小説 | ナノ

 第1話:いずみ屋


「きた、きた、来たっっ!!」

日暮れ前。
高瀬川沿いの柳の下で、私は大きくしなる釣竿を握りしめ叫んでいた。
この場所を起点に釣りを始めてもう十日以上。
これまで一度も釣果を上げたことがなく、諦めかけていた矢先のこの瞬間。
ついさっきまで気持ちの良い風を子守唄にして頭を揺らしていた私も、さすがに覚醒する。


――今日こそは、釣れる!!
相手はこの糸の先に捕らえられている。あとは勢いよく引き上げるのみ!
勝ちを確信し、暴れまわる獲物を一気に空中に引き上げようとしたその時。

ボリッと情けなく音を立てて、先端から竿が折れた。
唖然として目線を川に落とすと、逃した獲物が竿の先ごと水流に流されていくのが見えた。



「ちょ……待ってぇぇぇ!!!」

私は先端を欠きただの棒切れと化した竿を放り出し、流れゆく獲物を追いかけ走り出す。
今晩のおかずだ。逃がすわけにはいかない!

どんぶらこと川を下る竿先を追いかけて、堀の上からしばし並走を続けるも、これでは埒が明かない。
私は思いきって川に飛び込んだ。
ぱしゃりと、冷たいしぶきが足を濡らす。

高瀬川の水深は膝下ほどまでしかなく、とても浅い。走るには都合がいい。
一歩踏み出すたびに大きく水面がはじけ、派手に音をあげる。


もう少しで、追いつく―――!


体を曲げ、すべるように流れていく獲物に大きく手をのばす。
ぷかぷかと浮き沈みする竿先。あそこを掴んで思い切り引っぱり上げる!
あとすこし、もう一寸……!



ばしゃあぁぁっ


伸ばした右手はすれすれのところでむなしく空をきり、そのまま体勢をくずした私は顔面から川面に叩きつけられた。


「いったぁ……」

ずぶ濡れになった体を起こし、ビリビリとあちこちに走る痛みをやわらげるように上半身をさする。
顔を上げて水の流れを目で追えば、はるか先に先程追いかけていた獲物の影が見える。


――もう追いつくのは無理だろう。
結局、今日もボウズだ。情けなく溜め息がもれる。




いつの間にか藍色に染まった空を見上げながら、ざぶざぶと川面を蹴って帰路につく。
落ちついて周囲を見わたせば、仕事終わりの商人さんや旅の人がにぎやかに行き交い、宿場町ならではの活気に満ちた夕景が広がっていた。
中には濡れねずみ状態の私を見て目を丸くする人や、指をさして笑う人の姿も。
どうもお疲れさまですと、すかさず自然な笑顔を作り手を振る。
私は正常です。ちょっと元気がありあまっているだけです。そんな目で見ないで…!

ふぅと一息ついて正面を見据えると、投げ捨ててきた竿が水路の縁にぷかぷかと浮いているのが見える。
あれを拾ってから岸に上がろう。



「……ん?」


竿は、末端を橋の下に引っかけるようにしてその場に留まっている。
私が目を留めたのは、そのとなり。
水草の陰に隠れるようにその身をただよわせる一枚の紙切れ。


……なんだろう、これ。


そっと水面から引きはがすように持ち上げてみる。
水を吸っているとしたらすぐに破けてしまうはずなので、慎重に。
若干くたりとはしているものの、思いのほか厚手の紙で丈夫そうだ。
何か書かれているかな?
裏面をめくって確認してみる。


「……なに……これ?」


三人の男の人が、紙の中に立っている。
おそらく、絵だ。
まるで本物の人間がそのまま紙の中に収まっているような……恐ろしく精巧で魂のこもった絵。
くすんだような黒と灰の濃淡で描き出されたシブい仕上がりだ。

絵師だった父の仕事柄、人より多くの絵を見て育ってきた自信があるけれど、こんなにも繊細で正確な筆致のものは見たことがない。
どこの絵師の作だろう……というより、これは本当に絵なのかな?
いや、紙の上に生み出されたものである以上それ以外に考えられないけれど。


すごい。これはすごい!!


興奮で肩を震わせながら、拾った絵を懐にしまいこむ。
忘れかけていた竿も回収し、そのまま足早に川岸へと駆け上がる。
釣果は散々だったけど、思わぬ拾い物をしてしまった。
早く帰ってかすみさんに見せなきゃ!






木屋町周辺は宿や茶屋が多く、往来する人々の活気にあふれた賑やかな通りになっている。
私の住まいがあるのは、そんな町の一角。

料理茶屋『いずみ屋』
もとは高級料理屋の支店として使われていた二階建ての立派な店構え。
一階部分が茶屋で、二階は住まいになっており、私は現在そこで居候させてもらっている。



「ただいま、かすみさんっ!」

釣り道具一式を軒先に放るように置くと、私はのれんをくぐって我が家へと飛び込む。

「あら、美湖(みこ)ちゃんおかえりなさい」

切りかわった視界に、色彩華やかであたたかみのある店内が広がる。
四方の壁にはさまざまな絵画が所せましと並べられ、一見するとそれを商売にしている店のようだ。

お客さんの姿はなく、がらんとした店の真ん中で布巾を持ったかすみさんが出迎えてくれる。


「昨日手に入れたあの絵、さっそく飾っちゃった。はぁ……やっぱり素敵」

かすみさんはそう言って、熱っぽくうっとりとした息を吐く。
向かいの天井付近に飾られた真新しい武者絵に視線は一直線。
肩のあたりでゆるくまとめた亜麻色の髪がさらりと揺れ落ちる姿は、女の私でも見惚れそうなほどにきれいだ。

そんなかすみさんは、ここいずみ屋の店主をしている。
二月前に父を亡くして天涯孤独となった私を引き取り、世話をしてくれている恩人だ。
京でも指折りの絵画収集家で、お気に入りの一枚を手に入れるたびにこうして店内に飾っていく。


「ついに天井まで絵で埋まって来たねぇ。目立つところに貼ってもらえて、お父さんもきっと喜ぶよ」

私は心からの笑顔を向ける。
かすみさんが特にひいきにしてくれている絵師は、私の父である天野川光(あまのせんこう)だ。
父は依頼があれば何でもといった具合に色々な分野の絵を描いていたけれど、中でもすごろくや凧などに使われる玩具絵(おもちゃえ)は特に評判がよく、多くの作をのこした。
この店の壁にも何点か飾ってある。


「天野先生の肉筆画は、遺されたものが少ないでしょ?だから特に人気でね。あの絵も手に入れるの大変だったのよ」

「かすみさん、集めて遊ぶのはいいけど、絵の中の男の人に本気になっちゃダメだってば〜」

恋する乙女の眼差しで展示絵の数々を見渡すかすみさんを、わりと本気で心配する。
美人だし、かぐや姫顔負けのモテっぷりなのに現実世界の男の人に目を向けようとしないのは、あまりにも勿体ない。
実際この店のお客さんも八割方かすみさん目当てだし、中には運命の殿方がさりげなーく混じっているかもしれないのに。




「それより、今日は店じまい早いね。お客さん少なかった?」

もともと気まぐれに営業時間を早めたり遅めたりする自由な経営の店ではあるけれど、最近は日が暮れてからのお客さんも多かったはずだ。

「うん。なんだか今日はちょっと、ごたごたしちゃってね……」

ほわんと夢見ごこちだったかすみさんの表情が一瞬、くもる。

「どうしたの!?」


ゴタゴタと言えば、これまでにもいくつかあった。
お客さん同士の些細な言い合いがつかみ合いに発展したもの。
かすみさん目当ての酔ったお客さん達によるいさかい。
あとは、浪士さん達の口論が乱闘に発展したもの。最近はこれが多い。


「常連さんからね、うちの店にはもう来ないって言われちゃって」

「え……」

「最近客層が変わったって。それが居心地悪くて好きじゃないって。美湖ちゃん、どう思う?」

「それは、うん。京に住んでる人とは違う……浪士さんっていうの?今は志士さんとか名乗ってるんだっけ。そういう人が増えたよね」

「うん、そう。確かに多いの、最近。お金がなくて困ってるようだから、私も何か力になりたいと思っているんだけど……」

「いつもツケで飲み食いして行くからね。長居する人も多いし、それを嫌がるお客さんがいるのも分かるよ……やっぱりほどほどに、お断りした方がいいのかもしれないね」



浪士。それも脱藩浪士というのは、いわばよそ者だ。
故郷を捨てて、藩の外に出てきた人たち。
ここ数年は町のあちこちでうろついている姿をよく目にするようになった。


京に住む人間の大半は、彼らを煙たがっている。
迷惑なよそ者と陰口を叩かれる彼らは、あてもなく貧しい生活を送っているようで、料理屋ではツケを要求することが多い。
宿もなく町のすみや橋の下でたむろし、中には道行く人から金品を強奪したり、女の人に乱暴する輩までいるらしい。

いつ自分に危害を加えられるか戦々恐々とする京の人々は、身を縮めるようにして日々を過ごしている。
あまりの実情に、そういった手合いを取り締まる組織まで出来た。


そんなごちゃごちゃとした最近のこの町は、どこかじめじめとして暗く、不安定な梅雨空のような雲行きだ。



「いい人もたくさんいるんだけどね。話してみたら分かるけど……」

「うん。私に釣りをすすめてくれたのも浪士のお兄さんだったしね!」

「ふふ、そうね」


いずみ屋に浪士がたむろしはじめた理由は恐らく、基本的にツケを断らないからだろう。
私から見ても、かすみさんの経営はものすごくユルい。
普通なら商売が成り立たなくなるほどにツケには寛容だし、どんな客でも拒まずに受け入れる。
けれど、そういった甘い対応の末に近辺に粗暴な輩が居座るようになっては迷惑千万だと、ご近所さんから幾度か苦情を受けたこともある。


むずかしい問題だ。
時には厄介ごとから一線引くために、人情を切り捨てる選択をした方がいい場合もあるのかもしれない。





「こんばんはー」

会話が途切れひっそりとした店内に、ドンドンと戸をたたく音が響きわたる。
私とかすみさんは一瞬びくりと肩を震わせて、顔を見合わせた。
お客さんかな?

「はぁい、ただいま」

かすみさんは小走りで声の方へと駆け寄ると、ガタガタと戸を引いて笑顔を作る。



「店じまいの後にすまないな。これをさ、渡しておこうと思って」

戸口から顔を出した浪士らしき風体の男の人は、じゃらりと重みのある袋をかすみさんへと差し出した。
よくよく見れば、見覚えのある顔だ。
いつも二、三人で連れだって来店して、長々と居座りながらツケでたくさん飲み食いしてた人のはず。


「あ、これは……」

「ためてたお代、払いに来たよ。ちょっと収入があってさ。いやぁ、本当はまだまだ足りないんだけど今日のところはこんなもんで……」

「わ、ちゃんと払いに来てくれたんですね!ありがとうございますっ!!」

律儀にツケを払いに来るなんて珍しい。
私は少し感動して、戸口に立つ浪士さんのもとへ飛んで行った。


「おお、みこちゃん!魚釣れたか?前に俺、教えたろ?」

「今日はおしかったんですけどねぇ!大物が釣れそうでした……結局逃げられちゃいましたけど」

「そうかぁ。まぁ、根気よくいけよ。あんまりぐいぐいやるなよ?」

「はいっ!明日こそ釣ります!お兄さんもまたお店に来てください!」

「お待ちしてますね」

かすみさんがふわりと笑うと、浪士のお兄さんは照れたように頭をかいて、はにかんだ。
これは、ほの字というやつではないですかねお兄さん。


「ははは、いやぁ……本当、この店に救われてるよ。いつも俺たちみたいなのを受け入れてくれてありがとうな。また来るよ、かすみちゃん、みこちゃん!」

「はいっ!」


お兄さんは、にっと清々しく笑って手を振ると、そのまま足早に暗い路地へと消えて行った。
まるで何か一つやりとげたような、憑き物がおちたような。そんな様子だった。
その日暮らしで荒れた日々を送っているようで、やっぱり本人たちなりに考えるところはあるんだろうな。



どちらからともなく、かすみさんと顔を見合わせて笑い合う。
さっきまで私たちを悩ませていた問題は、どこかに吹き飛んでしまったようだ。

「もう少しだけ今のまま続けてみるね」と、かすみさんが小さく笑う。
受け取ったお代が手元で立てるその音を、今日ほど重く感じた事はない。






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