死んだ町





 シュムリスという町の小さな資料館に勤めている私は、顔立ちは父譲りで華やかだと言われることも多いが、しかし、その容姿という要素を抜かせば何処にでもいる平凡な男だった。
 勉強も運動も人並みで、他者の心を掴むようなカリスマ性とも言えるものも持ち合わせてはいない。何か人よりも優れている性質があるわけでもないので、私のことを「顔だけは良い男」と思っている者も少なくはないだろう。その評価はもっともだと思うので怒りがわくこともない。
 他人は最初、どうしたって私を過大評価するらしい。ある人は私を目標とすべき人物であると思い、ある人は私をライバルに値する人物であると思い、ある人は私を完璧な男だと崇拝し、そうして何かしらの畏怖を抱く。
 しかしそんな評価も、私と接する内にすぐさま逆転し、結果「顔だけの男」だと指さされたことは多い。自分は他人と比べて秀でていることがないと分かっているためその評価に納得はするが、しかし他人より劣っているとも思っていないので、正直複雑な気分も多少はある。
 私としては何でも人並みにこなせている自信はあるのだが、如何せん最初の評価があまりに高すぎるせいか、駄目な男だと思われがちなようだった。何ともやるせないことである。
 こんな私なので、親しい友人は悲しいことに、いない。ああ、この点においては私は平凡な男ではないのかもしれない。平凡な男には、親しい友人の一人や二人はいるはずだ。

 はあ、と一つ溜め息をつく。滅多に人がこない町の資料館は静かすぎるので、私の溜め息は想像以上に大きく響いた。
 私の仕事は資料館の管理。片田舎の小さな町ながら、このシュムリスはそこそこ歴史があるので資料は多い。しかしこの町の歴史などに殆どの人は興味を持たないので、利用客も少なく、私は非常に暇を持て余していた。
 手持ち無沙汰に開いていた数十年前の町内の記録を眺めながら、私は座っていた椅子の背もたれにもたれ掛かった。ぎい、とさびた鈍い音がした。この椅子はもう長く使われていてぼろぼろだった。しかし買い換えるような金も無し、私も気にはならないのでそのままだ。
 ぱらぱらと何となく記録をめくる。物語とは違い簡潔に町内の出来事が淡々と記されているそれは、面白味に欠ける。そんな歴史家からは怒られそうなことを思ったその時、低い男の声がした。

「なあ」

 私は驚いた。今、この資料館には私しかいないと思っていたからだ。資料館の扉はどれだけ細心の注意を払おうが長年の劣化のためか耳障りな音がするので、数少ない利用者の訪れはすぐに分かる。
 静寂の中、突然聞こえた男の声は、私の人並みの心臓を叩くには十分で、私は持っていた資料を手放してしまった。
 ばらばらと落ちていくそれは、しかし運が良いことに私の目の前のカウンターデスクに広がった。全く埋まっていない利用者名簿を、町内の記録が覆い隠す。

「そんな化け物が出たみたいな顔で驚かれるとはな」

 気分を害した風もなく喉奥で笑う男が、カウンターデスクを挟んで私の目の前に立っていた。男の言葉通り、私は酷く驚いた顔をしている自覚はあった。
 本当に、私は彼の存在に彼が声を発するまで全く気付かなかったのだ。私からすれば、彼は何もない空間から突然現れたに等しい。

「あ、ああ……申し訳ない、全く気付かなかったものだから」
「まあ、俺も急に声かけて悪かったよ」

 私がデスク上のばらけてしまった資料を集めてそう言うと、彼はしゃがみこみながらそう言葉を返してきた。どうやら、数枚は床に落ちてしまっていたらしく、それを拾ってくれたようだ。

「……なあ、これってこの町の記録か?」
「え?ああ……そうだが」

 拾った資料に目を通した男の問いに、さして隠すこともないと私は頷いた。その資料は、持ち出しは厳禁だがこの資料館内であれば誰でも自由に見ることができるものだった。男はふぅんと呟いてから、私に尋ねた。

「あんた、この町出身?」
「ああ。そう言う君は、旅行者か?」
「旅行者、ね……」

 何か含みを持たせるように呟いた後、男はにんまりと笑った。拾った資料をデスクに放って、彼は両手をデスクにつき、椅子に座る私を見下ろした。
 初対面の男のその気安い、否、馴れ馴れしささえ感じられるその近さに私は困惑した。
 そこで初めて、私は男の出で立ちに注目したのだった。

 男はどうやら私よりも幾ばくか年下のように見えた。おそらく、20歳を少し過ぎた頃だろう。
 口元や耳には毒々しい赤色のピアスをつけており、デスクについた手の指にはあまり良い趣味だとは思えない太めの指輪が数個はめられていた。手の甲には奇妙な文様の刺青が入っており、正直、関わりたいとは思えないタイプの若者、それが彼の第一印象だった。
 身長はおそらく私と同じくらいで、平均よりは高めだ。黒いシャツに黒のズボン、グレーのクロークを羽織っている姿と、この町では見たことのない顔だということもあって旅行者だと私は判断したのだった。

 男はどこか不気味な笑みをそのままに、珍しい黒い目を三日月のように歪めて言った。

「なあ、お兄さん。俺、この町のこと知りてぇんだけど」
「この町の?」
「ああ、ここシュムリスのな」

 私は再び困惑した。この町は長く存在しているが、それだけだ。歴史上重要な町ではないし、きっと国の歴史書には載らない町なのだ。そんな町のことを知ろうとするのは、この町の子どもくらいだろう。学校で、町の歴史を調べて発表するという課題が出るのだ。かく言う私も、20年ほど前にその課題をこなしたものだ。
 調べてみても、特に面白いことはなかった。そう、私も例に漏れずこの町へ興味を持つことはなかった。にもかかわらず、今やその町の歴史をしまう場所を管理しているのだから、不思議なものだった。
 私が幼い頃、ここの管理人は年老いた男だった。戦か何かで負傷したのか、足が不自由で杖を突いていたのを今でも覚えている。しかし、私は彼がいつこの資料館の管理人から外れたのかは知らない。私がここに勤めることになったときには、既に彼はいなかったのだ。
 私がこの資料館に勤めることに決めたのは、役場で募集の張り紙を見たからだった。
 私のこの、言うなれば「勘違いされやすい性質」は、集団の中に入り込むには些か不利であった。私は凡人だと自負しているにもかかわらず、凡人が就く仕事に就くことは叶わないのだと成人する前にははっきりと自覚していた。私は、集団で働く職場には向いていない。
 だから、この人が滅多にこない資料館の番人は私の性質上天職とも言えたのだ。そして、私を知る誰もがそう思っていることだろう。
 さて、この旅行者からの思いもかけない言葉に少しばかり考え込んでしまったわけだが、黙り込んだ私を男は特に急かすことなく見つめていた。その目がどうにも居心地が悪いというか、じろじろと観察されているような心地になって、私は一つ咳払いをした。

「知りたいとは、いったい何を?正直、この町の生まれの私が言うのも何だが、ここは何もない町だ。観光名所もないし、特に有名人を排出したわけでも無い。地理的に戦禍に見舞われなかったから長く続いているが、それだけだ」
「何もない?本当に?」

 わざとらしく首を傾げる男に、私はそうだと答えるしかない。真実、私が知る限りこの町に観光に値する場所も、町をあげて誇るような人間もいないのだ。

「……なるほどな。じゃあ、この町のことが書かれた本、貸してくれよ」
「悪いが貸し出しはしていないんだ。ここで閲覧する分には問題ないんだが」
「別にそれで良い」

 私は集めた町の資料を脇に寄せ、デスク上の利用者名簿をトン、と指で叩いた。

「それでは、ここに名前を」

 ペンを差し出すと男はそれを受け取り、ちらりと私を見た後さらさらと名簿に名前を書いた。ロイズ・クロイス、それが男の名前のようだ。
 私は椅子から立ち上がり、カウンターの中から出た。クロイスは私の動きを追っている。
 
「当館の資料は原則持ち出し厳禁だが、開館時間内であれば自由にしてくれて構わない。君が読みたい本はおそらくここに……どうかしたか?」

 記憶を辿り、彼が求める資料がある棚へと案内しようと振り返れば、クロイスはじっと私を見つめていた。何かを疑うように、探るように。その視線の意味が私には全く分からなかった。

「ご丁寧にどーも」

 彼は私から目を離すことなく、足音無く近づいてきた。私はまるで蛇に睨まれた蛙のごとく、その場に立ちすくんでしまった。方角を指し示そうとあげかけた手は、いつの間にかだらりと垂れ下がっていた。口を開こうにも、私の口周りの筋肉はうまく動いてくれず、結果私はただ情けなく棒立ちのままになっていた。

「案内、してくれねぇの?」

 私の肩に、奇妙な刺青の入った手が触れる。耳元で囁くように言われ、私はぎょっとして彼を見た。至近距離で見たクロイスの顔は、まるで昔見た道化のように愉快げに歪んでいた。
 私は彼が怖かった。その出で立ちや浮かべる表情もだが、それ以上に、何故か彼が私の目の前に立っていることが怖くて仕方がなかった。しかし、私は何故彼をここまで怖がってしまうのか、自分の事ながら分からなかった。
 ごくり、と喉を鳴らし、私はようやく口を開いた。

「……こっちだ」

 身体を動かせば、軽く触れるだけだった彼の手はあっさりと離れていった。そのことに安堵しつつ、私は再び歩き始めた。
 館内の中、この町の歴史資料が保管されている棚へと彼を案内する。
 クロイスは棚の前に立ち、へえ、と小さく声を上げた。私は彼へ目を向けず、踵を返した。

「私はカウンターにいるから、自由にしてくれていて構わない。閉館時間は18時だから……あと3時間だ」

 私の言葉に、クロイスは「はいよ」と気軽な声で返してきた。



 ぎい、と資料館の入り口の扉が開く音がして私は暇潰しに眺めていたものから顔を上げた。のしのし、と入り口からこちらへ歩いてきたのは、役所に勤める役人の一人だった。普段は眠たそうに瞬かせている目を今は大きく見開いて、きょろきょろと見回している。
 どうしたのかと尋ねれば、人を捜しているのだと役人は言った。余所から来た男を捜しているのだそうだ。
 それを聞いて、私はふと彼の存在を思い出した。

 彼を案内した棚へと目を向けるが、そこには誰もいなかった。役人が私にどうしたと尋ねてくる。

「いや……君が探している男かは分からないんだが、今日、珍しく利用者がいたんだ。おかしいな」

 他の棚にいるのだろうかと、椅子から立ち上がり私は棚のある場所を見てみたが、この資料館には私と役人の二人しかいないことが分かっただけだった。
 この資料館から出て行くには、カウンターデスクにいる私の目の前を通らなければならない。そして、私は彼を見ていない……と思うのだが、彼の訪れにも気付かなかったから、もしかしたら私が見逃してしまっただけの可能性もある。
 首を捻る私の後ろを役人が着いてきているのには気付いていた。彼が杖の代わりに使っているらしい棒が、軽く床を引っかくのが聞こえていたのだ。

「利用者ももう帰ってしまったみたいだ。期待させてしまったみたいで、悪かったな」

 役人は気にするなと肩を竦めた。その仕草に、私は少し嬉しくなって小さく笑った。
 私には友人がいない。それは、私の勘違いされやすい性質が主な原因であると、私は思っていた。
 しかしここ最近、私に普通に接してくれる人が増えたように思うのだ。それは、この資料館に勤めだしてからのように思う。

 たとえばこの役人は、私が日がな一日ここで暇をしていると知ってか、よく顔を出してくれる。そして私と少し話をしてまた仕事に戻っていくのだ。

 役人は自分の探し人はここにいないと知ると、私に紙袋を一つ預けて仕事へと戻っていった。
 紙袋を開ければ、パンが二つ入っていた。これは夕飯の足しになる。気分が良くなったところで、教会の鐘が鳴るのが聞こえた。
 それは18時を告げる音で、私の終業の合図でもある。

 カウンターデスクに紙袋をおいて、私は資料館の奥へと向かった。戸締まりと整理整頓、掃除をしてから戻ると、カウンターデスクの前に一人の男が立っていた。
 ロイズ・クロイスだった。

「君は……いったいどこにいたんだ?」
「ん?ああ、一回出て戻ってきたんだ……つーか、これ何?」
「パンだ」
「どこの」
「貰い物だから、どこかは分からないんだが。紙袋も無地だしな」
「ふぅん。それって、さっきここに来たのが持ってきたのか?」
「そうだが……何なんだ、君は」

 さすがにこの詮索には私も辟易してしまった。少しばかり固い声になってしまった。
 すると彼は、両手をあげて首を振った。

「おっと、悪い、悪い。ちょっと気になっただけだ。俺、この町に今日は泊まろうと思ってんだけど、美味いパン屋知ってんなら教えて欲しかっただけ。ついでに、美味い飯屋も」
「悪いが、私はあまり外食はしない質なんだ。だが、貰う食べ物は全部美味いから、何処の店でも外れはないんじゃないか?」
「なら良いんだけどよ」

 私の言葉を信じていないのか、彼は唇の端をちょいと上げて、肩を竦めた。それから私の手元に目線を落として言った。

「もうここは閉じるのか?」
「18時の鐘が鳴ったからな。悪いが、今日は閉館だ。君も出てくれ」

 彼は特に抵抗することなく、踵を返して資料館の出入り口のドアへと向かっていった。彼は鈍い音を立てて扉を開いた。私は資料館の電気を落とすと、彼の後に資料館から出て施錠する。
 私が歩き出すと、クロイスは私の隣を歩き始めたが、この資料館から町の大通りに出る道は近道を除いてこの一本しかないので仕方がないと言える。暫く歩くもどこか気まずく、私はそれまで頑なに見ようとしていなかった彼に目を向けて話しかけようとした。

 しかしそれも、泥だらけの子どもが私に軽くぶつかることで中断されてしまった。元気一杯駆けていく子どもを追いかけてか、もう一人、子どもが走ってくる。その子は先ほどの子とは違い、私に気付くとくしゃりと顔を綻ばせて手を振ってきた。
 その人懐こい様に私は頬を緩めつつ、手を振り返した。これも最近変わったことだ。私にこうして快く挨拶してくれる子どもが増えたのだ。

「元気なのは良いことだが、怪我をしないようにな」

 私の言葉に頷いて、その子は手にきらきらと光るものを持ちながら先ほど逃げていった子を追いかけに行った。それを見送り、私ははっと隣の存在を思い出した。
 慌てて隣を見れば、そこには誰もいなかった。

「いつのまに……」

 今日はこの町に泊まると言っていたし、おそらく宿にでも向かったのだろう。そう結論づけて、私は自宅へと向かうことにした。


 私の自宅は、町の東にある小さなアパートメントだ。両親が他界してしまったタイミングと資料館へ勤めだしたタイミングが重なったので、広い家にいるのも寂しく小さな部屋を借りたのだった。
 自宅へと戻った私は、まず、あの役人から貰った紙袋をリビングのテーブルに置いた。それからパンを取り出して、甘く軋む胸に苦笑した。

 困ったことに、私に遅い春が来てしまったのだと自覚したのはつい最近のことだ。
 相手は、このパンを差し入れてくれたあの役人だった。
 私よりも頭一つ分は背が高い、立派な体格の男であるが、しかし、私が彼を好きになってしまうのは仕方がないことだと思って欲しい。
 今までろくに友人もおらず、それどころか勝手に勘違いされ勝手に落胆されて遠巻きにされていた私に、初めて普通に接してきたのがあの役人だったのだ。
 そもそも、この資料館の募集の張り紙を教えてくれたのもあの役人だった。
 今ではもう覚えていないのだが、何かショックなことがあってやる気も生きる気力もなくふらふらと役場へ赴いた私に、あの役人は資料館の管理人という職を与えてくれた恩人だった。それだけでも私にとっては青天の霹靂、感動すべきことだったのだが、役人は度々資料館に顔を出して私の話し相手になってくれた。
 単純だと言われてしまうかもしれないが、しかし、私はそれだけであの役人に好意を持ってしまった。それが友情であればまだしも、恋情であったのだから、私はどこかおかしいのかもしれない。
 
 そんなことをつらつらと考えながら私は貰ったパンと、作り置きしていたシチューを夕食として食した。

 私のアパートメントを叩く音がしたのは、食事を終えてきっかり2時間後のことだった。
 私は最初、自宅が叩かれているとは思っていなかった。なぜなら、私のこの住まいに尋ねてくる者は今まで一人もいなかったからだ。
 しかし、数度叩かれたことで、私は誰かが尋ねてきたのだと気付いたのだった。

 自宅のソファでくつろいでいた私は、慌てて立ち上がった。誰が尋ねてきたかは全く思い浮かばなかったが、待たせるのも悪いと思い、足早に玄関のドアを開いた。
 そして、私は呆気にとられたのだった。

 右手に杖替わりの重たそうな棒を携えた上背のある男が私を見下ろしていた。眠たそうな半眼の目が私を見ていた。その目に赤みが差しているのはここ最近仕事が忙しいと言っていたから、きっとそのせいだろう。彼は多くの仕事を抱える役人だった。彼はどうやらやり手らしいのだ。
 私は思いも寄らなかった相手の登場に戸惑いつつ、かろうじて、どうしたのだと問うことができた。役人は、様子を見に来た、と言った。
 おかしな事を言うものだ。先ほど会ったばかりじゃないか。そんなことを言うと、役人は首を振って、心配なことがあるから、と言った。
 役人が言うには、どうやらこの町に危険人物が足を踏み入れたらしい。ここ数年、事件など滅多に起きないこの町にしては珍しいことだった。
 役人は、私の腕を優しく掴み引っ張った。どうやらどこかへ連れて行きたいようだ。
 戸惑いはつきないが、好意を抱いている相手の手を振り払えるはずもなく、私は彼に従うことにした。
 役人は、右手に持っていた棒を軽々と持ち上げて肩に担いだ。銀色に光るそれから、ぽたぽたと水滴が落ちていた。雨でも降ったのだろうか。
 いや、それよりも、それは杖替わりじゃなかったのだと私は今更ながらに気付いた。いつもけだるそうに歩いているし、私はてっきり彼の足が悪いものだと思っていた。
 役人に尋ねると、仕事道具だと言っていた。なるほど、それは肌身離さず持っていなければならないだろう。
 納得する私の腕を引いて、役人は歩き始める。


 真っ暗な夜だった。この町では数年前から街灯がつくことはなくなった。しかし、今も皓々と輝く星空を見れば、街灯いらずでも問題ないように思うので、気にならなかった。
 役人は足早に、私の手を引き歩いていく。ぱしゃぱしゃと、水溜まりを踏んではそれが跳ね、私のズボンを濡らしていく。
 ふと視線を感じて顔を上げれば、帰路の途中で会った子どもが私に手を振っていた。その子どもは、どうやら追いかけっこに勝利したようで追いかけていた子どもを掴んで立っていた。捕まった子どもは落ち込むようにがっくりとうなだれている。
 近くで呻き声が聞こえてそちらを見れば、最近挨拶するようになった近所の老人が灯りのついていない街灯の下に立っていた。にこりと笑って手を振ってくるので、私は手を振り返した。

「私たちは何処に行くんだ、役人さん」

 私は役人の名前を知らないので、そう呼んだ。彼だけではなく、私はあの子どもの名前も、先ほど立っていた老人の名前も知らない。
 なぜなら彼らは名を名乗らないからだ。

 私に話しかけられた役人は、緩慢に振り返ってその半分縫いつけられた口を億劫そうに持ち上げた。

「あ、あ゛、ゥウ」

 どうやら、彼の家に連れて行ってくれるようだ。
 私とは異なり、三つの目を持つ役人は、半ばどろどろに溶けた目を細めて笑った。
 その笑みに、私もまた笑みを返した。




 一目見たとき、思わずはっと息をのむ程度に整った顔立ちの男が、真っ暗な夜の町を歩いていく。
 その男の手を引くのは、大きな鉈を担いだ異形の生き物だった。かろうじて二足歩行という人型を有しているが、その見た目は醜悪で、そういった生き物を見慣れているロイズ・クロイスでもあまり対峙したいとは思えなかった。
 しかし、そんな生き物に大人しく手を引かれ、あまつさえ笑顔を向ける男は、正気を失っているとしか思えなかった。否、失っているのだ。

 ここはシュムリス。輝かしき歴史も観光名所もない町だったが、5年前に馬鹿な魔術師がこの町の住人を犠牲にして何かを召喚しようとして失敗したために、一躍有名な町になった。
 異形の化け物が跋扈する「死んだ町」となった。
 足を踏み入れれば化け物に襲われ、命からがら逃げられた者は幸運で、大概は町から戻らずそのままだ。
 町の中で、いったい何が起きているのか、誰にも分からなかった。分からなかったからこそ、ロイズ・クロイスにお鉢が回ってきたのだ。
 正直蹴り飛ばしたい仕事だったが、ロイズにも事情があり嫌々町へと足を踏み入れたのだが、実に面白いものが見れたのでロイズの機嫌は大層良かった。
 町の中はそれは凄惨な有様だった。人型や不定形、獣の形をした化け物が彷徨いていた。それらは、町に足を踏み入れた哀れな人間を容赦なく刈り取っていた。
 特に、役場を縄張りとする鉈を持った人型の異形など、まるで処刑人のようだった。ロイズの実力では、この町の大概の化け物は目を瞑ってでも殺せるが、あの処刑人は別だった。殺されることはないだろうが、あまり戦いたくない相手ではある。
 しかし、そんな処刑人を含め、この町の化け物が唯一襲わない人間がいた。襲わないどころか、懐いているようにも見える。
 それがこの町の資料館の管理人だった。
 なかなかお目にかかれない、男性的な美しさを持っている男は、狂っていた。
 否、狂っている、というよりは完全に正気を失ってしまっている、と表現した方が良いのかもしれない。
 会話は問題なく交わすことができるし、突然取り乱すような情緒不安定さもない。管理人は殆どがまともだった。ただ、彼は自分が見ている世界を都合良く改竄していた。

 管理人が今、処刑人に手を引かれて歩いている道には、ごろごろと人の死体が転がり、赤い血だまりが幾つもできている。
 彼が手を振った人型の異形は人ではあり得ない方向に身体を降り曲げた状態でけたけた笑っているし、かろうじて子どもの人型だと分かるそれは本物の人間の子どもの身体を掴み上げ、食べている。
 常人が見れば恐怖に叫ぶ様を見ているにも関わらず、管理人は気にした様子もなく歩いているのだ。
 これを正気を失っている、と言わずに何と言うのか。

 ロイズ・クロイスは、屋根の上に座り彼らを見ながらにやにやと笑う。
 人間を大事に大事に隠しに行く化け物も、それを暖かく見守る化け物どもも、完全に正気を失ったにも関わらず何の問題もなく生き続けてしまっている人間も、何もかもが面白かった。

 ふと、視線を感じたのか管理人が振り返った。ロイズは、暗がりの中でも管理人の目が虚ろであることに気付いた。

 ロイズ・クロイスが訪れた町は死んでいた。
 そしてこれからも死に続けるだろう。

 ロイズ・クロイスはその町に手を着けるのをやめたので。



END.


化け物見て強制SANチェックでSAN0になり狂気に陥るも化け物から好かれる体質のおかげで生き延びちゃってる男の話。
化け物に好かれる代わりに人間からの印象や評価がおかしなことになってる可哀想な人。