『この関係は二人だけの秘密』
気持ちが通じあったその日に、彼と私はそう誓いあった。
恋仲であることは人にもらさず、秘めておこうと。
誰からも祝福されない変わりに、誰からも咎められない。
今はそんな関係が一番いいのだと。
彼の言いつけは絶対だ。
私は従順に、その言葉を守っている。
たとえ本人を目の前にしても、熱い想いを秘めぬいて――。
「中岡さーん!帰ってくんの久々っすねぇ!土産は?」
「買ってきたぞ。大橋くんはいるか?」
「部屋にいますよ。ハシさーん!隊長さまのお帰りだー!!」
もう日も落ちかかった夕暮れ刻。
ドタバタと、玄関のほうから騒がしく足音や叫び声が聞こえてくる。
……田中先輩、嬉しそうな声色だなぁ。
まるで、ご主人さまの帰りを喜ぶ犬のようなはしゃぎっぷりだ。
四日ぶりに、隊長が帰還したのだ。
幹部のみなさんが次々と玄関まで出迎えにいくのはいつものこと。
隊のことや時勢のこと、藩との兼ね合いや海援隊の仕事についての報告などなど、もう話すことがいっぱいあるはずだ。
くつろぐ間もなく、我らが隊長さんは夜まで引っ張りだこだろう。
「どうしようかなぁ……」
自室の障子をこぶし一つぶんほど開けて、玄関のほうをのぞきこむ。
私の部屋は長い廊下を進んだ奥のほうに位置しているから、彼らが立っているあたりからは少し距離がある。
今は立ち止まって何やら和やかに談笑しているようだ。
田中先輩といる時の隊長は、肩の力が抜けてよく笑ってくれるから……。
耳に届く低い笑い声に、きゅんと胸の奥が切なくなる。
なんだか妙にどきどきしてきちゃったな……。
一言挨拶でもしておこうかと思っていたけれど、もうさっきの声だけで満足できた気がする。
むしろ久しぶりすぎて、直接顔を合わせて話しなんてしたら、嬉しさのあまり挙動不審になってしまいそうだ。
「中岡さん、お帰りなさい。お疲れでしょう、まずは休まれます?」
「いや、このまま部屋で話そう。今朝方乾さんと会って、例の件を相談してきたんだ」
「マジすか!んじゃとりあえず、詳しくは中岡さんの部屋で」
「そうだな。行こう」
どうやら大橋さんと合流して、隊長の部屋まで向かうようだ。
……ん?隊長の部屋ということは、もしかしてこっちに向かってくる?
そう気づくのとほぼ同時に、廊下の端から声が上がった。
「天野!なに首だけ出して覗いてんだ、中岡さん帰ってきたぜ!」
田中先輩だ。
その隣には中岡隊長、そしてそのうしろを大橋さんが歩いている。
歩幅の広い彼らとの距離はみるみる縮まり、私は障子の隙間から顔を出したまま、ぴたりと固まった。
「あ、えっと、隊長……おかえりなさいませ……」
目を合わせることもできずに、あさっての方向を見つめながら、私はしどろもどろに挨拶をする。
「ああ。すまんが、人数分茶をいれてくれるか?あとで部屋まで運んでくれ」
「わ、わかりました……!」
ぎこちなくこくこくとうなずく私を胡乱げに見つめながら、三人は私の前を通りすぎていった。
彼らの背中が突き当たりの部屋へと入っていくのを見届けて、私は大きくため息をつく。
――だめだ。
毎日顔を合わせていればまだなんとかなるけれど、こうして久しぶりの再会となると、どうしても緊張してしまう。
もっと自然に、今まで通りに振る舞いたいのになぁ……。
それからすぐに厨でお茶の準備をすませ、私はお盆を持って隊長の部屋をたずねた。
「お茶が入りました」
部屋の中には、隊長に大橋さんに田中先輩。そして香川さんが座っている。
いつのまにか香川さんも合流したようだ。
四人は輪になって座り、中央に広げられたお土産に手をのばしている。
「ちょうどよかった。天野さん、中岡さんがお土産にと甘味を買ってきてくださいましたよ」
串団子を片手に、大橋さんはほんわかと幸せそうに微笑んでいる。
さきほどの会話からすると、すぐにでも真面目な話が始まりそうな雰囲気だったのに……。
目の前においしそうなお菓子が広がれば、誰しもそちらに気が向いてしまうものらしい。
「わぁ、おいしそうですねぇ」
「天野も食ってくれ。ここの団子はうまいぞ」
と、隊長はやわらかな色合いの可愛らしい三色団子を手にとって、私のほうへ差し出してくれる。
……あ。これって、みはま茶屋さんのお団子だ。
そういえばずいぶん前に、ここの串団子がすごくおいしいって隊長に話をしたっけ。
(私が三色団子を好きだってこと、覚えてくれてたんだ……)
たしかあれは、肩をたたきながらの何でもない世話話で。
隊長は視線を本に落として静かに頷いていただけだったから、半分は頭に入っていないんだろうなぁ、なんて思っていたのに。
「そ、それじゃ、いただきますっ!」
串を受け取る瞬間、ほんの少しだけ指先がふれ合って、どくんと胸が脈打つ。
ほのかに染まる頬を覆い隠すように手のひらをそえながら、私はお団子を頬張った。
「中岡さん、今まではなんか貧相な饅頭とかばっか土産に買ってきてたのに、今日のはやたら鮮やかなのが多いっすねぇ」
「田中くん、この店は隠れた名店なのですよ。特に女性に人気がありましてね……天野さんが召し上がっている三色団子が一番人気なんです」
唐突な流れで、大橋さんが熱心に解説をはじめる。
残りのお三方は、また始まったと慣れっこな様子で、適当に流し聞きしているようだ。
「隊長さんが女に混じって団子包んでもらってるとこ想像すると、笑えるねぇ。なんでわざわざそんな店に寄ったんだい?」
「たまたま帰り道に通りかかっただけだ」
ニヤニヤと冷やかしの目を向ける香川さんをさらりと涼しげな口調でかわしながら、隊長は湯飲みをかたむける。
……なんだか、ハラハラするやりとりだなぁ。
このままここに居座り続けるのも気がひけるし、そろそろ退散したほうがいいかも。
私はそろりと立ち上がって、小さく頭をさげる。
「あの、お団子すごくおいしかったです……私、そろそろ行きますね」
みなさんは一斉にこちらに視線を向けて、それぞれうなずき返しながら見送りの言葉をくれる。
そんな中、隊長が去りぎわの私の背中に一声かけてきた。
「昨日から特に肩こりがひどくてな、夜にまた頼む」
――肩たたき、か。
部屋においでという、彼なりの誘い文句だ。
「わ、分かりました。それでは、また……」
他の三人に何か勘づかれやしないかと一人どきまぎしながら、私はあわてて障子をしめた。
「ふぅ……」
ひやりとした廊下の空気に触れて、火照った体が次第に熱を失っていく。
そうして冷えた頭で一息つけば、さきほどのぎこちなくもこそばゆい二人のやりとりに、思わず苦笑が漏れてしまう。
そばにいながら、照れくさくてろくに隊長の顔を見ることができなかった。
――でも、声が聞けた。言葉を交わせた。
それはすごく久しぶりで、私が待ち焦がれていたささやかなご褒美だった。
(お団子も買ってきてくれたし……)
二人だけに通じる暗号のような何かで、たしかに私たちはつながっていた。
そのことを思うとなんだか無性に嬉しくて、恥ずかしくて、思わず両手で顔を覆ってしまいたくなる。
皆の前で堂々と、迷いなく三色団子を手にとった隊長は、得意げに微笑んでいた。
『これが好きなんだろう?』とでも言うような、何でも見透かしてしまういつもの顔で――。
(ああもう……)
廊下の真ん中で立ち止まって、一人赤面する。
隊長はどうしてああも、自信ありげに堂々としていられるのだろう。
……四日ぶりの再会だというのに、顔色ひとつ変えないんだもんなぁ。
私なんか声を聞くだけで嬉しくて、近くに彼がいてくれるというだけで平静ではいられないというのに。
(温度差みたいなものが、あるのかな……)
時々、不安になる。
私ばかりあの人のことを好きなんじゃないかって――。
考えても仕方ないか。
夜にはまた二人きりで話す時間がとれそうだから、それまでは大人しく待っていよう―…。
夕餉を済ませて、お風呂に入って。
それから自室で正座しながら待つこと数刻。
あれから隊長とは一度も顔を合わせていない。
幹部のみなさんとあれこれ込み入った話をしたり、誰かに文をしたためたりしながら、彼はずっと部屋に閉じこもりっぱなしだ。
ひっきりなしに来客があるものだから、とても私が入っていけるような隙はない。
今は大橋さんや香川さんとお酒を呑みながら、話をしているようだ。
これは長引くだろうな……。
みなさんお酒に強いから、なかなかそういった席はお開きにならないのだ。
「はぁ……眠くなってきちゃった……」
じっと一人で待ちぼうけというのも、なかなかつらい。
隊長を好きになってから、待つことには慣れたつもりだけど。
彼と会うにはいつも順番待ちで、私にその時が回ってくるのは決まって諦めようと肩を落とした頃だ。
「……あと、どれくらいかな……」
姿勢をくずして、目の前の布団に顔をうずめる。
だめだ。もう、自然にまぶたがおりてきてしまう―…。
ちょっとだけ目をつむろう。
ほんの少しだけ――。
いつしかぐっすりと眠ってしまっていた私の頭に、そっと大きな手のひらが添えられたのは、それから半刻ほど経ってからのことだった。
あたたかな感触に、はっと目を覚ました私は、跳ねるようにして身をおこす。
「……すまん、起こしてしまったな」
目の前には、中岡隊長が座っている。
なにやら大量の紙の束を手に持って……。
「わ、あの、ごめんなさい……!肩たたきに行けなくて、その……!」
思い切り口をあけて、それはもう間抜けな顔で寝入っていた私は、あたふたと取り乱しながら下を向く。
ふいうちすぎて、まともに隊長の顔を見ることができない。
「いや、俺のほうこそ悪かった。香川たちと呑んでいたら長引いてしまってな……待ちくたびれただろ?」
「いえ、そんな。隊長はまだ、お仕事が残っているんですよね……?それなのに部屋まできてくれて……」
彼がばさばさと広げる紙の束に目線を向けて、私はぎゅっと肩をすぼめる。
「いや、これはお前の机の上にあったものだぞ。きちんと毎日手習いできているな」
「……え!?」
手習い!?
たしかに毎日お昼から欠かさず字の練習をしているけど……!
見られてまずいものはなかったかと、冷や汗が流れ落ちる。
私、たまに恥ずかしいことを書きなぐったりしてるからなぁ。
「……そろそろ移動するか。俺の部屋に行こう」
「え?あ、はい……!」
隊長は数十枚におよぶ私の手習いを大事そうに持ち上げて、障子に手をかける。
私も、言われるままに立ち上がった。
懐から櫛を取りだし、髪をとかしながら彼の背中についていく。
やがて隊長の部屋までたどり着くと、彼は障子をしめて小さく息を吐いた。
「……ようやく、お前とゆっくり話ができるな」
「は、はい……!そう、ですね」
「お前な、夕刻からずっとそうだぞ。からくり人形か?」
「え……?いえ、あの、だって……隊長には隊長として接しなきゃいけないって思って……」
「そうだな。しかし絶望的に下手くそだ。いちいち言葉につまりすぎなんだ、お前は」
「は……い」
こくこくとひきつり顔で頷きながら、なるほどたしかにからくり人形の動きだと納得する。
そんな私を見て、隊長は可笑しそうに肩をふるわせながら小さく笑い声をあげた。
「……まぁいい。肩をたたいてもらえるか?」
「は…はい!」
「からくり人形殿、二人でいる時間くらいは肩の力を抜いてくれ」
「わ、何ですかもう。その呼び方やめてくださいよぉ」
むっと頬をふくらませて、背を向けてあぐらをかいている彼の肩に手をのせる。
いつもながら、石のように固い。
四日ぶりの手応えに、私は軽く袖まくりをして気合いをいれた。
そして、できるかぎり丁寧に、凝りをほぐすべく指圧する。
「……こってるだろ?」
手元にふたたび私の拙い手習いを広げながら、彼はちらりとこちらに視線を向ける。
「こってますねぇ。こんなにひどいと、動かすのもつらくありませんか?」
「そうだな。最近は、誰か乗っているんじゃないかと錯覚するほどだぞ」
「怖いですよそれ……怪談じゃないですか!」
「まぁ、お前の肩たたきでいくらかそれも和らぐからな。怖がらずにいつも通り頼む」
「……はい」
うなずいて、指先を動かす。
肩たたきと言っても、言葉通りにトントンと叩いているわけではなく、もみほぐしたり指圧したりがほとんどだ。
昔からよく父の肩を叩いていたからそれなりに慣れているし、下手ではないはずだ。
――思えば。
こうして隊長の部屋に肩たたきに来るようになったのは、単純に疲れた彼をねぎらいたいという気持ちからだった。
けれどだんだん、二人きりで話をできる時間が待ち遠しくなってきて……。
その時にはもうたぶん、この人のことを好きになってしまっていたんだと思う。
肩をたたいている間だけは、多忙な隊長を独占できる。
この時間は私にとって何よりも重く大切な、宝物のようなひとときなのだ。
「もう少し下をたのむ」
「はい、このあたりですか?」
「ああ……よく分かってるな、お前は」
「知ってますよ、どこがこりやすいのか。自然に頭に入っちゃいました」
「それは助かる。おかげで明日からも働けそうだ」
半紙の束に目をおとしたまま、彼は小さく笑った。
顔は見えないけれど、声で分かる。
やわらかくて落ち着いた、私の大好きな声。
「……隊長。こうして普通にお話できる時間が、すごく幸せです」
「そうだな。俺もお前と話していると、余計な考えが頭から抜けていく。心地良いひとときだ」
「そ、それっていいことなんですか?抜けていくって……」
「もちろんだ。心安らかにいられる、という意味で言ったんだぞ」
「わ……それは、嬉しいです」
むずかしい仕事の話はいったん脇に置いて、肩の力をぬいた状態で私と向き合ってくれているということかな。
隊長はいつも易しい言葉づかいで、こちらの理解の程度に合わせた話し方をしてくれる。
幹部のみなさんといる時は、聞き慣れない難しい単語ばかりを使って会話しているのに。
「……隊長は、私と話していてつまらないって思ったりはしませんか?」
そう思われても仕方がないと、感じることは多い。
私みたいに知識の浅いおなごが相手だと、退屈させてしまうんじゃないかって。
「思わんな。お前は、俺との会話がつまらんと感じるか?」
「いえ、それはないですけど……私、難しい話にはついていけないし、字だってまだまだよく知らないし……」
もっと賢ければ、陸援隊のために何か役に立てることがあったかもしれない。
私なりに本を読んだり手習いをしたりはしているけれど、そう急速に知識は増えていくものじゃない。
少しもどかしく思ったりもする。
「字は上達してるじゃないか。よく書けているぞ」
すべてに目を通し終わったのか、隊長は半紙をまとめて畳の上に置きながら満足げに息をついた。
「本当ですか……?どこかおかしいところはありませんでしたか?」
「……おかしくはないが、気になったのはこれだな」
と、彼は山になった紙の束から数枚を抜き出して、肩越しに私の視界にうつるようにばさりと振ってみせる。
少しばかり身をのりだして確認すると、それは……
「わあぁっ!私の日記じゃないですか!!」
手習いとは別に、机のすみにまとめて置いてあったはずなのに……!
まさかそっちまで回収されていたなんて!
「たしか以前、日記をつけてみろと勧めたよな。あれから続けているのか?」
「はい……一言でもいいから何か書くといいって、隊長が言ったので」
「そうか。いや、面白いものだな、他人の日記というのは」
「私、変なこと書いちゃってますよね、絶対……」
思い返してみれば、隊長のことばかりを綴っていた気がする。
よりによって本人に見られてしまうなんて、あまりにも恥ずかしすぎる……。
「十八日の『かたくならない』というのは一体なんだ?」
「あ、それ多分おにぎりのことです。固く握る練習をしていたんですよ」
「なるほどな……二日後には『ちょっとかたくなった』とある」
「隊長が、固いほうが好きって言ったから」
「わざわざ俺のためにか……今度食わせてくれ」
くすりと笑みをこぼしながら、彼は肩をたたく私の手にポンと優しく触れる。
思いがけない接触に思わずびくりと肩が浮き、みるみる赤く頬が染まっていく。
「…は、はい。それじゃ、明日、つくりますね……」
きゅっと肩をすぼめて、彼の背中に隠れるようにして、私はその場に座りこむ。
こちらから隊長の肩まわりに触れるのは慣れたけれど、むこうから触れられるのはいまだに慣れない。
昔は、頭を撫でてもらえるたびに無邪気に喜んでいたんだけどな。
「……おかげで大分楽になった。肩たたきはもういい」
私が手をとめたのを見て、彼は首もとに手を添えながら、ぐりぐりと肩をまわしだした。
いけない、疲れたように見えたかな。
「あ、まだやりますよ。久しぶりですし」
「いや、そろそろ隣に来い。お前の顔を見て話がしたくなった」
「……え、あ…はい」
言われるままに、立ち上がって彼のとなりへと移動する。
いつもならもう少し長く肩を叩いているんだけどな。
今回は心なしかお呼ばれするのが早い気がする。
「俺の名前は、覚えにくいか?」
傍らにちょこんと座る私のほうへ視線を向けて、隊長はくすりと笑った。
「え?どういう意味ですか?」
覚えにくいなんて思ったことは一度もない。
「いや、何度も練習しているようだからな……」
「わ……!それは!」
彼がこちらに差し出した半紙には、みっちりと何行にもわたって同じ漢字が敷き詰められていた。
『中岡慎太郎』
隊長の名前だけは上手に書けるようになりたいと、密かに毎日練習していたのだ。
日記同様誰かに見せるつもりで書いていたわけではないので、恥ずかしさと気まずさがごちゃまぜになって、私は思わず項垂れた。
「よく書けてるぞ。単純そうに見えて意外と、中岡の二文字は崩れやすいからな」
「ええと、その……難しいからというより、もっときちんと書きたいから練習してたんです」
「きちんと?」
「はい。他がどんなに下手くそでも、隊長の名前だけはきれいに書きたいから」
「……そういうことか」
かすかに口角をあげて、隊長は私の頭をくしゃりと撫でる。
そうして、そのままぐっと肩を抱くようにして私を懐に引き寄せた。
「た、隊長……!あの、だめです」
「何がだ?」
「誰かきちゃったら大変です……」
私は一人、彼の腕の中で慌てふためいていた。
隊長の部屋は、いつ来客があってもおかしくない。
私たちの関係は、あくまで秘めておかなきゃならないのに――。
「幹部連中には、もう寝ると言ってあるから心配ない。朝まで誰も来ることはないぞ」
「……いいんですか?屯所ではあくまで隊長としてふるまうって言ってましたよね」
「そうだな。ここにいる間は、俺は隊長らしくあらねばならない。女にうつつを抜かしている姿を隊の人間に見せるわけにはいかないからな」
「……そう、ですよね」
そういう約束だ、よく理解している。
「俺は器用ではないから、常に気を張っていないと統率者としての自覚を失ってしまいそうでな。すまん」
「わかっています。私は、陸援隊の隊長さんを好きになったんですから」
皆の先頭に立って、凛々しく頼もしく隊を導いてくれるその姿を好きになったんだ。
私のことなんて二の次でかまわないと、覚悟している。
「――しかしな。寝る前にほんのひととき、惚れた女との逢瀬を楽しむくらいはいいだろう……」
腕の中にとじこめるようにして私の体を抱きしめながら、隊長は私の耳にそっと唇をおとした。
ぞわりと体が跳ねて、私は思わず彼の胸元に顔を押し付ける。
「隊長……」
「隊士のいないところでは、そう呼ばなくてもいいぞ」
ふわりと、優しく頭を撫でる感触。
そして耳もとで聞こえる低く甘い声に、じわりと涙が浮かんでくる。
こんなふうに恋人らしく過ごせるなんて、本当に久しぶりだ――。
「……中岡、さん」
「そっちじゃない、下の名前でいい」
「……う、下の、なまえ…ですか」
思いもかけずおとずれた甘いひとときに頭の切りかえがきかず、私はたじろいでしまう。
「できるだろ?こんなにたくさん練習してくれたんだからな」
彼はそう言って、半紙に書かれた自分の名前をそっと指でなぞる。
……どうしてこう、私を赤面させるのがうまいんだろう。
「書いたことはありますけど、呼ぶのは初めてだから……緊張します」
「そういえば俺も、まだお前のことを下の名で呼んだことはないな」
「あ、たしかにそうですよね。やっぱりなんだか照れちゃうものでしょう?」
こうして抱きしめてもらったことは何度かあるけれど、下の名前で呼びあったことは一度もない。
そう考えると、私たちの関係はまだまだ青く未完成なものなのかもしれない。
「照れはしないが……しかしまぁ、恥ずかしいのであれば同時にいこう」
「同時に?せぇのーでいきます?」
「子供か、お前は。合図は……そうだな」
かすかに声をあげて可笑しそうに肩をふるわせた彼は、あぐらをかいた自らの膝をポンと叩く。
「……なんですか?」
「膝の上に来い」
「ええええっ!?」
「馬鹿、部屋の外に聞こえるぞ」
彼はあわてて私の口をふさぐ。
……いけない、さっきの声はちょっと大きかった。
冷や汗まじりに固まって、しばらく周囲の音に耳を傾けていたものの、どうやら気づかれた様子はない。
ほっと胸をなでおろし、互いに顔を見合わせる。
彼はげんこつを作って軽く私のこめかみにぶつけながら、ふたたび視線を自分の膝に向ける。
私はこくりと頷いて、促されるがまま指定の位置に腰をおろした。
彼の胸元に私の左肩をくっつけるようにして、横向きに体をあずける。
「……重くないですか?」
「思っていたよりもずっと軽い。お前は小さいからな」
「そう……ですか」
膝の上で抱かれるのは、先ほどまでの抱擁と比べてずっと緊張する。
触れあっている箇所が多すぎて、あちこちに意識が散ってしまうのだ。
……恥ずかしい。けれど、すごく幸せ。
「これから口づけをするぞ」
「え?…は、はい」
きゅっと目をつむって、思わず身をかたくする。
わざわざ宣言するなんて、余計にどきどきしてしまう……。
「終わったら、それが合図だ。互いに名前を呼びあおう」
「わかりました……」
いつでもどうぞ、と震えながら顎を上げる。
そんな私の様子を見てかすかに目を細めた彼は、優しく優しく髪をなでてくれる。
ただそれだけの触れあいで、もう十分だと思えてしまう。
こうして間近でその息づかいを感じていられるだけで、どうしようもなく愛しくてたまらない。
――やがて、ゆっくりとお互いの唇が重なった。
会えなかった日々の寂しさを埋めていくように、私たちは恋人らしく、静かに想いをぶつけあった。
「美湖……」
「――…っ……」
唇がはなれたあとの私ときたら、余韻にひたりきってただただ彼に甘えるようにしがみつくだけで精一杯だった。
思考回路はとっくに溶けおちて、使いものにならない。
「……約束がちがうぞ」
彼は珍しく照れているのか、責めるような声色で私の耳をかるく引っ張る。
「あ……ご、ごめんなさい、わたし……」
「――仕方ないな。次はちゃんと呼んでくれよ」
「……っ」
ふたたび塞がれる唇。
私は約束を忘れないように、頭のなかで彼の名前を繰り返し唱えつづける。
慎太郎さん、慎太郎さん、慎太郎さん……。
今度は、私が先に名前を呼ぶんだ。
そう決意して機を見計らっていたおかげか、唇がはなれた瞬間に、私の口からすぐさまその名はこぼれ落ちた。
「しんたろうさん……っ」
思っていた以上に呂律がまわらなかった。
ふにゃりとして、何とも気の抜けた声だ。
「……言えたな、美湖」
よくやったと誉めるように、慎太郎さんは私の頭をよしよしと撫でてくれる。
「なまえを呼ぶのも呼ばれるのも、なんだか照れますね……」
「だが、嬉しいものだな。もう一度聞かせてくれ」
「はい、慎太郎さん……」
「――美湖」
私たちはもう一度、お互いのぬくもりを感じながらきつく抱き合った。
そうして、軽く触れるだけの口づけを二度、三度と交わす。
とっても幸せで、愛しくて。
いつしか私の目のふちには、じわりと涙が浮かんでいた。
ずっとこのまま夜が明けなければいいのに、なんて思いが頭をよぎる。
――けれど、別れの時は必ずやってくるものだ。
少しだけ熱のこもった部屋の中央で、慎太郎さんは名残惜しそうに口をひらいた。
「……そろそろお前を部屋に返さなければな」
これまでの甘さが抜けた、歯切れのいい口調。
どうやら彼の中で何かが切り替わったみたいだ。
「あ、はい……そうですね。もう遅いですから」
そっと身を離して、彼の膝から体をおろす。
――恋人どうしの逢瀬は、これでおしまい。
寂しい気もするけれど、あまり長々と居座るのも悪い。
「……すまん。これ以上あのままでいると、朝まで帰したくなくなってしまいそうでな」
「……!」
「さぁ、廊下まで送ろう、からくり人形どの」
「からくり人形はやめてくださいよぅ……」
赤くなって両頬をおさえながらあたふたする私の背をそっと叩いて、彼は立ち上がった。
その口から出るのは、先ほどまでの甘さなどまるでない、さっぱりとしたからかいの言葉だ。
私は、小さく頬をふくらませながらその背に続いて歩きだす。
障子が開くのと同時に、私はふと夕刻のことを思い出して声を上げた。
「そうだ、お土産のお団子、すっごく美味しかったです。ありがとうございました!」
「……そうか、それはよかった。明日もまた土産を買って帰ろう。どこか好きな店はあるか?」
「えっと、そうですねぇ……三条河原町の、ゆめやさんとか。名物のゆめや饅頭がおいしいんですよ」
「分かった。大橋くんのためにも多めに買っておかねばな」
「ふふ、小さなお饅頭ですから、きっとすぐになくなっちゃいますよ」
――なんて、他愛もない言葉を交わしながら。
私たちは少しずつ火照った心身を冷やしていく。
そうして廊下に出て向かい合えば、もうすっかり元通りの関係だ。
「おやすみなさい、隊長」
「ああ。おやすみ、天野」
今日の肩たたきは、これでおしまい。
私は隊長に向かって大きく頭を下げて、自室へと続く廊下を歩き出した。
耳の奥には、まだ彼の声が残っている。
優しく笑ってくれる声。
きっと朝が来ても、何日経っても覚えているだろう。
いつだってそうだ。
私は、二人きりの時間に彼がくれた言葉を胸に刻んで、それを糧にしながら日々を生き抜いている。
きちんと気持ちが通じあっているんだと、信じさせてくれる言葉を。
(……ああもう、)
――別れたばかりなのに、もう声が聞きたい。
……秘めた恋。
窮屈で、不安で、たまには涙することだってある、難儀な関係。
だけど私は、このまま熱く彼への想いを貫きながら生きていく。
私の好きな人は、陸援隊の隊長さんなのだから。
いつだってまっすぐに私たちを導いてくれるこの人の背中に、ずっとずっとついていきたいから――。