海の神様と旅人





 それがイルザークの前に現れたのは、長兄の側を人の血を引く末弟が彷徨き始めたと小耳に挟んだ頃だった。

「よう、兄さん。釣れるかい?」

 姉の機嫌が良いのか、からりと晴れた晴天に爛々と太陽が輝く日のこと。
海端にある桟橋に腰掛け釣り糸を垂らしていたイルザークは、自分に話しかけてきたのだと気付いて顔を上げた。
 座るイルザークの隣に立つ男がイルザークを見下ろしていた。太陽の光を遮るようにして立つ男は、随分と大柄だった。
 己の背ほどある無骨な大剣を背負い、随分長く愛用しているのだろう、どこか色褪せたマントを羽織る男が誰なのか、イルザークは知る由もない。しかし、男が何なのかは、すぐに分かった。

「釣れているように見えるか?」

 質問に質問で返したイルザークをそのむくつけき男は暫し無言で見下ろしていた。
 その顔は、どこか呆気に取られたかのような些か間抜けなもので、話しかけてきたのはそちらだろうに、とイルザークは少し呆れた。握った竿をちょい、と動かしながらイルザークは男の言葉を待つ。
 男もイルザークが様子を伺っていることに気付いたのだろう、太い指で頬をかき、気まずげに視線をさ迷わせた。

「こりゃ驚いた……まさかこんな美男とは。てっきり、厳つい野郎かと」
「ははは、まさにおまえのように、か?」

 真顔で言うことの可笑しさに、イルザークは声に出して笑う。そして、からかうように男を改めて見上げた。

「ああ、俺よりかは小柄だが、俺みたいなのを想像してた。まさかこんな辺鄙なところで、あんたみたいな綺麗な顔を見るとは思わないもんでな」

 真面目にそんなことを言うので、イルザークはまた快活に笑った。
 海風に吹かれる、海の色をそのまま写し取ったかのようなイルザークの髪の毛先を、男の目が追う。

「うん、綺麗だ」

 聞き慣れた賛美の言葉に、イルザークはにやりと頬を上げ、目を細めた。

「よく言われる」
「だろうなあ。モテるだろう?」
「寝所に毎夜色々と訪れるくらいには」
「そりゃすげぇ。隣、座っても?」
「この桟橋は俺のものじゃない」
「それじゃあ、邪魔するぜ」

 男が桟橋に胡座をかいて座った。ギシ、と軋む音がしたので、大柄な体躯に見合った重さの男なのだろうと分かった。背負っていた大剣を、座るために持ち変えたので、それの重さもあるのだろう。
 男は大剣を傍らに置き、イルザークが海へ落としている釣糸を視線で辿った。

「何が釣れるんだ?」
「色々さ」
「そのわり、釣れてないみたいだな」
「今は釣ろうとしてないからな」

 肩を竦めたイルザークのその言葉に、男は不思議そうな顔をした。素直で分かりやすい男に、イルザークは喉の奥で笑い、それから釣り竿をくいと引き上げた。

「そら、見ろ」
「……針ついてねぇのか」

 ふらふらと揺れる糸の先に、針はない。呆気に取られた顔をして、男が首を傾げている。

「兄さんは、何をしてたんだ?」
「釣りだな」
「釣ろうとしてねぇのに?」

 男の言葉にイルザークは答えることなく、「名前は?」と尋ねた。

「俺か?」
「俺の目の前に、おまえ以外に誰がいるって言うんだ?」
「ははっ、確かにな……ジュディスだ」
「良い名だ」
「ありがとな。兄さんは?」

 イルザークは、おもむろに立ち上がった。海の中に沈めていた糸を引き上げて、肩に釣竿を背負う。ジュディスと名乗った男は、目をぱちくりと瞬かせてイルザークを見上げていた。
 イルザークは、ジュディスをじっと見つめた後ふと、海の彼方へと視線を向けた。それから数度、肩を釣竿でトントンと叩くと、再びジュディスに目を向けた。

「南は止めておけ」
「へ?」
「海が荒れる。東の航路を使った方が、結果的に早く着くぞ」
「あんた、船乗りか?」
「いいや?」

 首を振ってから、イルザークは、ああそうだ、と呟いた。

「良い旅を」

 気紛れにそれだけ言うと、イルザークは踵を返す。その際に、ふわりと緩やかにウエーブのかかった海色の髪が靡き、そういえば随分と伸びたものだとイルザークは思った。
 そのまま桟橋を引き返すと、背後で慌てたように立ち上がる音が聞えて来た。

「ちょ、ちょっと待てよ、兄さん!」

 引き止める声に、イルザークは振り返らずにくすりと笑う。立ち止まらずに歩いていれば、イルザークの横を日に焼けた若い青年が通り過ぎた。

「ジュディスさーん!ようやく船が出れるみたいです。そろそろ出発するから、航路の指示をくれって」
「え?あ、ああ……いや、ちょっと待ってくれ。あの兄さんに名前を、」
「兄さん?……ここに誰かいたんですか?俺は誰ともすれ違ってないですけど」
「はあ?」

 大きな声は、イルザークの耳にも届く。
 イルザークは、気分良く晴天を見上げた。ぎらぎらと光る真夏の太陽は姉の苛烈な性格をよく表していて、それを苦手に思う輩もいるようだが、イルザークは嫌いではなかった。


***


「兄さん?」
「ん?」

 稀にある、兄が仕事を疎かにする日のこと。流れる星々の流転が鈍い闇色の空の下、穏やかな海を眺めていたイルザークの背後に人が立つ。人の気配にとうに気付いていたイルザークは、驚くことなく首だけ動かし背後を振り返る。
 そこには、いつか見た男が立っていた。
 背には武骨な大剣を背負っており、色あせたマントを羽織り、それから、胸元には小さなオレンジ色の宝石がきらりと光っていた。
 
 はて、いつ、どこで出会っただろうか。

 イルザークは考える。

「今日は釣りしてねぇんだな」

 その言葉で、ああ、と思い出した。少し前に、出会った男だった。
 イルザークは、笑って答えた。

「糸を垂らすだけが、釣りじゃないさ」

 その言葉に、確かジュディスという名の男は、不思議そうな顔をした。しかし、説明してやるほどイルザークは親切ではない。
 イルザークの背後に立っていたジュディスは、ほんの少しだけ躊躇った後、少しイルザークを窺うようにしてイルザークの隣に立った。
 湿っぽい風が吹き、ふわりとイルザークの海色の髪が揺れる。
 ほう、とジュディスは息を吐いた。

「あんたの髪、夜でもこんなに綺麗にはっきりと見えるんだな」

 綺麗だ、と溜め息と共に吐きだされた言葉。ジュディスが、イルザークの海色の髪の毛先にそっと触れようとしたが、直前で躊躇うように止まり、結局手は降ろされた。
 それで良い、とイルザークは思った。

 そんなイルザークの胸中など分からぬ男は、一連の動作を見られていたとは露にも思っていない様子で話しかけてくる。

「兄さんはここで何してたんだ?いや、何でここにいる?」
「俺が何処にいようが、俺の勝手だろう?」
「ああ、いや、すまん。別に問い詰めたかったわけじゃねぇんだ。気を悪くしたら謝るぜ」

 頭の後ろを撫でながら、肩を落とす男の様に、少し不機嫌そうにしていたイルザークはその表情を柔らかくした。
 素直で実直な者が、イルザークは嫌いではない。

「ただ、海を眺めてただけだ。ここにいるのは、気紛れだな。別に場所はどこでもよかった」
「そうなのか」

 きっとイルザークの言葉には納得していないだろうに、ジュディスはそれ以上尋ねてはこなかった。
 イルザークに習い、夜の海へと目を向けたジュディスは言う。

「夜の海は怖いと言う奴がいるが、あんたは平気なのかい?」

 ちらりと横目でジュディスを見れば、ジュディスの目は海をじっと見つめていた。明りは、夜空に浮かぶ月と星しかない。その上、月は殆ど欠けてしまっていて、普段よりも薄暗い夜だった。
 もしかしたら、末の弟が兄に甘えている最中なのかもしれないな、とイルザークが考えながら、ジュディスに尋ねた。

「別に怖いとは思わんさ。おまえはどうなんだ」
「俺も怖いとは思わねぇな。元々海は好きだしな」
「そうなのか」
「ああ。俺が生まれたとこに海は無くてな。初めて海を見たのはつい最近だ。こんな綺麗で雄大で、尊いものがあるのかって、涙が出ちまった」
「涙」
「自慢じゃねぇが、どんだけ大怪我しようが、どんだけ人に裏切られようが泣かなかった俺がだ。俺はこれまで惰性で生きて放浪してたんだが、海を見た時、俺はこれを見るために生きて来たんだって思っちまったよ」

 イルザークは高揚する気分に押されて、快活に笑う。

「そうか、そうか!それは実に気分が良いな!よしよし、手を出せ。こう、両手で椀を作るようにだ」
「こうか?」

 イルザークの言葉に素直に両手で椀を作ったジュディスの隣で、イルザークはしゃがみこんだ。
 兄の真っ白な手とは異なる、姉に似た褐色の両手で海の水を掬いとる。立ち上がって、イルザークは男の両手の上に、その手を掲げた。
 疑問符を浮かべるジュディスに微笑み、イルザークはそうっと自分の手で掬った海水をジュディスの両手に流し込んだ。
 その海水は、ジュディスの両手にたちまち溜まる。

「……なんだ、これ?」

 両手いっぱいに海水を持ったジュディスが困惑したように海水とイルザークを見たが、すぐに目を見開いた。
 両手になみなみ注がれていた海水がじわりじわりとその量を減らしていったからだろう。地面に落ちる海水は無い。

「この両手いっぱいの海水がおまえの身体から無くなるまで、ほんの少しだがおまえの旅路の手助けになるだろう。効果は分からんが」

 さて、とイルザークは踵を返す。

「ちょっと待ってくれ!あんた、名前は?!」

 ちらと振り返れば、ジュディスは焦った顔でイルザークを見ていた。すぐさまその足を動かしたいようだが、未だに両手にある海水を零すことを恐れたか、二の足を踏んでいるようだ。
 イルザークはにやりと笑う。

「おまえは俺に海は怖くないのかと聞いた。俺は、怖くないと答えた。何故だと思う?」

 その問いかけだけを残して、イルザークは上機嫌でその場を去った。


***


 あれから何度か、ジュディスという大男と会った。とはいえ、イルザークから会いに行っているわけではないので、出会わない日もあった。
 その月日がどれほどか、イルザークは数えていない。
 何故なら、永遠に近しい命を持つイルザークにとって、時の流れなどさほど重要では無いからだ。
 一度会った人間であればとうに忘れてしまうものだが、ジュディスに関しては何度も会うので覚えていた。初めの数回は名前を思い出すのに時間がかかったが、今では、話しかけられ顔を見れば名前はすぐに思い出すことができた。
 ジュディスはどうやら、世界を転々としているようだった、何故なら、出会う場所がすべて違う場所なのだ。
 まれに、瀕死の重傷の身体を鞭うって海端に佇むイルザークに声をかけるものだから、面白さを通り越して呆れを覚えたこともある。

 ジュディスと会って話すのは、大抵がジュディスの旅の話だった。最初はあれこれ質問されたりしたものだが、きまぐれにイルザークがジュディスの旅の話を聞かせるよう言えば、最初、ジュディスは酷く狼狽した。
 少し黙り込んだ後、気まずげに首を振るのでイルザークはそれ以上尋ねることはなかった。
 しかし、次に会った時、大男はたどたどしく己の旅路を語った。それが存外面白いもので、イルザークはよく笑った。
 ジュディスの旅はいつも安定したものではないようで、むしろ困難にぶつかることが多いようだった。怪我も絶えないようだった。
 ジュディスの話の端々に、見知った誰かが見え隠れしていると気付いたのは、わりと最初の段階だ。しかし、ジュディスにそれを告げることはしなかった。告げる意味も義理も無いと思ったからだった。

 男に会う度、一時的に与えた加護が薄まっていれば気紛れに注ぎ足した。両手一杯分の加護は、男の過酷な旅にそう役には立たないはずだ。しかし、それを与える時、ジュディスが随分と嬉しそうな顔をするので、イルザークとしても気分が良かった。
 とはいえ、きちんとした加護を与えようとは思わなかった。

 さて、そろそろ男の加護が切れる頃のはずだった。



「イルザーク」

 海の上、小舟に寝転がり、波に揺られていた日のことだ。
 ゆらり、と小舟が一際大きく揺れたのは波のせいではなく、声をかけて来た者のせいだった。

「姉貴か。珍しいな」

 目を開けたイルザークを見下ろすのは、太陽の化身だった。
 眩しくて目を細めたイルザークは、ふと、姉の髪飾りの宝石の一つが無くなっていることに気付いた。それ、と指差せば、姉は問いかけを正しく理解して答えた。

「何だか面白い人間がいたのでくれてやった」
「お袋ほどじゃないが、姉貴も姉貴で人間びいきだなあ」
「面白いからだ。だが、その宝石も砕けてしまったようだ」

 特に怒った様子もなく、姉は肩を竦めている。人や、場合によっては神にとっても喉から手が出るほど欲しいと思う、姉の力が少し宿った宝石だが、本人からすればただの石ころでしかないのだろう。

「それはそうと、珍しくおまえも人間に加護を与えたようじゃないか。一時的な加護のようだが、珍しい」
「うん?言うほど珍しいか?」
「おまえは、おまえのところに住んでいる生き物にはほいほいと与えるが、陸に住む生き物には与えて来なかっただろう。母上がよく嘆いている」
「……嗚呼、確かに、言われてみればそうかもしれない。別に陸の生き物を嫌ってるわけじゃないんだけどな。ただ、俺の側にあまり陸の生き物がいないだけで、結果的に俺のところのに加護を与えてるだけで」
「おまえの側にいないのではなく、おまえが動かないからだろう。ルドワーレもそうだが、おまえもおまえでそこそこ引き篭もりだからな」
「兄貴よりは外に出てると思うんだけどな」
「少し海から顔を出すのを、外に出てるとは言わないぞ。どうせ、海端でのらくら過ごしたり、今みたいに船に揺られてるだけだろう」

 イルザークは、お手上げだと言わんばかりに両手を上げた。姉の言葉に異論は無い。指摘事項は全て身に覚えがあった。

「ところで、姉貴は何しに此処へ?」
「なに、久方ぶりに弟が健在か見に来ただけだ……というのは、建前だな」

 姉は、にやりと笑う。

「ところで、私は面白い人間は好きだ。何故なら、奴らは我々の予想の範囲外のことを考え、成し遂げる。悪行も善行もだ。それが面白くて、仕事の傍ら試練を与えてみたりするのだが」
「随分と自分勝手な。巻き込まれる人間に少し同情するぞ、俺は」
「もちろん、試練を踏破した暁には褒美をやるとも」
「末弟のように?」
「末弟のように」

 イルザークの脳裏を過るのは、半分人間の血が混じった神裁きの神だ。あれはどういう経緯か分からないし興味もないが、何故か長兄である夜の神に執心している。
 試練を乗り越え願ったのは、長兄に会うことだったと聞いたときは、随分と奇特な人間だと思ったものだ。

「それが、今回おまえに会いに来た理由になる」
「理由?」
「おまえと答え合わせがしたいのだそうだ」
「はあ?」

 にゃあ、とウミネコの声がする。姉の言葉の意味が分からず、イルザークはようやく寝転んでいた身体を起こした。
 ゆらり、と小舟が揺れる。

「20年ほど前に滅びた国がある。肉親も友も主もすべて亡くした男がいる。おまえは生きろという死に逝く者から贈られた言葉に縛られ、己を殺すことも儘ならずただ無為に生きてきた男がいる。何の目的もなく、帰る国が無いから放浪していた男がいる。そんな男が願ったことは、おまえと答え合わせをすることだそうだ、イルザーク」

 姉は、イルザークの腕を掴むと有無を言わさず、飛んだ。


***


「そら、人間。お望み通り、海色の髪に、波色の目の、海の側でしか会えない男を連れてきてやったぞ。おまえが言っていたのは、これだろう?」

 そう言うなり、姉は抱えていたイルザークをぽいと放った。その乱暴な扱いにイルザークは腹を立てるが、それよりも先に地面に着地せねばと下を見た。
 色あせたマントを羽織った壮年の男が、慌てた様子で両腕を広げていた。

 あの時、男はイルザークに触れることに躊躇していた。しかし、今はそんな暇はないらしい。
 一時的に加護を与えるくらいには、イルザークは男のことを気に入っていたので、本当は触れさせるべきではないと思っていた。
 しかし、何となく触れたくもあったし、そもそもあちらに何か明確な意志があって触れるわけではないと分かっていたので、結局はその腕に大人しく飛び込むことにした。

 イルザークを受け止めた男は、その屈強な体躯に見合った力強さを持ち合わせていたらしい。どっしりと地面に足を付けたまま、イルザークを受け止めた。
 イルザークの腰を抱き、ほっと安堵の息を漏らしたジュディスだったが、触れてしまったことに気付いたらしい。慌ててイルザークを離して距離を取った。

「なんだ、俺に触れるのはそこまで嫌だったか?」

 イルザークが眉を上げ、じろりとジュディスを見やれば、ジュディスは首を振った。

「違う、そうじゃなくて……俺みたいなのが、あんたに触るのは駄目だろう」
「まあ、確かに」
「ぐっ……だよな……」
「それより、答え合わせがしたいと聞いた。おかげで、気持ち良く船に揺られてたのに起こされて連れて来られた。いったい、何の答え合わせだ?」
「……そうか、シャリアータ様は本当にあんたを連れてきてくれたんだな」

 そうぽつりと呟いたジュディスは、一度目を瞑るとイルザークを見た。

「俺は、ここで旅を終えようと思う」
「そうか」
「長居はしなかったが、殆どの国は見て回ったし、俺ももう歳だ」
「そうだったか?」
「あんたと会って、もう20年経った。俺も、そう若くはない。昔ほど体力はないし、怪我の治りだって遅くなった」

 たった20年か、とは言わなかった。イルザークは、人間の寿命を知っている。
 目の前の男が人間であることも知っていた。
 たとえ、男が“勇者”や“英雄”と呼ばれる類の気質の持ち主であっても、その身体は正しく人間の物であると分かっていた。

 改めて男を見れば、確かに会った当初よりも皺が増えたように思う。生々しい傷跡が、今や古傷になっている。声も、どこか深みのある老成した低い声になった気もする。
 なるほど、ジュディスは確かに歳をとったのだ。

「その点、あんたはずっと変わらない。相変わらずの色男だし、肌艶も良い。声も快活で耳障りが良い。髪は美しいままだし、目もキラキラして綺麗だ」
「よく言われる」
「言ってる奴に嫉妬しちまうなぁ」

 はは、と笑って、ジュディスは目を細めた。眦に皺が寄る。ああここも年を取ったのだなとイルザークは思った。

「随分と前に、俺はあんたに名を尋ねた。それに対してあんたは問いかけだけを残した。覚えてるかい?」
「ああ」
「あんたが海を怖がらない理由」
「分かったか」
「ああ。怖がる必要がないからだ。俺だって、自分の手足、身体を怖れない。あんたも同じだ。そうだろう、海の神様」

 それまで穏やかだった海に、ざざ、と波が立った。イルザークは笑う。

「本当は、結構最初から答えに気付いていただろうに」
「ばれてたか」
「名こそ名乗らず、神であると明言もしなかったが、隠しているつもりは無かったからな」

 飄々と告げるイルザークは、一歩二歩とジュディスに近づく。後ずさろうとしたジュディスの目をじっと見つめると、ジュディスはまるで地面に縫い留められたかのように立ち竦んだ。

「それで、今更俺の正体を告げて何がしたい?旅を終えるということは、もう会わないということか。最後だから、答え合わせをしようと?」
「違う!そうじゃなくてだな、あー……」

 間髪入れずにイルザークの言葉を否定したジュディスは、困ったように視線をうろつかせた。しかし、諦めたように溜め息をつく。

「……ここを、俺の還る場所にしたかった、だけだ。最期はあんたと一緒にいたいと思った。あんたの中に身体を沈めることを、許してもらおうと思ってな」

 そう言って、ジュディスはそっと腹を押さえた。じわり、と服から滲み出る赤色。
 男の足元には、大量の血だまりがあった。ふと男の背後を見れば、道にはけして少なくない鮮血が落ちていた。
 そのもっと後ろの方で、何人もの人間が武器を携え駆けてくるのが、目の良いイルザークには見えた。

「なるほど。勇者とやらも、難儀だな。人が恐れる怪物をようやく殺せば、次は命を狙われる」
「慣れてるさ」

 そう言って笑ったジュディスの口の端から、すう、と血が流れて行った。
 やれやれとイルザークは肩を竦めた。それから、手を伸ばしてジュディスの腕を躊躇いなく掴んだ。

「知ってるか、ジュディス」

 は、とジュディスが息を呑んだ。何を驚くことがあるのかと不思議に思ったが、「名前」という呟きに、そう言えばイルザークは初めて男のことを名で呼んだらしいと気付いた。
 イルザークとしては特に名を呼ばないことに拘りはなかったのだが、ジュディスはどうやら違うようだった。
 しかし、そんなジュディスの感情の移ろいなど今はどうでも良かった。

「おまえは今まで一度だって俺に触れたことはなかった。それは正解だ。何故なら俺は神で、おまえは人間だからだ。意思を持って触れてしまえば、その神の存在が良くも悪くもこびり付く。俺がおまえのことを気に入らなければおまえは消し飛ぶし、気に入っていれば下手をすればおまえの魂は冥府へ行かず俺の傍を離れられなくなる。ところで、おまえは俺を好きだろう?」
「え?ああ……そうハッキリ言われると照れるが、まあ、そうだな。神様相手に畏れ多いけどな」
「おまえは死に場所に俺を選ぶくらい俺が好きで、俺はおまえを存外気に入っている。それなら、触れても問題は無いだろう」

 掴んでいた腕を指でたどり、ジュディスの手を握る。

 そして、引っ張った。

「え?」

 後ろへ倒れるイルザークの視界には、老いたジュディスの驚いた顔と、それから晴天が見えた。
 遠くから喧騒が聞こえる。殺せ、と叫ぶ声がする。逃がすな、と叫ぶ声がする。

「ジュディス。亡国の勇者。流浪の旅人。さあ、選べ」

 握っていた手を離し、イルザークは両腕を広げて朗々と告げる。


「我が名はイルザーク。海を司る神である。おまえが選ぶのであれば俺がおまえの還る場所になろう。だが、その魂は冥府に還ることは叶わない。俺のもとに留まることになる。冥府に行き、次の生を生きたいのであれば、俺の中以外で死ね。今だったら、その身体の傷を治して浜辺へ打ち上げてやる」


 身体は傷だらけで動かすのも億劫だろうに、ジュディスはイルザークに手を伸ばした。
 屈強な腕が、イルザークの身体を力強く抱きしめた。

 大きな水飛沫を上げて、二人の身体は海へと沈む。
 ごぼり、とジュディスの口元から気泡が漏れ出た。

「イルザーク、それはむしろ褒美だ。あんたと一緒にいれるなら、俺は喜んであんたの中で死ぬ」

 イルザークの髪を愛おしげに撫で、擦り寄る大男にイルザークは可笑しそうに笑った。

「随分と前に言ったのを覚えてるか。釣り針が無くとも、釣竿が無くとも、釣りは出来る。釣る気はなかったが、結果おまえが釣れたろう、人間の勇者」

 釣られちまったなあ、と初めて会った頃の若い姿の男もつられて笑っていた。


END.


イルザーク…海の神様。空の神と大地の神の間に生まれた3番目の子供。
快活な笑顔が印象的な男前。海色の髪に、太陽に照り返す波のような薄い青の目。裏表がなくおおらかで開放的。長兄程では無いが引き篭もりがちで自分のテリトリー外には滅多に行かない。海に住む生き物を愛してやまない。別に人間を含めた陸の生き物が嫌いなわけではない。

ジュディス…とある滅んだ国の騎士。すべてを亡くし、絶望と孤独と復讐心を抱えつつも元来の勇者気質で内に押し留めながら当てもなく旅を続けていた。とある王国のお姫様を救ったり、三つ目の怪物を倒したりと偉業を為したが、反面やたらめったら裏切られる人生を歩んだ。後世では、某半神の英雄に比べ不遇な勇者だとか言われている。ちなみに最期はやはり裏切りによって殺されたらしいがその死体が見つかることはなかった。
海を大層好んだらしく、海辺の町にはジュディス所縁の地が多い。