好きな人に触れたい、と思ったとき、まずはどこに手をのばせばいいのだろう。
いつしか感じるようになった見えない隔たりが、踏み出そうとする私の勇気を冷たくはねつける――。
(もしかしてまだ、片思いなのかな……)
夕刻。
私と謙吉さんは螢静堂へ寄ったあと、近くのお蕎麦屋さんで食事をすませて、帰路についていた。
日によっては坂本さんや陸奥さんの宿に泊まり込むこともあるけれど、今日は謙吉さんの下宿先に戻る予定だ。
なんだかんだで最近忙しくしていたから、二人でお部屋に帰るのは久しぶり。
少し楽しみでもある。
ふと隣を歩く彼を見上げると、眠そうにあくびをしていた。
働きづめだったから、疲れているんだろう。
「謙吉さん、今日こそはたっぷり寝てくださいね」
「寝る寝る。もうそのへんに転がって寝てもいいくらいだよ」
「わ、それはだめですよ。謙吉さんってどこでも寝ちゃうから……」
「まぁ、さすがにこの時期野宿はきついか。だいぶ冷えてきたもんね」
と、彼は冷たい風にゆれる枯れ木を見上げて息を吐く。
はらりと、力尽きたように乾燥した葉が枝を離れて地に落ちた。
歩を進めるたびに音をたてる枯れ葉を踏みしめながら、私たちは人通りの多い往来を進む。
(これから寝るまでは、謙吉さんと二人きりか……)
せかせかと先を歩いていく彼に急ぎ足で追いつきながら、私は一人気持ちをはずませていた。
まるでそれらしい雰囲気にはならないけれど、私たちは恋仲だ。
長い間片思いで、気持ちが通じあうことはないと諦めていたけれど、貫き通した私の気持ちは最終的に実った。
ほんの数日前のことだ。
それからはゆっくりと話をする時間もなかなかとれなかったから、今夜が恋人らしく過ごすはじめての夜になる。
「あの二人、恋仲かな」
頭上でぽつりと漏れた謙吉さんの声にはっとして、顔を上げる。
彼の視線の先をたどると、まだ幼さを残す男女が仲むつまじく手をとりあって歩いている姿が目に入った。
「たぶん、そうでしょうね。すごく幸せそうです」
「いいとこのご子息みたいだねぇ。許嫁かな」
彼らは上品で仕立てのきれいな着物を身にまとい、背後には山のような荷物を託された下男らしき人を連れている。
買い物の帰りかな。
歳のころはまだ十を少し越えたくらいだろうに、ずいぶんときらびやかな生活を送っているようだ。
(少し、うらやましいな―…)
裕福な暮らしぶりではなく、人目を気にしないその堂々とした仲睦まじさが。
彼らとすれ違ったあと謙吉さんのほうを見上げれば、彼は何事もなかったかのように涼しい顔で前を見つめている。
……何も思わなかったのかな、あの二人を見て。
強く意識して、わずかながら対抗心のようなものまで芽生えてしまった私からすると、それはそれで寂しい。
私だって、あんなふうに手をつないでみたい――。
ぎゅっと、手のひらを握りしめる。
右となりに立つ謙吉さんをちらちらと見上げながら、私は意を決して口をひらいた。
「あの、謙吉さん!」
「なに?」
思っていたよりも大きな声が出てしまった。
彼は、驚いて歩をゆるめる。
きつく握っていた手のひらを開いて、そっと謙吉さんの指先に近づけながら、私は言葉をつないだ。
「えと、その……手を」
――つなぎたい。
どきどきしながら差し出した右手が、つんと彼の左手に触れる。
そんな軽い接触のあと、まるで拒絶するかのように、謙吉さんは大げさにその手を引っ込めた。
あまりの勢いに、一瞬互いの指先がぶつかる。
「あ……ごめんなさい」
打ち付けあった衝撃で、じんじんと痛み出した右手を押さえて、私は眉をよせた。
嫌、だったかな……。
「いや……こっちこそごめん。びっくりしちゃってさ」
謙吉さんは気まずそうに目をふせて、引っ込めた左手をごそごそと懐にしまいこむ。
「あの、私……手をつないでみたくて……」
「さっきの子たちみたいな年頃ならともかく、さすがに大人になると恥ずかしいかなぁ」
「あ……はい、そうですよね……」
「町中だしさ、ごめんね」
いつもなら絶対にしない懐手のまま、彼は困ったように眉尻を下げて微笑んだ。
そして、目前に見えてきた下宿先へと歩を早める。
(ばかだなぁ、私って……)
どうしてこう、自分の気持ちばかりを押しつけてしまうんだろう。
さっきの少年少女がとてもお似合いで微笑ましく見えたのは、幼さを残す二人の初々しい戯れだったからだろう。
よく考えてみれば、大の大人がぷらぷらと手を繋ぎあって歩いているところなんて、ほとんど見たことがない――。
私って、やっぱり子供だ。
謙吉さんはあきれてしまったかな……。
こらえきれずにこぼれ落ちた涙をそっと着物の袖でぬぐって、見慣れた下宿先の門をくぐった。
私たちは現在酢屋から居を移し、新しく商家の二階の角部屋を借りて生活している。
ひっそりと静かな場所で、階下で暮らすおかみさん達も二階に上がってくることは稀だ。
いわば、貸し切り状態。
居心地はとてもいい。
顔を洗って歯みがきを済ませた私たちは、隣り合わせに布団をしいて、その上に腰をおろした。
ふぅ、と自然にため息がもれる。
「はー、やっぱり布団の上は落ち着くね。こうしてるだけで癒されるよ」
「そうですね……さっそく寝ちゃいましょう」
「そうする?せっかく二人きりなんだし、少し話でもしない?」
「いえ、今夜は寝ましょう。謙吉さん、疲れてるでしょうし」
私は、頑なに彼の言葉をつっぱねる。
夕刻の出来事以来、胸が苦しくて、謙吉さんの顔をまともに見ることができない。
気まずくて、切なくて、口をひらけばじわりと涙がにじんでくる。
「まぁ、疲れてるといえば疲れてるんだけど……あらら、美湖ちゃんもう布団に入っちゃったよ」
私は、みのむしのように布団を体に巻きつけて、頭まですっぽりと潜り込んだ。
泣きそうな情けない顔を、見られたくないからだ。
「おやすみなさい、謙吉さん」
「……おやすみ」
ぐすりと鼻をすすりながら漏らした消え入りそうな一言に、彼はわずかな沈黙をはさんで返事をくれた。
何か言いたそうな、ため息まじりの声色だった。
――何をやっているんだろう、私は。
久しぶりに謙吉さんと二人きりで夜を過ごせるというのに。
待ちに待った時間がやってきたと、数刻前まで浮かれていたのに……。
手をつなぐのはだめでも、ゆっくり話くらいすればよかったかな。
布団の中で、モヤモヤと後悔がつのる。
流れ落ちる涙を両手で必死にぬぐいながら、私は漏れそうになる嗚咽をこらえるのに精一杯だった。
「……そういえばさ、暇ができたら行きたいなぁって思ってた寺があるんだ」
こちらがまだ起きていることに気づいているのか、静まりかえった薄明かりの中で、ぽつりぽつりと謙吉さんの声が聞こえてくる。
私は、ぎゅっと身を縮めて息を殺した。
「噂によるとそこ、出るらしいよ。裏手の墓地を深夜に歩いているとね……」
何かと思ったら、怪談か。
謙吉さんはこの手の話に目がないから、新しいネタを仕入れてくると決まって私に語り聞かせようとする。
「若い女の霊らしいよ。だらりと黒髪を垂らして血みどろの……まぁ、いかにもありがちなハナシなんだけどさ」
「……」
嫌だなぁ。
私、こわい話苦手なのに。
やめてほしいけど、今までだんまりを決め込んでいたぶん声を出すのに躊躇してしまう。
「――美湖ちゃん、ちょっとだけ顔見せて?」
布団ごしに私の肩をちょんちょんとつつきながら、彼は機嫌をとるようなやわらかい声でこちらに語りかける。
(……意地はらないで、もうこのへんで素直になったほうがいいのかも)
謙吉さんは明らかに気をつかってくれている。
私だって本当は、元通り仲良くしたい。
こんなふうに一人すねた態度で朝まで過ごすのは嫌だ。
よし、顔を出して謝ろう……。
「謙吉さ……」
布団から目元だけ出して、彼のほうを向いた私の目にとびこんできたのは――
それはもう、おどろおどろしい幽霊の姿がドンと描かれた、大判の肉筆画だった。
絵の中の恨みがましい女の目と、間近で視線がぶつかる。
「きゃあぁぁあぁあぁあ!!!」
一呼吸おいて、私は絶叫した。
部屋の中が軽く振動するほどの大声で。
そしてそのまま後退りをするように布団から出て、部屋のすみまで避難する。
「思った以上に怖がってくれて嬉しいけど……ちょっとその声は近所迷惑かな……」
耳を押さえていた手を離して目を白黒させながら、謙吉さんは広げていた縦長の絵をくるくると巻き取っている。
「……」
私は、真っ暗な部屋のすみでへたりこみ、ぎゅっと肩を抱いていた。
――ひどすぎる。
驚かすにしても、こんな状況でなんて、あんまりだ。
私は真剣に謙吉さんとの距離の取り方について悩んでいたというのに―…。
「ごめん。布団から出てきてほしくて、ちょっと驚かせるつもりだった」
「……ひどいです」
「うん……やりすぎだった、本当にごめんね」
ふわりと一瞬、頭の上に乗るあたたかな感触。
顔をあげれば、すぐ目の前で膝をついて頭を下げる謙吉さんの姿があった。
灯りのとどかない部屋のすみでは、どんな表情をしているのかよく見えないけれど、その声色は暗く沈んでいる。
「……」
「布団に戻ろう、美湖ちゃん。風邪ひくよ」
「いやです、このままここで寝ます」
「だーめ、却下。ちゃんとあったかくして寝なきゃ」
そう言って謙吉さんは、私の肩と膝下にそれぞれ両腕をまわし、ひょいと抱き上げる。
そして彼の布団のそばまで運んでくると、静かにその上に私をおろした。
「あの、私の布団、あっちですけど……」
「今夜は一緒に寝よう。じゃなきゃ、美湖ちゃんまたミノムシに戻るでしょ」
「……それは……」
否定できないけど。
私は今、怒っているのだ。
すぐにでも布団にもぐりこんで、ふて寝してしまいたい気分だ。
「自分のせいだからさ。謝りたいし、仲直りしたい。本当に悪いことをしたって、反省してる」
「……もう、こわい絵を見せられるのは嫌です」
「ん。さすがにもうしないよ、ごめんね」
「……」
「怖かったよね、よしよし」
涙を浮かべてうつむいている私の頭を、謙吉さんはあやすように優しく撫でてくれる。
同じ布団の上で、こうして膝をつきあわせるのは、やっぱりどこか気恥ずかしい。
「謙吉さんって、二人きりだと優しくないです……外ではすごく優しいのに」
「え……そう?ごめん、どのへんがよくないか教えてくれる?」
きょとんと目を丸くして、彼は頬をかく。
もしかしてこれまでのくだりで、まったく心当たりがないの……?
「二人だとこわい話ばかりするところとか」
「ああそれは、怖がってもらえるのが嬉しくてさ」
「私は、苦手です。幽霊の話より、もっとべつの話がしたいです……」
「たとえば?」
「えっと、そうですねぇ……」
具体的にと聞かれると、ちょっと困る。
私は深く考えこんで、珍しく眉間にしわをよせる。
「…たとえばですね、もっと明るい話です。坂本さんや陸奥さんの話とか……」
「それはまた、彼らに会った時にすればよくない?」
「でもその、私が知らない話とかもいろいろと聞かせてもらえたらなぁって」
「なるほどねぇ……」
謙吉さんは二人の腰から下がすっぽりと覆われるように掛け布団をかけながら、静かにうなずいた。
私たちは今、上半身を起こした状態で肩をならべている。
「だめですか?坂本さんたちの話は」
「ダメじゃないよ。だけどせっかく二人きりなんだから、もうちょっと何かあるんじゃないかなぁってさ……」
「墓地に行きたいってお話とか?」
「あー、それはごめん。雰囲気壊す話題だったね」
苦笑しながら、謙吉さんは肩をすくめる。
私たちってお互いに、話題選びが下手なのかな。
「……ほんとはもう、あれこれお話するよりも、こうして隣にいられるだけで嬉しいんです」
肩が触れあう距離にいながら、お互いになかなか接触できずにやきもきしているこんな現状だって、十分に幸せなひとときだ。
「……うん。そうだね、もしかしたら言葉なんていらないのかも」
「はい……」
こくりと頷く私の肩をそっと抱いて胸元に引き寄せると、謙吉さんは私の頭に頬をよせる。
ふわりと鼻先をかすめる嗅ぎなれた香りに、きゅんと胸の奥が切なくなった。
「夕方まで霧太さんを手伝ってたから、ちょっと消毒液臭いかも……」
「私、このにおい好きです」
「本当?……だったら、いいか」
包みこむように背中に回した両腕に一瞬ぐっと力をこめて、謙吉さんは私の体を優しく布団の上に寝かせる。
傷の手当てをしてくれるときと同じ、丁寧で流れるような手つき。
あっという間にひっくり返された私は、天井を見つめながら狐につままれたようにぱちぱちとまばたきをする。
そんな私の反応が可笑しいのか、すっと目を細めて彼は笑った。
「泣かせてばかりで、本当にごめん」
私の顔のとなりに手をついて、謙吉さんは覆いかぶさるような体勢をとる。
こうして、下から彼を見上げるのは初めてだ。
どきどきして、恥ずかしくて、思わず目をそらしてしまう。
「私のほうこそ、意地はって拗ねたりしてごめんなさい……」
「それは全部、こっちに原因があるからさ。謝らなきゃいけないのは自分のほうだよ」
「いえ、私だって……」
子供っぽい感情まかせの言動で、謙吉さんのことを困らせてばかりだ。
もっと早くに機嫌をなおして、こちらから歩みよるべきだった。
「……美湖ちゃんは悪くないよ」
私の表情がゆがんで、目に涙がたまっていくのを見下ろしながら、謙吉さんは苦しげに言葉を吐き出した。
そうして、そっと私の前髪をかき分けて額に唇をおとす。
やわらかでこそばゆい感触に、ぞわりとしてわずかに首もとが跳ねてしまう。
「謙吉さん……」
ぽっと額から頬へ熱が伝播して、もうきっと耳まで真っ赤だ。
まだ間近にある彼の顔を、正面から見据えるのが恥ずかしい。
「……こっち見て」
「――――っ…」
うつむく私の顎を指で持ち上げ、そのまま唇を重ねる。
静かにゆっくりと角度を変えながら。
頭が真っ白になってしまうような長い口づけに、思わずぎゅっと彼の胸元をつかむ。
「……苦しかった?ごめん」
そっと身を離した謙吉さんは、照れくさそうに小さくはにかんだ。
そして、涙をにじませながら肩で息をする私の頭を優しくなでてくれる。
頭の中がほわほわして、体が宙に浮いているみたいだ。
「……謙吉さん、だいすきです」
「うん。自分も、美湖ちゃんが好きだよ」
かえってきた一言に胸の奥が満たされて、ふたたび幾すじもの涙が頬をつたう。
私がほしかったのは、この一言だったんだ―…。
「さて、そろそろ寝ようか」
ぐすぐすと泣き出した私をしばらくあやしてくれていた謙吉さんは、いくらか落ち着いた頃合いを見計らって二人の上に布団をかぶせた。
すっかり冷えてしまった上半身を互いにすりよせるようにして、布団の中で向かいあう。
「今日は美湖ちゃん、泣いてばかりだね」
「謙吉さんは、謝ってばかりです」
「あはは、そうかも。でもちゃんと仲直りできたし、よかったよ」
「……はい。よかったです」
謙吉さんの胸元に頬をよせて子猫のように甘えながら、私はそっと目をつむる。
こうして横になって穏やかに言葉を交わしていると、とろんと瞼がおりてきてしまう。
もう、このまますぐにでも意識を手放せそうだ。
「おやすみ、美湖ちゃん」
「おやすみなさい、謙吉さん」
だいすきな彼の香りと、あたたかなぬくもりに包まれて、私はそのまま眠りに落ちた――。
翌日。
たっぷり昼前まで休んだ私たちは、坂本さんのいる近江屋に向かうべく並んで小路を歩いていた。
窮屈な細道だ。
横になって歩くと、両脇の民家の壁に肩が触れてしまいそうになる。
「――よしっ」
ふと、隣から力のこもった声が上がった。
何事かとそちらを見やれば、謙吉さんが真剣な表情でぺちんと自分の頬をたたいている。
「どうしたんですか?」
らしくない動きだ。
それにどう考えても、今は気合いが必要な場面じゃない。
ただ道を歩いているだけだもの。
私は、小首をかしげて隣を歩く彼の横顔を見上げた。
「手、つなごっか」
「……え!?」
驚いて、足を止める。
昨日はあんなに嫌がっていたのに……!?
あまりに急な申し出に返す言葉も思い浮かばず、あわてふためいてしまう。
そんな停滞する空気に耐えられなかったのか、返事を待たずに彼は動いた。
口をぱくぱくさせて戸惑っている私の手を、ぎゅっと握りしめる。
「……きのう、布団の中で決めたんだ。明日は手をつないで歩こうって」
「……謙吉さん……!」
絡めあった指先は、少し冷たくて。
それでも、その感触と彼の体温が、たまらなく愛しくて、心地よかった。
感きわまって、私は手をつないだまま謙吉さんの左手にしがみつく。
「……この通りを抜けるまでってことで、いい?」
「はいっ!」
嬉しくて嬉しくて、自然にこぼれ落ちてしまう笑み。
彼はそんな私の顔を見て、くすりと満足げに笑ってくれた。
「美湖ちゃんの手、ちっちゃいね」
「謙吉さんの手はおっきいです」
――なんて、こそばゆい言葉を交わしながら。
こうして外で身を寄せあう私たちは、どこからどう見ても恋人同士だ。
口をひらけばとめどなく湧き出てくる甘い会話の応酬に、ふにゃりと頬がゆるんでしまう。
そうこうしながら暗く陰の落ちた細道をたどっていくと、次第に耳に入る喧騒と生活音が大きくなってきた。
もうすぐ大通りに出る。
あと数歩行けば、この手を離さなきゃならない……。
――少しばかり寂しく思いながら、私たちは目をふせる。
すると正面から、ひょっこりと人影が姿をあらわした。
逆光になって顔はよく見えないけれど、誰かがこの細道に足を踏み入れたようだ。
私たちはどちらからともなく、ぱっと繋いでいた手を離して、向かいから歩いてくるその人が通り抜けやすいように、壁ぎわに背をくっつけた。
恥ずかしいなぁ、早くすれ違ってしまいたい……!
そんなふうに思いながら、どくどくと脈うつ胸のあたりを押さえていると。
間近まで歩み寄ってきた人影が、ふいに口をひらいた。
「長岡さんに天野さん。お出かけですか?」
「――――え?」
思いがけず名前を呼ばれて、伏せていた顔をあげる。
聞き覚えのある声だ――!
「……あ、誰かと思ったら、ハシさん!」
薄暗い路地の中央で、目をこらしながら相手の顔を見つめていた謙吉さんが驚いたような声をあげる。
――本当だ。
よくよく見れば、そこに立っているのは大橋さんだ。
「お二人もこの道をよく使うのですか?人目につかず、静かで落ち着きますよね」
いつものように丁寧な物腰で、にっこりと微笑む大橋さん。
その正面に立つ私たちは、えもいわれぬ気恥ずかしさにすっかり硬直してしまっていた。
よりによってこんなところで知り合いに遭遇してしまうなんて……!!
「あのさ、ハシさん……もしかしてさっきの、見た?」
心の中で悲鳴を上げる私の隣で、謙吉さんは恐る恐る核心にせまろうとする。
平静を装って微笑みながらも、口元はぎこちなく固まってしまっている。
「さっきの、とは?」
「いやー、だからさ……」
「仲睦まじく手を繋いで歩いていらしたことですか?でしたら、人に漏らしたりはいたしませんのでご安心を」
大丈夫、と何やらすごく真摯な対応でうなずいてみせる大橋さん。
……見られてたんだ、やっぱり。
言葉を失って顔を赤らめる私のとなりで、謙吉さんは一人頭をかかえていた。
「うわ……やっぱりそっか……うわぁ……」
手のひらで顔面を覆っているので表情はうかがえないものの、相当な勢いで恥ずかしがっているようだ。
いつも知的で饒舌な彼の口からは、もはや「うわぁ」しか聞こえてこない。
「そう照れる必要はありませんよ。お二人が恋仲だというのは知っていましたから」
「え!?知ってたんですか?」
さらりと言ってのける大橋さんに、あわてて詰め寄る。
私たちの関係はまだ誰にも話していない。少なくとも私の口からは……。
「ええ。というより、知れわたっていますね……この間坂本さんが、陸援隊の屯所で愉快そうに言いふらしていましたから」
「龍さんはしゃぎすぎ……報告しなきゃよかった……」
がくりと肩を落として、謙吉さんはとどめを刺されたかのように脱力する。
……謙吉さん、私が知らない間に坂本さんに打ち明けていたんだ。
どうりで最近の坂本さんは、謙吉さんと私が会話しているのをひやかすような目で見てくるわけだ!
「落ち込むようなことですか?事実ならばいいではないですか。堂々としていてください」
大橋さんは、元気づけるようにポンと強めに長岡さんの肩をたたく。
そうして、「また後日」と別れの挨拶を告げ、足早に奥の路地へと去っていった。
……私たちは、魂が抜けたようにぽかんとして彼の背中を見送った。
「……謙吉さん、ごめんなさい。嫌でしたよね。見られちゃって」
子供じゃないんだから人前で手をつなぐのは恥ずかしいと、本当は思っているはずなのだ。
私のわがままに付き合わせてしまったせいで、彼に恥をかかせる結果になった。
「……ふぅ」
「ごめんなさい」
髪をかきあげながら目をとじて息をつく謙吉さんに、深く深く頭を下げる。
「――いや、別にもういいか。誰に見られても」
「え?」
耳をうたがって、はじかれるように彼のほうを見上げる。
「ハシさんが言うようにさ、堂々としていよう。恋人同士なんだから」
「謙吉さん……」
――もう私に付き合うのはこりごりだと愛想をつかされるような気がして、内心怯えていた。
それなのに、目の前の謙吉さんはふっきれたように清々しく笑っている。
私は、受け取った言葉の包みこむようなあたたかさにうち震えて、またしても込み上げる涙を押さえることができなかった。
――これは嬉し涙だ。
これ以上ないくらい幸せで、どうしようもない愛しさに胸がつまる、歓喜の涙。
「泣き虫だなぁ、美湖ちゃんは」
謙吉さんは優しい声色でそうつぶやくと、私の頭にくしゃりと手をのせた。
そうして、そのままその手をこちらに差し出してくる。
「手、つないでいこっか、近江屋まで」
「……はいっ!」
私は、涙をぬぐいながらその手をとった。
そうして二人は視線をあわせ、意を決して頷きあう。
目の前の大通りまで、あと一歩――。