翌朝、さっそく幹部連中を集めて意見を募った。結果、全員が天野の提案に乗る形となり話がまとまる。
ケンなどは特に『愛される陸援隊』づくりに燃えていたようだ。
あいつは子供好きだからな。土佐でも長州でも、近所の少年達とすぐさま打ち解けて遊びに誘われていたのを思い出す。
――そういったわけで、少しずつ陸援隊は変わろうとしている。
とはいえ、こちらからできる働きかけはたいして多くないのだが。
せいぜい挨拶と笑顔を心がけ、積極的に人助けを行っていくことくらいか。
そして屯所への来客についてだが、基本的には追い返さず話を聞く方向でまとまった。しかしこれは、できる限り敷地内に相手を招き入れぬようにし、門前で対処するという条件つきだ。
子供達を中で遊ばせるのは危険が伴う上に、親御さんはいい顔をしないだろうからな。そこは一線引かせてもらう。
いつまで京に留まるのかは未定だが、そう長くはないだろう。
短期間であれ、その土地で出会った人間とは円滑な関係を築いていきたいものだ。
そして今、俺はかぐら屋付近の大路を歩いていた。
時刻は夕七ツほど。
所用を済ませ、以前大橋くんからすすめられた甘味処で土産を購入したところだ。
このまま屯所に帰還しようと、人波をくぐり抜けながら華やかに軒を連ねる店舗脇を進んでいく。
すると、絵草子屋の奥から見知った顔が姿を現した。
……杉三さんだ。
「買い物ですか?」
隣に並び、声をかける。
見たところ手ぶらのようだが、何やら眉を寄せ深く考えこんでいる様子だ。
「おお、中岡殿。いや……そのつもりでしたが、めぼしいものが見つかりませんでな」
「本か絵をご所望で?」
絵草子屋の壁には色とりどりの錦絵が吊るされており、取り扱う草双紙の種類も豊富なようだ。
通りすがりにざっと見渡しただけだが、奥には玩具なんかも置いてあるらしい。子供達にとってはさぞ心踊る場所だろう。
ここに用があったということは、さっちゃん絡みの買い物か。
「さちに玩具でも買うてやるつもりが、あの年頃の娘の喜ぶものが分からず結局買わずに出てしまいました」
「なるほど、そうでしたか」
「また出直すことにいたします」
悩み抜いて疲れたのだろう。杉三さんは嗄れた声をいっそう低く落としてため息をついた。
その後、帰路につく彼とは、同じ道筋を辿る事になる。
肩を並べて歩きながら、俺たちはぽつりぽつりと言葉を交わすのだった。
「昨夜は本当にありがとうございました」
杉三さんが、あらたまって頭を下げる。
「いえ。あれからお孫さんの様子は?」
「それが一晩で見違えるように聞き分けよくなりましてな。今日は家内と大人しく遊んでおります」
「それは良かった。こちらも一安心です」
やはり甘やかさずに叱って正解だったな。
杉三さんの目尻も珍しく下がっている。
「今後は孫と遊ぶ時間も作ろうと思い、玩具を見て回っておったのですがね」
「……そういうことでしたら、お孫さんはままごとがお好きなようですよ」
「ふむ、ままごとですか」
「ええ。ですから、ままごと道具など喜ばれるのでは?」
「……なるほど、それは良い!」
喧騒を抜け心地よい秋風のそよぐ一本道で、老人は大きく手を叩いた。
紹介はしてみたが、ままごと道具とはどのような物なのか詳細は不明だ。
肩たたきの最中に、そんな道具があるのだという話を耳にしただけだからな。
何でも、さっちゃんほどの年頃の女子であれば喉から手が出るほど欲しい夢の玩具だそうだ。
「どこで買うのかは分かりませんが、あてはありますか?」
「いえ、なんとか自力でこしらえてみようと思います」
「手製ですか!?」
「ええ。孫の希望を聞きながら、ゆっくり形にしていくのもまた面白いでしょう」
「それは、何より喜んでくれるはずですよ」
杉三さんは野鍛冶だったな。
普段から生活に根付いた道具を手掛けているのだ。作ろうと思えば、手持ちの材料で簡易の家具や料理道具くらいは形にできるのだろう。
そしてそれは、どんな高価な玩具よりも価値のあるものになるに違いない。
「道具は良いとして、ままごとの練習もせねばなりませんな」
「なかなか大変ですからね、どうやら作法もあるようで」
「いやしかし、中岡殿はお上手だったと、さちが誉めておりましたぞ」
「いえ、とんでもない!」
あわてて首を振る。
俺はあまりの無作法さに顰蹙を買い続けた男だぞ。誉められた部分など一つもなかったはずだ。
「……さちがままごとを好きなのは、父母を亡くしたせいだと思うのです」
今日の杉三さんは饒舌だ。
心のうちに溜め込んでいたものが多いのか、こちらを信頼しきった様子であれこれと深い話を切り出してくる。
「親子の交流を欲している、と?」
「ええ。わしらの前では口にしませんが、やはり寂しいようで……近所の子らとままごとで遊ぶ時は決まって子供の役をやっておったそうです」
「私たちの前では、自ら母の役を選んでいましたが」
そして、慣れた様子でその役割をこなしていた。
とても初めてのようには見えなかったがな。
「それは普段から子供役ばかりを買って出て、その延長で仲間たちに甘えた態度をとるようになりましてな。しばらくのけ者にされたようなのです」
「なるほど。結果、嫌われぬようにと子供役を避けるようになったわけですね」
「おそらく、そういうことでしょう」
甘え方を知らずに育ち、ままごとの中で我が儘な振る舞いを続けてしまったのだろう。
本音では誰より子供役に憧れを抱いているというのに、のけ者にされる恐怖から口に出せずにいたわけか。
あの子なりに気を遣ってくれていたのだな。そんな重要な事に気付かずにいた自分が不甲斐ない。
「擬似的なものでも、亡くした父母との会話は嬉しいものだそうですよ」
忘れもせぬ天野の言だ。
ままごとの中の何気ない会話であれ、母から返事が返ってくることが嬉しかったと。
さっちゃんが求めているのは、そういったささやかなぬくもりなのだろう。
「わしは何度かままごとに付き合わされましたが、どうも父の役にはなりきれませんでな……さちも、わしのことは爺としか見れんと」
「家族間であれば、無理もない話です」
「そうですな……難しいところです。さちを喜ばせてやりたい気持ちはあるのですがね」
近所の子供達にも祖父母にも、さっちゃんの相手は務まらないというわけか。
遊びなど他にいくらでもあるはずだが、あの子はあくまでままごとの中で満たされたいのだろう。
家族のぬくもりを感じられないその他の遊びでは物足りず、途中で抜け出したくなってしまう……。
改善するには、満足いくまで根気よくままごとに付き合う相手が必要になる。
「……それでは中岡殿、本日はこれにて」
「ああ、はい。お孫さんによろしくお伝えください」
気がつけば、杉三さん宅へ続く曲がり角が間近に迫っていた。
互いに軽く頭を下げ、別々の道を行く。
先ほど耳にした内容が頭をちらつき、ひどく思考が乱れている。
それは、屯所の門をくぐってからも変わらず尾を引いていた。
「ふぅ……」
自室へと続く廊下の途中で、ふと立ち止まる。
他家の問題。成長の過程で、本人なりに折り合いをつけるであろう孤独感。
部外者が踏み込むべき領域ではないのかもしれない。
……が、聞いてしまった以上、少なからず手を差しのべたいという気持ちが湧き上がってくる。
こんな時、武市先生ならどうするだろうか。
トラなら?間崎先生なら?
龍馬なら……
無数の顔が代わる代わるまぶたの裏に浮かび上がり、自然と口許がゆるむ。
声を聞くまでもない。どの顔も、やれと言って微笑んでいる。
柄ではないが、ここは一肌脱いでみるとするか――。
決意の後、その足で向かったのは天野の部屋だ。
障子を開けて声をかける。
部屋の隅で本を開いていた天野は、すぐさま顔を上げてやわらかくこちらに笑みを向けた。
「隊長、おかえりなさい」
本を閉じて文机の上へ置くと、立ち上がって俺の正面まで駆けつける。
土産の包みを目にして、茶の誘いだと思ったのだろう。尻尾を振って主の言葉を待つ犬のように、爛々とその瞳が輝いている。
「ああ。悪いが、これから少し付き合ってくれないか?」
「え?どうしたんですか?」
「ままごとをしに行くぞ」
「ええええっ!?」
事態が飲み込めず目を丸くする天野には、杉三さん宅への道すがらおおまかな経緯を打ち明けた。
空にはうっすらと紫が上塗りされ、色づいた雲がちらほらと漂いはじめている。
陽が落ちるまでには終えたいところだが、さてどうなることやら……。
「それじゃ、寂しさを吹き飛ばせるような明るい家族を作らなきゃいけませんね!私、さっちゃんのお姉さん役でいきます!」
一通り説明を終えたのち、天野は鼻息荒く意気込みを語り、任せろと強く胸を叩いた。
が、何か誤解しているようだな。
「お前は子供役じゃないぞ」
「え!?おじいさんおばあさんが揃ってますし、あとは……」
「いや、今回は俺とお前、そしてさっちゃんの三人でやるつもりだ」
「そ、そうなんですか?じゃあ私……」
察しの悪い奴だな。
ままごとに関してはああも機転がきくというのに。
「お前にはさっちゃんの母役を頼みたい」
「え!?そ、そんな!無理ですよぉ!!」
「なぜだ?お前ほどの実力があればどんな役どころもこなせるはずだぞ」
「ですから私、これまで子供役しかしたことなくて……」
急に天野の足取りが重くなる。
先ほどまでの自信はどこへ消えたのか、その声はかすかに震えていた。
「俺は、できると信じているぞ」
「……母を知らない私が、ちゃんと母らしくできるでしょうか?」
「できるさ。何なら、俺が母役をやるか?その場合はお前が父役だ」
「そ、それはちょっと……隊長に無理をさせちゃいそうで」
「だったら、よろしく頼む」
「うう……わかりました」
半ば強引にだが、話はまとまった。
本音を言えば、俺もうまく父役をこなせる自信はない。もともと致命的にままごとが下手だからな。
しかし、今回はそれでいい。
さっちゃんの心の翳りを少しでも取り除くことができれば、十分だ。
古びた囲いを抜けて敷地内に入ると、農具の修繕中らしき杉三さんに出くわした。
彼は一瞬驚いたように目を見開き、立ち上がって会釈する。
向かい合うようにして、俺と天野も頭を下げた。
「突然お伺いして申し訳ありません。お孫さんと少し話がしたいのですが」
「おお、さちにご用ですか、どうぞお上がりください」
土産にと菓子包みを手渡すと、杉三さんはかえって恐縮したように腰を低くしながら玄関戸を引いた。
古びた木戸はあちこちに削れたような傷が入っており、出入りの際はぱらぱらと細かな木片が降ってくる。
通されたのは六畳ほどの一室だ。
障子を開けば、中にはさっちゃんと一人の老女がお手玉を手にして座っていた。
杉三さんの奥方か。小柄で穏やかそうな印象だ。
「しんたろおにいちゃん!みこねえちゃん!!」
俺たちの姿を見るなりさっちゃんは立ち上がり、勢いよく懐へと飛び込んできた。
それを受けとめるのは、もう何度目になるだろう。はしゃいだ声をあげる少女の頭にそっと手を添えながら、脇に立つ天野と笑みを交わす。
「これはこれは、ようこそいらっしゃいました。主人やさちから話は聞いております、中岡さまと……そちらは」
「みこねえちゃんだよ!」
「まあ、貴女が。みこさまも、どうぞゆっくりしていらしてください」
杉三さんの奥方は穏やに包み込むような笑顔で頭を下げた。
どうやら天野の名も聞き覚えがあったようだ。
この様子だと、ケンや大橋くんの話も耳に入っているのだろうな。
「ありがとうございます。今日は、さっちゃんとおままごとをしたいと思って伺いました」
「おままごと!?ほんと!?したいしたい!!」
天野がそう切り出すと、俺の懐から離れて跳び回りながら、さっちゃんは天野の手をとり上下に振り回す。
事態が今一つ飲み込めていない様子の老夫婦には、簡単に意図を伝えておく。
とはいえ先ほど話をしたばかりだからな。杉三さんはすぐさま理解し、気を遣わせてすまないと何度も頭を下げた。
「そういうことですので、しばらく三人で遊んでもよろしいですか?」
「もちろんですとも、お願いいたします」
二つ返事で、夫婦は部屋を後にした。
その場に留まってくれても構わなかったんだがな……まぁしかし、おかげで適度に肩の力が抜けそうだ。
「よし、さっちゃん。始めようか」
「はぁい!」
俺たちは部屋の中央に移動し、輪になって腰を下ろした。
「あのね、さっちゃん。今日はさっちゃんに子供の役をやってほしいの」
「さち、こども?」
「うん。それでね、私がお母さんで、たいちょ……えっと、お兄ちゃんが、お父さん」
さっちゃんは澄んだ瞳を瞬かせながら、天野の説明に聞き入っている。
「みこねえちゃんが、しんたろおにいちゃんのおよめさん?」
「う、うん……だめかな?」
「みこねえちゃんも、おにいちゃんのことすきなの?」
「えっ!?いや、あの、なんで!?」
「およめさんしたがってるから」
「あああのね、ちがうの!お嫁さんがしたいんじゃなくて、お母さんがしたいの!私、子供好きだから!早くお母さんになれたらいいなぁって思っててね!練習したいんだ!えへへ、さっちゃん、付き合ってくれる!?」
「……そっかあ、いいよ!」
どうした天野、その慌てようは。
顔を真っ赤にして額には汗が浮かんでいる。
……とはいえ母役に対する情熱はしかと伝わったようで、無事にさっちゃんの同意を得ることができた。
――さて、始めるとするか。
「俺が帰宅するところから行こう」
「はいっ」
「はぁい!」
腰を上げて障子のあたりまで引き返し、そして再び天野たちのもとへ歩をすすめる。
ままごとでは逐一動きをつけて変化を演出しなければならないようだからな。面倒ではあるが、前回の反省を活かすとしよう。
「今帰ったぞ」
軽く肩に手を添えながら、あぐらをかく。前回は湿った土の上だったことを思えば、畳があるこの状況はありがたい。
「おかえりなさい。さち、お父さん帰ってきたよ」
「うん……おとうさん、おかえり」
「ああ、ただいま」
膝を擦りながら眼前まで距離をつめたさっちゃんの頭を、そっと撫でる。
こちらの反応をやや不安げに見守っていた少女は、子猫のごとく目を細めてくすぐったそうに身をよじった。
「それじゃ、夕餉にしようか」
天野は手際よく、それぞれの膝元に配膳するような動きをとる。
今回は泥団子を作ることもできないので、すべては形だけを真似て行うようだ。
ままごと道具とは、おそらくこういった状況で必要になってくるのだろう。
「それでは、食おう」
「いただきます」
「いただきまぁーす!」
慣れた様子の二人は、目には見えぬ茶碗を手にとり、箸で空をつかみながらそれを口に運んでいく。
なるほど……ここまでしなければならんのか……。
一瞬動きに詰まったものの、脇に座る天野から軽く催促の肘打ちが入ったのをきっかけに踏ん切りがついた。
ここまで来たからには、とことん付き合わねばな――。
食事に関しては、見よう見まねでなんとか事なきを得た。
動きを盗み見ることに意識を傾けるあまり会話がおざなりなものになってしまったが、そこはこれといった指摘もなかったのでよしとしよう。
天野がうまく会話を盛り上げてくれたおかげで雰囲気は良好だ。
さっちゃんは、言葉を交わすにつれ次第に甘えた口調になり、最終的には天野にべったりとくっついている。
当初は仲睦まじい姉妹のようだった二人も、時の経過とともに母娘らしく見えるようになってきた。
「おかあさん。さち、きょうはおこんめのれんしゅうしたよ」
「そっかぁ。どれどれ、見せてみて?」
「うんっ!いいよ!」
おこんめ……?何だ?
聞き慣れない言葉に思わず眉を寄せる。京の訛りか?
さっちゃんは部屋の端に置かれた手製らしき玩具箱の中から、褪せた紫の小さな布袋を三つ取り出して見せる。
少女の手のひらに乗る大きさのそれは、お手玉だった。こちらではおこんめと呼ぶのか。
「おとうさんもみててね!」
少女は二つのお手玉を交互に上空に投げ、弧を描きながら落下するそれを手で受ける。
いささかたどたどしい手つきではあるものの、形にはなっている。
布袋が手のひらに触れるたびに、中身の小豆がこすれあう音が響いた。
規則正しく小気味よいその音は耳に心地よく、単調な動きの繰り返しであっても不思議と飽きがこない。
やがて、十二を数えたところで一つを取り落とした。
無念そうに肩を落としているが、たいしたものだ。
「上手いな、さち」
「うん、すごく上手!毎日頑張ったらすぐに二十はいけるよ!」
「ほんと?わぁい!つぎはおかあさんやって!」
立て続けに誉め言葉を口にすれば、少女はすぐに笑顔に戻った。
続けてお手玉は天野の手に渡り、間をおかずに再開することになる。
「まるたけえびすにおしおいけ、あねさんろっかく、たこにしき……」
歌に合わせて三つのお手玉が宙を舞う。
天野は手元に視線を向けることなく、共に声を出して歌うようさっちゃんに目配せをした。
ずいぶんと手馴れているな……。
丸竹夷に続いて、いくつもの童歌が途切れることなく紡がれていく。そのあざやかな手腕にさっちゃんもご満悦のようだ。
やはり天野を呼んで正解だった。こいつは遊びの達人だ。
続けようと思えばどこまでも行けたのだろうが、六通りほど歌を披露したところで天野は手を止める。
「はい、おしまい」
お手玉を畳の上に揃えて、はにかむように笑ってみせる天野に、さっちゃんが飛びついた。
「おかあさん、すごいすごいっ!!」
「ふふ、実は子供のころ、毎日練習してたの」
「ほんと?さちも、おかあさんみたいにできるようになる?」
「なるよ。じゃあもう一回一緒にやってみようか」
「うんっ!」
そうして始まるお手玉練習。よもやこれが半刻も続くことになろうとは……。
俺は時折さっちゃんを誉めたり、やってみろと差し出されたお手玉を断固突き返したりしながら二人の様子を見守っていた。
一度断りきれずに挑戦してみたが、結果はお察しだ。
「おとうさん!じゅうはっかいもできたよ!みててくれた?」
長らく続いた練習も一区切りついたようで、少女は達成感に満たされた笑みをこぼしながらその成果を報告する。
傍らで見守る天野は、すっかり母の表情だ。
「上達したな、さち」
「うん!おとうさんよりもじょうず!」
「う……ああ、そうだな」
父の威厳など欠片もない。
考えてみれば俺は、黙ってあぐらをかいていただけだからな。
いかんな、天野に任せっきりにしていては……。
何かできることはないかと思案しながら天野のほうへ視線を向けると、言わんとしていることを察したのか静かに頷き返してくれた。
「さち、お父さん疲れてるみたいだから、肩をたたいてあげて」
「はぁい!!」
肩叩きか。
天野は毎晩のように父の肩を叩いていたと聞いた。それが最も記憶に残る父との交流であり、団欒のひとときなのだろう。
外套を脱いでさっちゃんに背を向けると、すぐさま小さな掌が両肩に乗った。
脱いだ外套は、天野が畳んで膝の上で預かってくれている。
「わー、おとうさんのかた、かちこちだね!」
「そうだろう。こっているんだ」
「いしみたい!こんなにかたいのに、よくうごかせるね」
「まぁ、慣れているからな。さちが叩いてくれたら少し良くなるかもしれない」
「うん、まかせて!」
やりがいを感じたのか、少女は嬉々として手を動かしはじめる。
すぐさま上から叩きつけるような衝撃が幾度も降ってきた。
これは本当に叩いているだけだ。太鼓を打つ要領で思い切り両腕を振り下ろしている。
「……さち、そんなにしたらお父さん痛いよ。こうして、ゆっくりゆっくりほぐしてあげてね」
「どんどんたたくんじゃないの?」
「叩くというより、揉む感じかな」
「わかった!」
暫くは黙って見守っていた天野もさすがに見かねたようで、軽く指導を入れる。
さっちゃんの手をとって懇切丁寧にコツを伝授してくれたおかげで、すぐさま欠点は改善された。
あやうく肩が破壊されるところだったな。
「……さち、だいぶ楽になった。ありがとう」
両肩への刺激が途切れがちになったところで、さっちゃんの手にそっと触れる。
そう時間は経っていないはずだが、解放された瞬間にその場にへたりこんだところを見ると、よほど疲れたのだろう。
肩叩きは加減を誤ると腕にかかる負担が増し、持続が難しくなるそうだからな。奥が深いのだ。
「おとうさん、さち、かたたたきじょうずにできた?」
「ああ、上手だった。後でおじいさんにもしてあげるといい」
「うんっ!」
飽きっぽい性分で一所に留まっているのが苦手なこの子が、良しというまで泣き声を言わずに肩を叩き続けたのは、それだけで立派な成長だ。
杉三さん相手にも続けていけば、忍耐力が鍛えられていくだろう。
「さち、つかれたでしょ?えらいね」
「うん!でもがんばったよ!」
傍に来いと腕を広げた天野の懐に、少女は飛び込んでいく。
偉い偉いと誉められながら頭を撫でられると、くすぐったそうに目を細めて胸元に顔をうずめた。
仲間うちでは遠慮がちに一歩引いていたはずのさっちゃんが、今はこうして思う存分子供らしく振る舞っている。
友人とのままごとであれば、こうはいかなかったはずだ。包容力の差もそうだが、何より相手の境遇と心情に寄り添い手を差しのべようとする度量を天野は持っている。
俺一人では、こううまくはいかなかっただろう。
遊び疲れたのか、いつしかさっちゃんは天野の膝の上でまどろみはじめていた。
言葉をかけても、寝言に近い不明瞭な返事が返ってくるのみ。
そろそろお開きにするか。
「さっちゃん、ままごとはこのへんにしておこうか」
「……しんたろおにいちゃん、かえっちゃうの?」
「ああ、そろそろな」
広げた座布団の上に少女を寝かせると、目をこすりながら健気に起き上がって俺の袖口を引いた。
「かえっちゃやだ。ずっとおままごとしたい」
名残惜しいのだろう、弱々しく首をふって涙をにじませている。
――しかし、終わらせないわけにはいかない。
「さっちゃん、おままごと楽しかったね。寂しかったらまたいつでも遊んであげるから、泣かないで」
天野がなだめるようにさっちゃんの頭を撫でると、存外に聞き分けよく、ひき止める指先が袖口から離れた。
母役で得た信頼が余程大きいのだろう。ままごとの前後で、その反応は見違えるほどの変化を見せている。
「……きょうはすごくたのしかったよ。しんたろおにいちゃん、みこねえちゃん、ありがとう」
「ああ、楽しかったな。しかしさっちゃん、同じ年頃の友達と遊ぶのも楽しいものだぞ。一人でもいいから、何でも話せる仲間を見つけてみるといい」
「さちにも、できるかな?」
「ああ、できるさ。不器用な兄ちゃんにだって、たくさんできたんだ」
俺も本来は、人の交遊関係をとやかく言えるような人間ではない。
幼い時分は特に他人に興味がなく、黙々と一人で本ばかり読んでいた。
周囲を拒絶していたわけでも、人嫌いだったわけでもない。ただただ誰にも縛られず、取り入れた知識を頭の中で広げながら時を過ごすのが好きだったのだ。
それゆえ、仕入れた知識をぶつけ合う会話の面白さを知るまでは、積極的に他人に歩み寄ろうとはしなかった。
顔を上げてまともに村民と向き合うようになったのは、さっちゃんの年頃よりもずっと後だ――。
幼い時分に人との付き合いを積み重ねて来なかった事は、数年の時を経てこの身にのしかかった。
大庄屋見習いとして村民と向き合うようになった時、些細な日常の会話一つ一つに愛想のない返答を繰り返してしまい、心を開いてもらうまでに時間がかかってしまったのだ。
同じ塾で学んだ仲間や、志を同じくする人間とならば対等に意見をぶつけ合ってそれなりにうまくやっていけたわけだが、田畑に農具、天候や虫害や取れ高といった生活に直結した話題にきちんとした回答を導き出すのは、それは難しいことだった。
自分の欲する話題を口にすることが決してないような相手とも、言葉を交わして意見を受け取らなければならない日は必ずやってくる。
そして、そういった交流が無駄になることはない。
あらゆる人間の内面に触れることは確実に自分の中で肥やしになり、何かしら新しい発想を生む。
さっちゃんも後々人付き合いで悩むことがないよう、少しずつ友人との繋がりを築いてほしい。
多くを柔軟に吸収する多感な時期に、同じ年頃の子供たちに混じって思いやりの心を学ぶのは重要なことなのだ。
「あのね、さっちゃん。好きなものが似てる友達を探すといいよ。さっちゃんはおこんめが得意だから、同じようにおこんめが大好きな子とか」
俺の言葉が具体性を欠いていたこともあり、天野が横から補足を入れてくれる。
そうだな、共通の話題さえあれば話のきっかけなど幾らでも作ることができる。
「いっしょにれんしゅうしてくれるかな?」
「おこんめを持って外に出たら、誰か声をかけてくれるかもしれないよ」
「うん、うん……!」
さっちゃんは素直に頷きながら、天野の助言を頭に叩き込んでいる。
その表情からは確かな真剣味が感じられる。口約束だけではなく、明日にでも実践してくれることだろう。
――何も、無理に付き合いを広げろと言うつもりはない。
ただ、この子は本来人懐っこく気配りのできる子だ。
恐れずに歩み寄っていくことさえ出来たなら、友達などすぐにできるだろう。
新しい出会いが胸の傷を癒してくれるということもある。
抱えていた孤独感を埋めてくれるような存在に、いつか巡り逢えるといいのだが。
「――さち、おとうさんやおかあさんがいないから、ほかのこが、おかあさんのはなしをするのがさみしかったの」
幾らか眠気が飛んだ様子で顔を上げた少女は、何かが吹っ切れたような清々しい表情で、その心の内を語りはじめた。
「そっか、分かるよ、私も小さい頃にお母さんを亡くしたから。友達のお母さんがお迎えに来たりすると辛いよね」
「うん。だからね、ゆうがたになるまえに、おうちにかえったりしてた」
「そっか。そんな気持ち、誰にも言えないもんね。よく話してくれたね」
天野はうっすらと目尻に涙を浮かべながらさっちゃんを抱きしめて、優しくその背をさする。
――なるほど、そういう事だったのか。
てっきり俺は、飽き性で他の遊びに目が移りやすいことが原因で、遊びの最中に姿を消すのだと思っていたが……そう単純な話ではなかったのだな。
すべては亡くなった父母を想うがゆえの葛藤が引き起こしたものだったのか。
「……さっちゃん、辛い思いをしてきたな。だが、寂しい時はもっとおじいさんやおばあさんに甘えてもいいと思うぞ」
「……そうかなぁ」
「ああ。厳しいように見えて、おじいさんはさっちゃんのことが可愛くてたまらないようだ」
「ほんと?」
「本当だ。試しに今夜、新しい玩具がほしいとねだってみるといい」
杉三さんは嬉々として材料の調達に向かうことだろう。
職人気質で不器用だった男が、先日の一件で見違えるように優しげな顔を覗かせるようになった。
少しずつ、何かが変わろうとしている。祖父母が変われば、この子もまた新しい一歩を踏み出すことができるはずだ。
「じゃあ、おじいちゃんのかたをたたきながら、たのんでみるね!」
「それは効きそうだ。今日習った通りに頑張るんだぞ」
「うんっ!」
花のように笑ってみせる少女につられて、こちらも頬がゆるむ。
直接的に何かを解決できたわけではないが、この子に明るい道筋を示してあげることくらいはできただろうか。
何事もそうだが、それぞれが相手の立場と苦悩に理解を示し、少しずつでも思いやることができたなら、その関係は劇的に改善されていく。
まずは互いに恐れず、歩み寄ってみることだ。
「しんたろおにいちゃん、みこねえちゃん、きょうはたのしかったよ。ふたりとも、ほんとのおとうさんおかあさんみたいだった」
「えへへ、ありがとさっちゃん。私でよかったらまた一緒にあそぼ?お母さん役やるから!」
「うん!でもさち、もうだいじょうぶ。それより、みこねえちゃんみたいなおかあさんになりたい!」
「……え?おかあさんに?」
「うん!しんたろおにいちゃんにぴったりな、およめさんになりたい!!」
と、不意討ちで飛び付いてきたさっちゃんを俺は苦笑混じりに受け止めた。
……なんだ、また振り出しに戻るのか?
脇に座る天野も複雑な表情でこちらに笑みを向けている。
しかし、父母との交わりへの渇望が薄らいだのであれば、それはそれで良い結果と言えるのかもしれない。
今後は思う存分母役を追い求め、楽しんでいけば良い。
この子にも、いずれ母になる日がきっと来る。その時は亡くした父母の分も、自らが産み落としたその子に愛情を注いでいけばいい――。
「それじゃ、さっちゃん!おこんめが上達したらまた見せてね。三十続くようになったら会いにきて」
話も一通り終わり、天野が締めの挨拶に入る。
「わかった!さち、れんしゅうする!」
「だったら俺は、その時にまた肩叩きをしてもらおうか」
「うんっ!したい!かたたたきも、もっとじょうずになるね!」
そんな再会の約束とともに、その場はお開きとなった。
天野や大橋くんに会うためにこの子は今後も屯所の門を叩くだろう。
その時は俺も、軽く近況でも聞かせてもらうとしよう。
杉三さん夫婦に挨拶をしてさっちゃんを引きわたした後、俺たちは並んで家路を辿っていた。
孫娘の満たされた表情を目の当たりにした両人は、感謝の言葉もないと何度も頭を下げ、門の外まで見送りに出てくれた。
……形だけではあるが、父母との触れあいはあの子の中に何かを残しただろうか。
変化はすぐに訪れなくとも構わない。あの家族が今日の出来事を機に、わずかでもお互いを気にかけるようになってくれたなら幸いだ。
「はぁー…なんとか終わりましたね、隊長」
屯所が間近に見えてきたところで、天野が盛大にため息をついた。
いつしか夜の帳が下り、見慣れた陣営はぼんやりと闇の中に浮かび上がっている。
「ああ、すべて天野のおかげだ」
「いえいえ。隊長も立派にお父さんしてましたよ」
「お前には負ける……というより俺は、ほぼ座っていただけだからな」
飯を食うふりをし、お手玉を脇で見守り、肩を叩いてもらったくらいか。
考えれば考えるほどお飾りだった気がしてならない。
「でも父親って、そんな感じじゃないですか。黙ってそこにいてくれるだけで安心するような」
「それは威厳ある父に限るだろ」
「隊長は威厳ありますよ」
「そうか……?怪しいところだな」
最近は屯所でも隊長らしい振る舞いができているのか疑問だからな。
ままごとの父役はともかくとして、隊長としては集団を束ねる者に相応しい風格が欲しいところだ。
「でも、さっちゃん元気出たみたいでよかったです」
「ああ。やはり思いきり親に甘えてみたかったんだろうな」
「そうですね。とっても可愛かったです」
「お前にべったりだったからな」
「えへへ、隊長より好かれちゃったかもしれません」
「俺の目にはそう映ったぞ」
あのさっちゃんが、天野の前では聞き分けよく振る舞っていたからな。
機嫌とりでも役柄を演じているだけでもなく、いたって自然な流れでだ。
よほどの信頼を得たからこそだろう。
「きっとこれからは大丈夫だと思います。そばに親がいない寂しさは、他の家族や友達が埋めてくれるはずですから。私もそうでしたし」
「そうだな。静かに見守っていくとしよう」
「はいっ!隊長、今日はお疲れ様でした」
「ああ、本当によくやってくれたな」
屯所の門はもうすぐそこだ。
数間先に立つ門番達が、こちらに向かって頭を下げる。
ようやく帰ってくることができた。この光景を視界に入れるたびに、安堵感から肩の力が抜ける。
帰る家があるというのは、それだけで幸せなことだ。
「天野。俺は今日母役をこなすお前を見て、こんな家に住むことができたら幸福だろうと思ったぞ」
屋敷から漏れるあたたかな明かりに気が緩んだのか、ふとそんな言葉が口をついて出た。
「え!?な……ええっ!?それってつまり!?」
天野は慌てふためいてそわそわと視線を泳がせている。
何を想像しているのか。
「お前の息子に生まれていたなら、毎日楽しく過ごせただろうなと」
「そっちですかー!もーっ!」
「……何だ?どっちだと思ったんだ」
「私、隊長みたいな立派すぎる息子、手に負えませんっ!」
顔を真っ赤にしながら、天野は逃げるように門をくぐって先へ先へと行ってしまった。
……少しからかいすぎたか。
しかし、悪くないと思ったのは本当だ。
無茶な頼みに真心を持って向き合ってくれた礼に、近々行きたがっていた甘味処にでも連れていってやるか――。