隣の部屋から持ってきた最後の荷物を解き、深くため息を吐く。
 8畳の洋室。今日からここが私の城だ。とは言っても期間限定。藤ヶ谷さんはゆっくりで良いと言ってくれているけど、いつまでも甘えている訳にはいかない。
 そしてここに来て最初の試練に立ち向かう。元カレへの連絡だ。一方的に別れを告げられたあの日から一度も連絡を取っていない。
 正直、縋りつきたい。未練は山ほど残っている。けれど彼には奥さんがいるのだ。多分、彼が独身だったら私は縋りついていたと思う。毎日連絡してどうにかヨリを戻せないかと泣きわめいていたと思う。
 だけど奥さんがいるのだ。私は知らなかったとは言えルール違反を犯してしまっていた。勿論騙した彼が一番悪いのだが、知らないうちにひとりの人間を傷つけてしまっていた罪悪感は鉛のように重く、私の胸を圧迫していた。
 私たちの関係が奥さんに知られていたのかどうかは彼は何も言わなかった。
 何も言わないということは、きっとバレていないのだろうけど奥さんが何も知らないふりをしているのかも知れない。
 いずれにせよ不幸中の幸いだと思うことにした。そしてここが引き際というか、もはや引くしかないのだ。
 はあ、と、もう一度深いため息を吐いた。
[住む所が見付かったので私の荷物は全部運び終わりました]
 たったこれだけの文章を打つのに10分以上かかってしまった。ついでに何か言ってやろうかなとか色んな事を考えた結果、結局この文章。敬語なところにトゲを感じるかもしれないが、だってもう、どんな感じで送ればいいのか分からないのだ。
 送信ボタンをタップする指が震え、同時に心拍数が一気に上がる。
 これでもう、本当に全てが終わる。
 視界が滲むなか、送信ボタンをタップした。
[わかった]
 元カレにLINEを送って1時間後、返ってきたのがこれだ。
 私の2年がこれで終わった。正直、これだけかよ、と思ったがまあこれぐらいしか言えないよなと変に納得してスマホを買ったばかりのベッドに投げた。


 リビングやキッチンの掃除をして、時計を見ると15時。
 今日の藤ヶ谷さんは朝の8時頃に家を出て行って、夕方には帰ってくると言っていた。
 なんと言っても今日は家政婦? 初日。少し凝ったものを作りたい。今から買い物に行こうかな、と考えていたところで玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
「おかえりなさい。早いですね」
「うん。思いのほか早く終わっちゃって。今から出かける所でした?」
「はい。夕飯の買い物に行こうかなって」
 テーブルに置かれたエコバッグを見て藤ヶ谷さんが問うので正直に答えると、少し顔を歪めたので、不思議に思ってそのまま見つめた。
「……もうちょっと後でもいいんじゃないですか?」
「え?」
 どうして、と言いかけてすぐに理由が分かった。換気のために開けていたリビングの窓の外から微かに数人の男性の声に交じって元カレの声が聞こえて来た。
 元カレがなにか指示を出していて、それに他の男性陣が従っている。その後ドタバタと大きな音が聞こえ始める。引っ越し作業をしているのだとすぐに分かった。
 きっと藤ヶ谷さんは部屋の前とかエレベーターで彼等を見つけたんだろう。そして私が鉢合わせしないように気を使って……そこまで理解したところで身体が震えだしてその場に座り込んでしまった。
 窓の外から聞こえてくる彼の声に精神が削られる。もう終わったと思っていたのに声を聞くとどうしようも無く胸が締め付けられてとうとう耳鳴りまでしてくる。
 このまま外に出れば彼に会える。最後に一度だけ、彼も私の姿を久しぶりに見れば奥さんと別れて……なんてやっぱり未練しかない考えが沸々とわきあがって来てしまう。
 自分で処理しきれないほどの感情が爆発しかけた所で、ぴしゃり、とリビングに音が響いた。
 音のした方へ視線を向けると藤ヶ谷さんが窓を閉めてくれていた。外の物音はもう殆ど聞こえなくて徐々に震えが治まってくる。
 それでもすぐ近くに彼がいるという事実に涙が溢れて零れ落ちた。
 荷物を運び終わったと連絡したのは今朝で、なのにもう業者が来ている。あの部屋にある思い出の詰まった家具たちはどこに行ってしまうのだろうか。まさか奥さんと住んでいる部屋に置くわけにはいかないだろう。
 引っ越し業者かなと思っていたが、リサイクルショップとかの買い取り業者なのかも知れない。
 私が隣の部屋にいるなんて思ってもないんだろう。
「大丈夫……、じゃないですよね」
 しゃがみこんでいる私の前に屈んで、藤ヶ谷さんがティッシュを渡してくれる。
 ああ、デジャヴだ。私はまた藤ヶ谷さんに泣いてるところを見られてしまった。
「ごめんなさい」
「名字さんは何も悪くないでしょ」
 優しい言葉に更に涙が溢れてきて、苦笑いされてしまう。


 あれから2時間もしないうちに隣の元私達の部屋から物音は完全にしなくなって、作業が終わったのが分かった。
 藤ヶ谷さんは何を言うわけでもなく、ただ私に寄り添っていてくれた。
 放心状態でいると藤ヶ谷さんのスマホが鳴って急にまた仕事が入ったと出て行った。多分遅くなるからご飯はいらないらしい。
 私も食欲が無くなってしまったし、自分ひとりのために買い物に行ってご飯を作るという作業が億劫に感じて、ソファに深く身をゆだねてテレビを点けた。
 なんか、なにも考えなくていいくだらない番組が見たいとザッピングを始めたが夕方だからニュース番組しかやっていない。
 あきらめてニュース番組を見ていると新型のスマホのCMが流れた。そう言えば先週発売だったよな、とか、今のもう何年使ってるっけ?とか考えているうちに急に新型のスマホに変えたくなった。
一番の大きな理由は元カレとの連絡手段を断つ為だ。
 すぐに支度をして近所のショップに向かった。
店員さんに話を聞いて、プランを決めて書類を書いて契約終了。
 もちろん機種変更じゃなくて新規にして長い間使っていた番号とアドレスを変えた。
 これを機に人間関係の整理もする。
 アドレス帳に登録、変更の連絡をしたのは両親と女友達3人。
 改めて友達の少なさに自分でも驚愕するが、なんでも言い合える人が3人もいれば十分だと思う。
 それに結婚を報告していたのもこの友人たちと両親だけだったのである意味友達の少なさに救われている。だって、友人が多ければ多いほど婚約破棄の連絡を沢山しなければならなかったのだ。考えてただけでメンタルがやられる。
 寿退職した職場の人は勿論、結婚の事を知っていたけれど式に招待していなかったし、破棄になったのも退職したあとなのではなから言うつもりもない。
 さっきまで使っていたスマホのアドレス帳には、昔の職場の人とか、社交辞令で連絡先を交換した人、全然連絡を取っていない人でそれなりにいっぱいだったが、今回の件でかなりすっきりとした。
 LINEのアカウントも新しく作り直して新規一転。心が軽くなる。
 正直、元カレの電話番号は覚えてしまっている。けれど共通の友人もいないから私が彼に連絡しない限り彼が私に連絡を取るのは不可能だ。つまり全ては私次第。
 もう絶対に連絡をしないとひとり心に強く誓った。
「あ、藤ヶ谷さんにも言わないと」
 大事な人を忘れていた。今の雇い主兼大家さん。
メールで新しい電話番号とLINEのIDを送ると、すぐにLINEに友達追加の通知が来た。
[ケーキ買って帰ります]
 全てを察してくれたのだろうか。多分そうなのだろう。
 本当にお世話になってばかりだが、また好意に甘えることにした。
[ありがとうございます。楽しみにしてます]
 スタンプも一緒に送って画面を閉じた。







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