小説 | ナノ

 第65話:先輩とお出かけしよう!


 早起きして仕度を済ませ、うきうきと朝餉をたいらげ、万全の体勢でこの日を迎えた私たちは、玄関で向かい合っていた。

「訓練だけはすっぽかせねぇからよ、悪ぃがちょっと待っててくれ。今日は早めに切り上げるわ」

「はいっ! 頑張ってくださいね。いってらっしゃい!」

「おう! 行ってくるぜ!」

 明るい笑みを向けて大きく手を振ると、先輩は射場のほうへと走っていく。
 私はそんな彼の背中を長々と見送って、鼻歌まじりに玄関へと戻った。


 ――すると、そこには隊長と大橋さんが立っている。

「……夫婦か?」

「夫婦ですねぇ」

 冷やかし混じりに囁きあう二人を見て、かっと頬が赤くなる。
 見られた……!
 浮かれきってゆるゆるな顔を、よりによってこの二人に見られてしまった!!

「あ、あの! 今日はですね、先輩とお出かけする用事があって、それで私、嬉しくって……」

「そうか、仲良くやっているんだな」

「はい、仲はいいです。でも夫婦っていうのは……」

「分かっていますよ、おかしな関係ではないことくらい。ただ、純粋にお二人の仲の良さが微笑ましいだけです」

 赤面したままうつむいた私を見て、大橋さんがくすりと笑みをこぼす。
 ……この二人がこんなことを言ってからかってくるなんて、予想外だ。
 誰にひやかされるよりもドキリとしてしまう。


「さぁて、俺もそろそろ行くか」

 もじもじしたまま固まっている私の頭にポンと手を置きその場に腰かけると、隊長は慣れた手つきで草鞋の緒を通していく。
 よくよく見れば、振り分け荷物を肩にかけている。遠出するのかな?

「中岡さん、くれぐれも道中お気をつけて」

 大橋さんが、てきぱきと支度を整える隊長に向かって穏やかに声をかける。

「ああ、分かってる」

「忘れ物はありませんか? 財布は?」

「持った。心配ない」

「あまり寄り道せずに、なるべく明るいうちにお帰りくださいね」

「そうする……よし、行ってくる!」

 大橋さんと隊長のやりとりは、まるで母と子だ。
 なんとなくいつもの威厳がしおれて隊長が可愛らしく見えてしまう……けれど、これは黙っておこう。


 仕度が整ったらしい隊長は、立ち上がってこちらを一瞥し、玄関を出て行く。
 私はそんな彼の背中を追いかけて、大声で見送った。

「隊長ー! いってらっしゃーーい!! お気をつけてーーー!!」

 ぶんぶんと手を振る私を見て苦笑をもらしながらも、隊長は小さく手を挙げて応えてくれた。

 先輩や大橋さんの話によると、隊長は毎日外に出て、いろんな人のもとを渡り歩きながら相談や交渉を続けているらしい。
 幕府打倒の流れを円滑にするために。そして、陸援隊の活躍の場を作るために。
 ずっとずっと、隊士さんの知らないところで力を尽くしている。

 きっと、私の想像も及ばないほど難しくて大変なお仕事だ。
 だったらせめて屯所に帰ってきた時くらいは、彼がゆっくりできるように力を尽くそう――。



 隊長が門から出て行くまで見送って、玄関のほうへと戻る。
 すると、縁側に腰をかけて葉月ちゃんとくつろいでいる大橋さんの姿を見つけた。

 私も縁側のほうへと回って、彼の隣に腰をかける。

「大橋さん、まるでお母さんでしたね」

「……そうですか? 実は、よく言われるんです」

 くすくすと静かに笑いながら、大橋さんは葉月ちゃんの喉もとを撫でる。
 その優しい手つきに、とろけそうな顔でご満悦な葉月ちゃん。かわいいなぁ。

「隊長が子供に見えちゃいましたよ」

「中岡さんはああ見えて意外と、抜けているところがあるんですよ」

「へぇぇぇ……なんでも完璧にこなしそうなのに! 寄り道とかもしない感じがしますし」

「寄り道、しますよ。彼は風呂が好きでして、しょっちゅう風呂屋に入ってしまうんです」

「わぁ、でもそれって綺麗好きってことですよね? いいじゃないですか!」

 男の人はお風呂嫌いな人もいるからなぁ。
 うちの父も豪太郎おじちゃんも、面倒くさいからってなかなか入ろうとしなかったし。
 家にこもって書き物ばかりしてると、特にそういうのがおっくうになるものかな?

「綺麗好きと言うより、湯につかって考え事をするのが好きなようです。一緒に歩いていても唐突に風呂屋へ足を向けることがありますからね」

「それはちょっと困りものですね。お風呂でいい考えが浮かぶというのもなんとなく分かるんですが……」

「でしょう? ですから、寄り道はほどほどにと口酸っぱく言っているのです」

「へぇぇ……でも、そういう風に注意してくれる人がそばにいるっていうのも、いいですよね」

 隊長が一番偉いのだから、幹部は遠慮して意見を控えたりしそうなものだけど。
 私が見る限り、陸援隊にはそういったあからさまな上下関係はない。
 隊長も幹部も、臆すことなくあけっぴろげにお互いの意見をぶつけあっている。

「ここの幹部に誘われたときに、中岡さんから頭を下げられました。隊長だからと言って遠慮はしないでほしいと。これまで通り叱ってくれと」

「これまで通りということは、よく隊長を叱っていたんですか……?」

「叱るというほどではないんですが、間違っていると思ったことはその場で正してきましたよ。もちろん逆もあります。互いに忌憚なく意見しあえる仲でしたから」

「そうだったんですかぁ。でしたら隊長は、よっぽど大橋さんのこと信頼しているんですね」

「……そうであるなら嬉しいです。私も、彼の力になれるよう精一杯働かねばと思っていますから」

 顔をあげてこちらに微笑みかけてくれる大橋さんの表情は、まっすぐで曇りのないものだった。
 大きく包み込んでくれるような、優しくて頼もしいあたたかさ。
 隊長だけではなく、幹部や平隊士さんからも慕われる大橋さんの器の大きさに、あらためて触れた気がした。

 彼は、あくまでも支える側に徹しようとしてくれている。
 その献身と揺るがない芯の太さを、皆が心から信頼しているんだ――。



 それからしばらく、私は大橋さんの隣で葉月ちゃんを眺めていた。
 無理に触るのもよくないだろうと考えて、じっと我慢していたのだ。
 陸奥さんに見せてあげたい、この進歩……!


 時折ぽつりぽつりと言葉を交わしながら生い茂る木々のざわめきに耳を傾けていると、射場のほうから銃を掲げて走ってくる先輩の姿が見えた。

「おおーーーい! 訓練終わったぜ!! 着替えてくるから待っててくれぇ!!」

「は、はいっ! 待ってます!!」

 ……早いなぁ。
 まだ、見送ってから一刻も経っていないのに。

 立ち上がって裾を払い、懐から取り出した櫛で髪をといていると、大橋さんが穏やかな声で見送ってくれた。

「楽しんでいらしてくださいね。たまにはあなたも、ゆっくり過ごすべきです」

「ありがとうございます……! 楽しんできますっ!」

「いってらっしゃい」

 大橋さんが葉月ちゃんの手をとって、ぱたぱたと振ってくれる。
 ふわふわの小さな手がこちらを向き、桃色の肉球がゆれる。
 きょとんとしながらも、されるがままの葉月ちゃんがかわいすぎるっ……!!

「大橋さん、葉月ちゃん、いってきまーーすっ!」

 二人に手をふって、玄関へと駆け出した。
 先輩は身だしなみを整えるのも早いから、きっとすぐに出てくるだろう。


 玄関前でのんびりと空を眺めていると、風のような速さで草履をつっかけて、先輩が飛び出してきた。
 軽く水浴びでもした後なのか、手拭いでばさばさと髪を拭いている。
 ……前髪がおりているせいか、いつもと雰囲気が違うな。
 おでこが見えないとまるで別人だ。

「わりぃ、髪整える時間なかった」

「別人みたいでびっくりしちゃいました」

「水もしたたるなんとやら、だなァ。オレ様の魅力八割増しだぜ」

「はいはい。かっこいいですから、きちんと髪拭いてくださいね」

 ぼたぼたと水滴を垂らす髪を手拭いで包んで、ぎゅっとしぼる。
 こんなに水びたしでは、いい男も台無しだ。

 そんな小言めいたやりとりがふいにおかしくなり、お互いにはにかむように笑みが漏れる。


「おっしゃ、行こうぜ。どこ行きてぇか決まったか?」

「はいっ!!」

「おし、聞かせろ!」

「まず清水寺と、ミネくんのところと、シノさんの写場と、おいしいって評判の美里屋っていう甘味処と、さっき大橋さんから聞いたお寺がいくつか……」

「多すぎだろオイ!」

 指を折りながらあれこれと名前を挙げていると、ぺしんと勢いよく額がはじかれた。

「私なりに一生懸命考えたんですよう……あ、そうだ! ねこまんま亭にも行ってみたいですっ!」

「今日はオレとおめぇで楽しむんだよ! だから誰かに会いに行くとかはナシだ!」

「うう……かすみさんのお見舞いは……?」

「……そりゃあ……行かなきゃな」

 しばし考えて、先輩は譲歩してくれた。
 やっぱりどんな時でも、かすみさんをないがしろにするような事だけはしたくない。

「でしたらまずはお見舞いに行って、そのあと……」

「なんとか絞れねぇか?」

「うーーん……それなら清水寺がいいです!」

「おっし、決まりィ! 行こうぜ!!」

「はいっ!!」

 ぱしんと手のひらを打ち合わせた私たちは、仲良く並んで門のほうへと歩いていく。
 こんなにわくわくした気持ちで外出するのは久しぶりだ。
 楽しい一日になるといいな――。




 螢静堂に到着すると、挨拶もそこそこにかすみさんの部屋へと直行した。
 昨日は結局会うことができなかったから、一日ぶりの再会だ。

 あの後くそたろうの挿絵の顛末をゆきちゃんから聞いたそうで、すごいことだと大層喜んでくれた。

「それとね、山村先生がまたお返事を書いてくださるって」

「うん! しばらく文でやりとりしてみたらいいと思う」

「そうしてみるね――あ、それと」

 かすみさんは文机の上に置かれた小箱から二通の文を取りだし、私に手渡した。
 一方は薄く、一方は分厚い。
 この細身でさらさらとした字は――

「これ、兄さまから。美湖ちゃんと、中岡さんへ」

「わぁ! やっぱり雨京さんから! お返事書くって伝えておいてね!」

「うん」

 普段文なんてほとんどもらう機会がないから、嬉しいな。
 私は二通の文をそっと懐におさめて、にこにことかすみさんに向き直る。

「……それじゃ、美湖ちゃんいってらっしゃい」

「……え? なになに? まだ時間あるよ?」

 今日はいつもよりも早く会いに来れたから、たくさん話ができると思っていたのに。
 かすみさんは、いつものふんわりとした笑顔でゆらゆらと手を振っている。

「雪子さんから聞いたよ。美湖ちゃん毎日忙しくしてるから、今日は田中さんとゆっくり過ごすんだって」

「ええ!? 聞いてたの!?」

「うん……私もね、美湖ちゃんが無理していないか心配だったから、きちんと周りの方々が配慮してくださっているって知って、ほっとしてるの」

「そっか……うん、皆さんすごく気にかけてくれてるよ。だから心配しないでね」

 ぎゅっと、かすみさんの手を握る。
 心配をかけまいと自分の話はできるだけしてこなかったけれど、それがかえって不安を煽ることもあるのかもしれない。

「美湖ちゃんは田中さんと仲がいいんですってね。いつも二人でここに来てくれるって」

「あ……う、うん。田中さん、すごく優しくてね。いつも隣で気にかけてくれて……」

「私はあの写真のお顔しか知らないけど、ご本人はずいぶん違うお顔だちなのよね?」

「うん! もっと男らしいし格好いいんだよ! 話もとっても面白くってねぇ……!」

 話しているうちに思わず前のめりになって、そしてはっと我にかえり、赤くなって姿勢を正す。

 ……なんでだろう。
 かすみさんが先輩に興味を持ってくれたことが嬉しくて、ついはしゃいでしまった。


「美湖ちゃんは、田中さんが好きなのね」

「え……!? な、何言ってるのかすみさん!」

 ただでさえ照れてむずがゆい思いをしていたのに、かすみさんはにこやかに追い討ちをかけてくる。
 動揺しすぎてうまく言葉が出てこないよ……!

「ふふ。美湖ちゃん、これからは遠慮せずに田中さんたちのお話を聞かせてね」

「……どういうこと?」

「私の前では気をつかって男の人の話を避けてくれていたでしょう? でも、もう大丈夫だから。私も話を聞くくらいなら平気だよ。だから美湖ちゃんの日常をもっと聞かせて?」

「かすみさん……うん、分かった。毎日楽しいから、話したいこといっぱいだよ!」

 かすみさんの真意に触れて、なんだかふわりと気持ちが軽くなった気がした。

 目覚めた当初とは、もう違うんだ。
 いつまでも腫れ物をさわるような扱いで接していては、彼女にとっても辛いだろう。

 変わろうとしているその歩幅に合わせて、私も前に進んでいかなきゃ。
 これからは、もっといろんな話をしてかすみさんを笑顔にするんだ。
 外に広がる世界に、自然に目を向けられるように――。





 その後診療所に戻った私は、ゆきちゃんから追い出されるようにして外に掃き出された。
 これからは二人きりで楽しんで! と満面の笑みで背中を押す彼女は、この状況を楽しんでいるようだった。

 それからすぐに笑いながら追いかけてきてくれた先輩と合流して、目的地へと歩きだす。
 ゆきちゃんが別れぎわに何やら先輩に耳打ちしていたようだけど、気にしないでおこう。


「さぁて、いよいよ清水寺だな! 楽しみだぜ!」

「はいっ!」

「天気もいいし、のんびり行こうぜ」

「そうしましょうっ! あ、先輩、髪乾きましたね」

 ぽかぽかとした陽気のおかげか、いつの間にやらさらりと整っている。
 ただ、あいかわらずおでこが見えないので一瞬誰だか分からなくなる。
 先輩の本体はおでこなんじゃないかな。

「どうしたよ、ジロジロ見て。水はしたたってねぇがいい男だろ?」

「……いえ、先輩って、おでこが見えてないと本当に幼く見えるなぁって」

「うわ、それ気にしてんだから言うなよ……いくつくらいに見える?」

「十八くらいかなぁって」

「おめぇと大差ねーな! ……まぁいいか、今日は二人で遊ぶし。同年代のダチだと思ってくれや」

 一瞬不満げに顔をしかめた先輩は、思い直したようにふぅと息を吐いて、ぺちんと私の頬に拳をくっつけた。

「よろしくね、ケンちゃん」

「コイツ、躊躇なく距離縮めやがった!」

「ダチだって言ってくれましたし……」

「ケン呼びは身内か目上限定だ! どうしてもってんなら嫁に来いや!」

 そんな決まりがあったなんて知らなかった。
 さりげなくシノさんもケンちゃんって呼んでいたけど、あれは良かったのかな。
 歳上だし目上の人ではあるから、つっぱねられなかったのかも。

「じゃあ先輩で。もう二度と呼びません、ごめんなさい」

「なんかそれはそれで傷つくじゃねーか!!」

 わいわいと騒ぎながら、賑やかな往来を歩いていく。

 こんなに楽しいのは、いつぶりだろう。
 何でもない会話がたまらなくおかしくて、笑いあえることが幸せで。
 ……やっぱり私、先輩といる時間が好きだな。



 ひたすら歩いて、ようやく念願の清水寺が見えてきた。
 ここまで来るのにずいぶん時間がかかっちゃったな。
 早めに屯所を出たのにもう昼すぎだ。
 足腰にも疲れがでてきた頃だけど、先輩があれこれと面白い話題を振ってくれたおかげで、長距離移動も苦にならなかった。

 人波をくぐるようにしてゆるやかな産寧坂を進み、その先に見えてくるのが目印となる仁王門。
 鮮やかな丹塗りが遠目からでもよく映えて、見上げるほど高くそびえ立つ正面門だ。

 ここをくぐってからがいよいよ本番! というわけで深く息を吸い込む。
 これまで狭い道を通ってきたぶん、左右に広がる広大な敷地が清々しさを何割増しかで運んで来てくれる。
 高いところにあるからなのか、お寺さん特有の清らかさなのか、ここに立つと頭がすっきりして気が引き締まるようだ。

「すっげぇ〜! 広いなぁ。どっから回りゃいいのか分かんねぇや」

「そうですよね、いろいろと密集してて……まずはご本堂にお参りしませんか?」

「そうすっか! 京娘さんよ、案内頼むぜ!」

「はいっ! いきましょうっ!」

 そう何度もここへ来たことがあるわけじゃないけれど、本堂までの道のりくらいは何とか分かる。

 二人肩を並べて、ずかずかと一心不乱に奥へ進んでいく。
 あちこち立ち止まりながらゆるゆると楽しむ若者が多い中、私たちは半分走るような速度で爆進中だ。

「舞台が目玉だな、舞台が!!」

「先輩、あそこに立ちたいって楽しみにしてましたもんね!」

「立つぜ! 飛ぶぜ!!」

「いくら先輩でも飛んだらおしまいですからね!?」

 つっこみを入れながらも、速度はゆるめない。
 私たちの会話を聞いていたのか、脇を歩く子どもがきゃっきゃと笑い転げている姿が目に入った。
 ……よい子は真似しないでね!



 その後、手水舎でお清めを済ませてから、ご本堂へ。
 崖の上から大きくせりだすようにして建てられた立派なご本堂は、無数の柱で下からがっしりと支えられている。
 そこから雄大な景色を眼下に見下ろせば、やっとたどり着いたのだと達成感で胸がいっぱいになる。
 ――そう、この張り出した部分こそが、今日の目玉、清水の舞台なのだ!!

「うおおっしゃあああああっっ!! 来たあーーッッ!!」

 熱く拳を握りしめ、先輩が吠えた。
 くすくすとこちらを見て笑う娘さんたちにも気を悪くすることはなく、彼は満面の笑みで手を振って応えている。

 先輩も毎日忙しく動き回っているから、こうして名所や名跡を巡りながら穏やかに過ごすような一日は貴重なんだろうな。
 彼の笑顔が間近にあると、私も嬉しい。

「せんぱい、まずはお参りしましょう!」

「おうよ、分かってるって! まずはそこだな!」

 日陰になって涼しい本堂へ駆け足で参じると、広々と豪奢な造りに感嘆しながら、私たちは手を合わせた。

 かすみさんのことや陸援隊の今後のこと、長崎へ行った海援隊のみなさんのことなどをお願いしていたら、ずいぶんと時間がかかってしまった。


 そうしてふと目をあけて隣を見れば、先輩がいない。
 きょろきょろとあたりを見回していると、背後から肩を叩かれた。

「長かったなぁ」

「……ごめんなさい、いろいろと観音さまに聞いてもらいたくて」

 欲張りなやつだと、呆れられてしまうかな。

 言いよどんでその場でもたついていると、先輩が私の手をひいて、せりだした舞台のほうへと誘導してくれた。

 その場から離れてみて、ようやく気づく。
 どうやら私が長々と居すわったせいで、お参りの順番をずいぶん待たせてしまっていたみたいだ。
 私のあとにはちょっとした行列ができてしまっている。

「わぁ……申し訳ないことしちゃいました」

「んで、頼みごとは済んだのかよ?」

「はい! かすみさんのことはもちろん、陸援隊と海援隊のみなさんのことも」

「……そんだけか? 自分のことは?」

「あ、忘れてました」

 父の絵が見つかりますようにとか、頼んでおけばよかったな。
 どうしても、周りで支えてくれる人々の顔が真っ先に浮かんできてしまう。

「……まったく、おめぇってやつはよぉ」

 やれやれと首を振りながら、先輩はようやく私の手を離してくれた。
 見てみろと前方を指す彼の動きに従って目線を動かせば、ぱっと視界が開けて美しい紅葉に彩られた絶景が広がる。

「わぁ……!!」

 いつの間にか手をひかれて、見晴らしのいい舞台のすみまで連れてきてもらっていたようだ。

 道中通ってきた家々や小道が、米粒ほどに縮まって見える。
 まさに、京を一望できる高み。

 視界の半分は抜けるような青空。
 その下枠を燃えさかる紅葉がふちどって、目をみはるほどの鮮烈さを生み出している。
 陽の光に照らされてきらきらと輝く眼前の景色は、どんな高価な絵の具や染料を使っても再現できないほどの悠然とした自然の美だ。
 その場に立たなければ味わえない感動というものが、たしかにある。

 陸援隊の屯所はどっちだっただろうかと首を回していると、手すりに寄りかかった先輩が、ぐっと私に肩を近づけてきた。

「ふだんオレたちゃ、あんなにちっこくせこせこ動いてんだなァ」

「……そうですね。上から見れば、京も広いんだなぁって気づかされます。見てて気持ちがすっとしますよね」

「おう。なんか嫌なことあったら、この景色思い出そうぜ。なんだったら、また二人で来ようや」

 はらりと傍に落ちてきた真っ赤な葉をつまんでぐっと握り締めながら、先輩は目を細めた。
 何か思うところがあるのか、ひどく感傷にふけるような瞳だ。

「はい、また来ましょう! 今度はきちんと、自分のこともお願いします」

 私は手すりに広げていた腕をおろし、先輩を見上げて笑いかけた。
 彼は持っていたもみじ葉をそっと風に乗せて、私の額を指で軽くはじく。

「おめぇのことは、さっきオレが願っといてやったから心配すんな」

「え……!? え!? 本当ですか!?」

 動揺する私をよそに、そろそろ行くかぁと伸びをして、先輩は人波の奥へと進んでいく。
 私はあわててその背を追いかけた。


 やっと追いついたのは、本堂を抜けて右へ下る階段の中ほど。
 先輩の袖をぎゅっとつかんで、隣に並ぶ。

「もう、急に行っちゃうんですもん……! ひどいですよぉ」

「うしろで、じいちゃんとばあちゃんが待ってたみたいだったからよ。場所譲った」

「わ、そうだったんですか……先輩って、よく周りを見てますよね」

「フツーだフツー。おめぇが見えてなさすぎなんだよ」

 そう言われて、たしかにと頷いてしまう。
 なんだか私って、いつも目の前のことにしか意識が向いていない気がする。
 視野が狭いっていうのは、こういうことなのかな。

「先輩、いつもありがとうございます。私なんかの面倒を見てくれて」

「かしこまんなって! 今日は楽しく遊ぶんだろ?」

「そうですけど……あ、それに、私のことお願いしてくれたのもすごく嬉しいです」

「おう。天野美湖ちゃんを幸せにしてあげてくださいって願ったから、これからは気持ち悪いくらい福が寄ってくるはずだぜ」

「それは……ありがとうございます」

 幸せに、か。
 思ってたよりもずっと漠然とした願いだな。
 でも、そうなれたら嬉しい。



「さーーて、お次はアレいこうぜ」

 先輩が興味津々といった表情で腕まくりをした。
 目の前にあるのは、音羽の滝だ。
 音羽山から流れてくる湧き水が三筋に分かれて落ちており、それぞれ別々のご利益があると言われている。
 たしか右から、延命、学問、縁結び……だったかな。
 叶えたい願いを頭に浮かべながら、目当ての水を飲むといいらしいんだけど……

「あ! 先輩、待ってくださいよぉ!!」

 うきうきと滝のほうへ歩いていったかと思えば、彼は柄杓を両手に持って、落ちてくる水を受け止めていた。
 ぼたぼたと勢いよく柄杓に水が溜まっていく。
 右手で延命水を受け、さらに左の柄杓も延命水で満たされた。

「全部二杯ずついっとこうと思ってよ!」

 大口をあけて上から柄杓の水を流し込み、あっという間に飲み干してしまった。
 なんて欲深い人だろう。
 事前に説明する暇もなかったよ……。

「あのう、先輩。全種飲むのはだめらしいです。効果ナシです」

「はぁぁぁ!? 先に言えよ!!」

「言う前に行っちゃうから。でも、きっと長生きしますよ」

「やべぇぇ……健康には自信あるし、縁結びとかにしときゃよかった……」

 柄杓を軽くすすいで定位置に戻した先輩は、深刻な表情で頭を抱えている。
 たしかに言われてみれば、わざわざ水を飲まなくても元気に過ごしていそうだな、先輩って。
 考えれば考えるほどおかしくなって、くすりと笑みが漏れる。


 ――さて、私はどれを飲もうかな。

 柄杓を手にして、三本の筋をじっと見つめる。
 延命はお年寄りに人気のようだし、縁結びには若い娘さんが群がっている。学問は、子供から大人まで男の人が多く選んでいるようだ。

「うーーーん……やっぱり、これかなぁ」

 私は、意を決して縁結びの水を柄杓で受ける。
 落ちてきた水は小さく脈打ち、きれいに透き通っている。
 量は欲張らず、軽くのみほせる程度にしておいた。

「おうおう、色気づきやがって」

「いいじゃないですか、べつに……!」

「延命にするなら今だぜ? オレと一緒に生きまくろうぜ!」

「わたし、寿命はほどほどでいいです!」

 間近で囁かれるひやかしの声に耐えながら、ぐっと柄杓の水を飲みほす。

 正直言うと、自分でも縁結びを選んだのは意外だった。
 少し前までの私だったら、色恋のことなんてまるで興味はなかったから。

 ――でも、なんでだろう。
 最近、ゆきちゃんの恋が芽吹くのを感じたからかな。
 そういうのっていいなぁって、少しだけ羨ましく思う気持ちが今の自分の中にはあった。


「飲んじまったか……先におめぇが相手見つけたら、先輩ちょっと寂しいぜ」

「大丈夫ですよ、先輩は延命に延命を重ねましたから、素敵な女子と出会う時間はいくらでもあります」

「時間だけあってもよぉ……まぁいいや、いまんとこオレにとっちゃおめぇが一番可愛いしなー。当分おめぇに構って楽しむかぁ」

「え!?」

 またしても私を動揺させ、先輩は笑いながら音羽の滝をあとにする。
 柄杓を持ったまま一瞬硬直した私は、いっせいに押し寄せてきたかしましい娘さんたちの行列に押されて、はっと我に返った。

 さっきから、からかわれてるのかな……。
 冗談でも「かわいい」なんて言われたらドキリとしてしまう。


 滝をあとにして先輩を探せば、先ほど降りてきた階段の上に立ってちょいちょいと手招きをしている姿が目に入った。
 小走りで階段を駆け上り、彼に追いつく。
 またもや置いていかれたことに抗議して頬をふくらますと、にっと笑って先輩はふくれたほっぺを指でつついた。

「せんぱい、いちいち変なこと言うのやめてください」

「変なことって?」

「私が、その……かわいい、とか」

「かわいい妹分ができて毎日楽しいっつうことだ。今までむさ苦しい野郎共しか寄ってこなかったからよ」

「う、そういうことですか……」

 先輩は平隊士さんからすごく慕われているけれど、彼らが可愛いかといえば、それは少し違うよね。
 妹分ということは、先輩にとって私は妹みたいなものなのかな。

「まぁ、オレって頼れる先輩だしよ、万が一惚れちまったら言えよな?」

「……そういうこと言っちゃうところがもう、台無しです」

「台無しってなんだよ! 途中まではよかったみてぇな言い草だな!」

「今日の先輩は優しいから、途中まではすごーくよかったですよ! あ、こっちにも縁結びの神社があるんです! いきましょう!」

 今度は私が思わせぶりな一言を残して、先へと走っていく。

 この先にあるのは、縁結びで有名な地主神社。
 先輩に、もういちど良縁をむすぶ機会をつくってあげちゃおう――!



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