺が背後に立っても気付かない。雑草を片手に、熱心に眺めているのは古びた本のようだった。
 黄ばんだ紙に黒のペンで書かれているのは、異母弟が手に持つ雑草に似ていた。図鑑のようにも見えたが、その本よりも遥かに出来が良いものなど、無数にある。わざわざそのような古びたものを眺める意味が分からなかった。
 しかし、どうでも良い。そんなことよりも、俺にとってはこの子どもの真意を暴くことの方が重要だった。

 何故、他の兄弟どものように王位を狙わないのか。ただそれだけが、俺がこの子どもを気にするたった一つの理由だ。

 暫くして満足したのか、赤毛の異母弟は小さな手でパタンとその本を閉じた。そこでようやく、俺はその本が何だったのかを知った。
 それは勇者の本だった。悪しき竜に攫われたどこぞの王族の女を救うという陳腐な冒険譚が綴られた本だった。先程開かれていたページは挿絵の部分だったのだろう。
 
 ここで俺は初めて、口を開いたのだった。

「ファルマディアス」

 華奢な肩が揺れる。慌てて振り返ったファルマディアスは、後ろに佇んでいた俺を見上げた。新緑の瞳にははっきりとした恐怖が浮かび上がっていた。
 異母弟は怯えた様子を隠しもせず、雑草にしか見えない白い花を握りしめたまま、その新緑を揺らして小さな声で呟いた。

「あにうえ」

 舌っ足らずに喘ぐように俺を呼んだ声には恐怖と困惑しかなかった。これは俺を怖がっていた。そう、怖がっていたのだ。ただ、それだけだった。
 歪む。俺は自分の唇の端が僅かに吊り上がったのを感じた。

 この子どもに、この俺の玉座を奪うような豪胆さはない。
 この子どもは、この俺を見捨てることはできても、この俺の命を奪うことはできない。

 我が異母弟ファルマディアスは俺の脅威になり得ない。このちっぽけで、脆弱で、小心な子どもは、そう、ただの子どもだった。何もできない、弱い子。

 その場に膝をつき、ファルマディアスと目を合わせれば、ファルマディアスはますます縮こまり、恐る恐る俺を見返した。潤んだ緑の目は、エメラルドにも似ている。
 俺が無言で眺めていると、ぱちり、とその緑が瞬いたと同時に、小さな雫が散った。俺を見る目には、相変わらずの恐怖の色。それしかない。それが愉快だった。これほど愉快だったのは、さて、今まであっただろうか。

 今度ははっきりと、口角が吊り上がった。気分が良かった。久しく気分が良かったことなど無かったので、高揚した。
 俺を脅かすことのできる立場にいるにも関わらず、その一切も抱いていない幼い異母弟。これから先も、そうであるべきだ。そうであらねばならない。

「今日で6歳になったと聞いた」

 俺の言葉に、おどおどと緑の目が彷徨う。それから、小さな喉をこくりと鳴らすと、消え入りそうな声で「はい」と答えた。他の異母兄弟どもであれば、怯えながらも生意気な目をしそうなものだが、ファルマディアスはやはり怯えしか見せなかった。
 嗚呼、何と情けない姿か。これでは、この異母弟の周囲の者もこれを王位に据えることを諦めるのは当然のことと言えよう。
 俺は異母弟がいつの間にか取り落としていた小さな草を取り上げた。あ、と思わず漏れ出たような掠れ声は無視して、それを観察する。
 小ぶりな白い花を携えたそれは、後に気まぐれで調べて分かったことだが、煎じて魔力を込めれば薬になる植物らしい。しかし珍しいものでもないそれは、当時の俺にとっても今の俺にとっても、やはり雑草でしかなかった。
 本人の意識はどうであれ、王族の子どもの住まう庭に植えるには些か不釣り合いな植物である。しかし、軟弱な異母弟には似合いのものにも見えた。
 握れば朽ちそうな花を、その赤い髪を分け入って耳に掛けるように差し入れた。触れた髪は子供特有なのかさらりと滑らかで、己のものとは随分違うようだとどうでも良いことを考えたのは、悪意も策略もない無防備な子どもを前にしているからか。

「あにうえ?」
「おまえには似合いの花だな」

 踏み潰されればすぐに散り、手を伸ばされれば容易く引きちぎれる弱々しい存在である。この花も。この異母弟も。

 俺が手を下さずとも良いだろう。どうせ脅威にはならぬ。他者と争う気概も無い弱者を排除するなど無駄なことだ。
 だから。

「……ありがとうございます、あにうえ」

 怯えていた緑の目が閉じられ、擽ったそうに笑う異母弟にそれ以上言葉をかけることなく無言で立ち去ったのは、それ以上そこにいるのが無駄だと思ったからだ。