▼ 第54話:ばかぢからくそたろう
夕餉をすませたあと隊長のお部屋を訪ねるつもりでいたら、あいにく今夜は帰ってこないとの話だった。
大橋さんや香川さんを引き連れて何やら外で用事があるそうだ。
今日は私が肩たたきの当番だったのに、お話できないのは残念だなぁ……。
こんな日は早めに寝てしまおうと、敷いたばかりの布団の上で傷口の消毒をはじめる。
長岡さんから借りた薬を使って、あれから毎晩寝る前に自分で手当てをしているのだ。
傷口は痛むこともなく、きちんとふさがってくれている。
最初は一人で包帯を巻くのが難しくて何度もやり直していたんだけど、少しだけコツが掴めてきた気がする。
「……ふぅ、こんなもんかな」
手当てを終えてふたたび着物を羽織ろうとしたとき、ふいに脇の部屋につながる襖が音を立てて開いた。
――直後に、絶句して目を見開く先輩と視線がぶつかる。
私の部屋の畳を踏みしめた状態で一瞬固まった彼は、あわてて後ろに飛びのいてこちらに背を向ける。
「す、すまねぇっ! 悪気はなかった! あんま見てねぇから!」
取り乱した様子でそうまくし立て、そのまま後ろ手で襖を閉める先輩。
……見られた。
横を向いて着物を肩にかけたところだったから肌が見える範囲は狭かったかもしれないけど、それでもやっぱり恥ずかしい。どうしよう!
混乱しながらもなんとか元通りに着物を整えて、襖の向こうの先輩に声をかける。
「すみません、もう着ましたから……何かご用ですか?」
どんな顔をして話をすればいいのか分からず、下を向いてもじもじしてしまう。
先輩としても不意うちだったはずだから、大層驚いたことだろう。
やがてゆっくりと襖が開き、大きく頭を下げた先輩が姿を現した。
「ホンッと悪かった! せめて一声かけるべきだったぜ……! 女の部屋だって意識が足りてなかった!!」
「そんなに謝らなくても大丈夫ですよぉ……でも、夜は傷の手当てをするので覚えておいてくれたら嬉しいです」
「お、おう! 今後注意する。悪かったな、なんなら一発殴ってくれよ」
先輩は髪の毛をかきむしりながら心底反省した様子で、こちらに頬を差し出してきた。
あ、暑苦しい……!このやたらと体を張るノリにはいまだについていけない。
「殴ったりしませんっ! 気にしてませんから……!」
「ちったぁ気にしろ、女だろうが!」
「いつもは子供扱いするじゃないですかぁ」
「いや、思ってたより女らしかったからよ……しばらく頭ん中に残ってんな、こりゃ」
「……!」
頬を打つかわりに、無言で先輩の額を指ではじいた。
いまいちな手応えで指先から出たのは気の抜けるような軽い音だったけれど、とりあえずこれで手打ちということで。
早く今夜のことは忘れてくれるといいな。
「……何話そうとしてたか忘れちまったじゃねぇかよ」
あらためて私の部屋の中央に腰を下ろして向かい合うと、先輩は視線をそらして唸りながら頭をふった。
まだ引きずってるのか、この人は……。
つられて恥ずかしくなってしまうから普段通りに戻ってほしい。
「今日の出来事についてですか? それとも陸援隊のお話とか……」
シノさんが女だったことについての驚きや写真についての話は、帰り道の休憩中にさんざん盛り上がったっけ。
写真の話だったら私はいつでも大歓迎だけど。
「……おお、思い出した! おめぇの父ちゃんの話だ。どんな絵描いてたんだろうなって。絵草紙屋でなんでもいいから手に入んねぇかな」
先輩は、はっとして膝を打ち、表情を明るくする。
しかし、目が合うとすぐさまわざとらしくそっぽを向いてしまった。
ぎこちないやりとりが続くなぁ、さっきから。
「絵でしたら何枚か持ってますよ……あ、そうだ! 父が挿絵を書いた草双紙が手元にあります!」
読もう読もうと思いながらも、なんだかんだで手をつけられずにいた一冊だ。
雨京さんがわざわざ探しだして買ってきてくれた大事な本。
私は枕元の風呂敷包みを解き、その中から目当てのものを取り出した。
『ばかぢからくそ太郎』
――うん、いつ見てもすごい書名と表紙絵だ。
「これなんですけど……」
先輩に本を手渡すと、彼は何気なく表紙に目を落として、かるく噴き出した。
「なんだよ、くそ太郎って」
「なんだかやけくそな題ですよね。実は私もまだ読んでないんです」
「ふぅん。んじゃ、今から読もうぜ」
膝の上で表紙をめくりながら先輩が手招きをする。
私は頷いて、彼の隣に腰を下ろした。
「おめぇ、草双紙くらいは読めるんだろ?」
「読めますけど時間がかかっちゃうので、普段は絵ばっかり見てます」
「ガキかよオイ! 絵はオマケだろうが」
「そんなことないですよぉ! 絵があってこその絵草紙です! 主役と言っても過言じゃないですっ!」
特に父が描いたものは、どうしても絵に注目してしまう。
父の仕事ぶりを側でずっと見てきたから、一枚を描くのにどれだけの時間と労力を費やすのかよく知っているつもりだ。
オマケだと軽く流し見て終わるようなことだけはしたくない。
「まぁ、おめぇの父ちゃんが描いてるわけだしな……そんじゃ、絵もじっくり見ていくとすっか」
「はい! 見てくださいっ!」
「よっしゃ! 文字に弱いおめぇのために、今夜はオレが朗読してやるよ!」
「わぁっ! ありがとうございますっ!」
ゴホンと喉をならして膝の上に本を立てた先輩に、肩が触れあう距離まで身を寄せる。
本を読み聞かせてもらうのなんて何年ぶりだろう。
子供の頃を思い出してわくわくしちゃうなぁ。
「今は昔、近江の国にたいそう力持ちの、太郎という若者がおったそうな――…」
そんな書き出しで始まった物語は、最初から最後まで悪ふざけとお下品なネタに満ちており、そのあまりのくだらなさに私たちはお腹を抱えて笑い転げた。
「笑いすぎて腹が痛ぇ……! 最近の草双紙はここまでブッ飛んでやがんのか!」
「すごいお話でしたね、夢に出てきそうです」
先輩の好きな系統の話だったようで、朗読中から彼はしきりに作者さんを誉めていた。
さらに挿絵の迫力と細やかなお笑い要素にも感心して父の技量をおおいに認めてくれたので、とりあえずは一安心だ。
「くそ太郎は難儀な奴だなァ。最強の力を持っちゃいるが、いちいち代償を払わなきゃなんねぇとは」
「人助けをしようという心がけはすごく立派なんですけどね」
ばかぢからくそ太郎は、怪力の農民くそ太郎が襲い来る魑魅魍魎と戦って村人を救う物語だ。
ただし、くそ太郎は極端にお腹が弱い。
大岩を容易く砕くその力を思いきりふるうには腹に力を込めなければならず、そうすると一撃みまうたびに脱糞してしまう。
くそ太郎は、隣に住むおはなちゃんに良いところを見せたいと思って戦いにのぞむのだけど、どうしても彼女に情けない姿を見られたくない。
そのあたりの葛藤がうまく描かれている。
とんでもなく馬鹿馬鹿しい話だけれど、妙に人を惹き付ける魅力がある。
それは語り口の軽妙さだったり、挿絵の豪快さだったり。
二つが揃ってこそ成り立つ抱腹絶倒の世界観だ。
こうして見ると、絵と文は一心同体なのだと分かる。
どちらかに重きを置いて片方をないがしろにするのはとても失礼な行為だし、本を楽しむ上で損をしている。
これからはもっときちんと、文字も読み込んでいこう。
「続きが出てんなら読みてぇなァ」
ぱらぱらと項をめくりながら時折笑みをもらす先輩に、私はすぐさま頷いてみせた。
ちょうど同じことを考えていたところだ。
「いかにも次の敵が現れそうな終わり方でしたから、きっとまだまだ続きますよ」
「そうだな。んじゃ、明日探してみようぜ!」
「はいっ!」
と、そんなわけですっかりくそ太郎に魅了されてしまった私たちは、読後の感動冷めやらぬまま熱く拳を握り合うのだった。
父の挿絵も楽しみだけれど、何よりお話の続きが気になる。
人を選ぶ内容とはいえ、これだけ読ませる物語なのだからきっと子供たちからの評判も悪くはないだろう。
「おめぇの父ちゃんの絵も見れてよかったぜ。元気が出るいい絵だな」
「ありがとうございます!」
元気が出る、なんてほめ言葉は、玩具絵師だった父からすれば特に嬉しい感想に違いない。
父の絵で誰かが笑顔になってくれるのは、私にとっても何より誇らしいことだ。
先輩と一緒に読んでみてよかったな。
「続きが手に入ったら、また一緒に読もうぜ」
「はい! 先輩の読み聞かせ、とってもお上手でしたから楽しみですっ」
「オイオイ……またオレに読ませるつもりかよ」
くすりと笑みをもらした先輩は、私の額をかるく指ではじいた。
言葉とは裏腹にまんざらでもなさそうな表情だ。
「だめですか?」
かすかにくすぐったい感触が残る額を押さえながら上目遣いでそう問えば、
彼は少し照れたように髪をかきあげながら、視線を泳がせた。
「……まぁいいか。どうしてもとせがむんなら仕方ねぇなァ」
「ふふ、やったぁ! 明日、すぐに見つかるといいですね」
「おう。盗まれた絵の捜索がてら、あちこち絵草紙屋を回ってみようぜ」
「そうですね。ようし! なんだかやる気がみなぎってきました!」
今のところまるで手ごたえのない盗品の捜索も、こうして楽しみができるとまた新鮮な気持ちで取り組んでいけそうだ。
明日からまた、頑張らなきゃ。
「よっしゃ! そんじゃ今夜はそろそろ寝るか!」
「そうしましょう。おやすみなさい、先輩」
「おう、おやすみ。寂しかったらいつでも添い寝してやっから言えよなァ」
「もう一人で大丈夫ですよぉ」
――そういえばここに来てすぐの時は、一人で眠ることができないほどに矢生たちの存在に怯えていたんだっけ。
夜が来ることを極端に恐れていた。
暗闇の中、一人取り残されることが怖くて仕方なかった。
けれどそんな気持ちも、いつしか薄らいでしまったな。
それはきっと、私以上にあの夜の恐怖を引きずっている、かすみさんの姿を目にしたからだ。
縮こまって震えているばかりでは、何も解決しない。
人を励まし勇気づける力をしぼりだすには、まず自分が背筋を正してみせなければならないんだ。
「何かあったら、遠慮なく呼べよな」
私の頭にポンと優しく手のひらを置いた先輩は、そう言い残して自室へと戻っていった。
静かに障子が閉まる音を聞き届けて、もぞもぞと布団の中にもぐりこむ。
今日も長い一日だった。
眠りに落ちるそのときまで、まだわずかにぬくもりの残る手元の草双紙を、ゆっくり読み返してみよう――。
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