ガーデニア


 あ、と小さく声がした方に顔を向けると、髪から滴をしたたらせた伊月がぼんやりと突っ立っていた。開いた襖の向こう側である廊下に立って、伊月は首を傾げる。首にかけたタオルの効果もむなしく、滴がまた板張りの廊下に落ちた。
冬の厳しい寒さは抜けたといってもさすがに夜は冷え込む。髪を濡らしたままの伊月に日向は顔をしかめた。コイツはまたこんなところで危機感がないんだと内心ごちりながら風邪引くぞと声をかける。ややあって、ああうんとそぞろな返事があったかと思うと、やけに真剣な表情の伊月が日向を見据えた。
「日向って、朝はパン派?ごはん派?」
「はあ?」
「ごはんだと炊かなくちゃいけないから食パンでもいいか?それともやっぱりごはん食べたい?」
「……あ、食パンで、」
淡々と言ってのけた伊月に拍子抜けしながら応えて、何となくやり場のなくした気持ちに、日向は仕方なく腰を上げた。


 事の発端、つまり日向が伊月の家にいる理由は、時期外れのように思われるにもかかわらず決行された伊月家の母方の実家への帰省である。どうしてこんな年度始めに、どうせならオレも行ける時にと伊月は抵抗したのだが、のんびりした母親の決定をくつがえすことは出来なかった。あらあら、じゃあ俊のためにも夏休みにまた来るわって言っとかないとね、笑顔の母親からそう宣告されたときに伊月は抵抗を諦め、潔く家族を送り出すことにしたのだった。出発は今日の夕方、その予定時刻の少し後まで、そして土曜である明日にも例のごとく部活がある伊月はひとり家に残ることになった。そうなったまでは良かったのだが。
部活も終わり、そろそろみんな出発しただろうかと伊月が考え、部室で着替えていたところに、渋い顔をしたリコが現れた。突然入ってくんな云々の部員一同の文句をスルーして、彼女は彼らに向かって口を開く。ねえねえ、明日、ここ何かで使うって話聞いてた?……聞いてないわよね、なんか体育館使うらしいわよ。新入生の行事かなんからしいけど、部活できないって……しかも明日はうちのジムも使えないのよね。先に連絡しとけって話よね、まったく!しばらくぶつぶつと文句を繰り返してから、リコは勢いよく宣言した。
「明日は練習無し!緊急オフにします!」
「えっ」
「あらどうしたの伊月くん、そんな嫌そうな顔して」
休めるときにしっかり休んどくのも大切よ?と諭すように言われて、伊月は苦笑いを返す。こんなことなら出発時刻をもっと遅くしてもらって自分も行けばよかった。そう考えても後悔先に立たず、どうしようもないかと小さくため息をつく。
「なんかあんのか、伊月」
「あ」
気遣った様子の日向と目が合った途端、伊月は短く声を上げ、勢いよくその手をしっかりと握った。突然手を握られた本人は、面食らった風に立ちすくむ。
「日向、うちに泊まりに来て」
「は?」
「今日うちに誰もいないから、来て」
「はあ!?」
狼狽える日向とは反対に、顔を輝かせた伊月はじゃあ日向の家に寄って荷物持ってから帰ろうと上機嫌に話を進める。日向とて、嫌なわけではない。ただ、周りのチームメイトからの生暖かい視線が、彼に素直な返事をさせないでいた。
 いつの間に知られたのか、日向と伊月が友人という関係でなくなったことは誠凛高校バスケ部内で公認になっていた。恐らくリコや小金井辺りが情報を掴んだのだと二人は踏んでいるが、真相はわからない。
 そんなチームメイトたちがいる中で「泊まりに来い」などと言えばどういう事態になるか、伊月にもわかっているはずだが、彼はどうやら自分の突発的な思い付きに心を踊らせているらしく、冷静な判断は望めない。日向はため息をついた。二人きりというのは魅力的だし嬉しいが、素直には喜べない。冷やかされている妙な気恥ずかしさに、日向の耳は熱くなった。

 着替えが済むと、伊月はまだ渋っていた日向を引っ張りつつ部室をあとにした。にこにこしながら道を歩く伊月に文句なんて言えなくて、日向は黙り込む。よくよく考えれば、二人で過ごす時間ができたことをこんなに喜ぶ伊月が素直に可愛かった。
「じゃあまず日向ん家な!荷物取りにいこう」
「……おう」
素直に返事をすると、伊月は少し目を見開いて、それからにっこり笑う。その様子がいつもの飄々とした伊月よりいくぶん幼くみえて、日向は胸の奥がむず痒くなった。
 結局、日向の家に寄ったついでに近所のファミレスで晩ごはんにありつき、二人が伊月宅に到着したのは9時過ぎだった。部活の疲れも相まってさっさと風呂を済ませてしまおうという話になり、客人なのだから先に入れと日向は半ば無理やりに風呂場に送還された。ありがたく一番風呂をいただき、伊月と交代して日向は伊月家の居間でくつろぐ。この家の品の良い畳の香りを、日向は前々から好んでいた。そうしてややあって、冒頭に至る。


 のそりと立ちあがった日向に伊月は首を傾げ、疑問符を飛ばす。その黒い髪からまた滴がしたたって、日向は顔をしかめた。
「なに日向、トイレ?」
「じゃなくて、」
風邪引くっつってんじゃん。伊月の首にかかっていたタオルを手荒に奪い取り、日向はわしゃわしゃ伊月の頭をかき混ぜた。
「わ、」
「頭もうちょっと下げて、そう、そのまま……ったく、二年のお前が危機管理甘くてどーする」
「ごめんごめん、ありがと日向」
ぶっきらぼうに終わり、と言って日向は伊月の頭を軽くはたく。顔をあげれば、日向は気恥ずかしそうに明後日の方向を向いていて、伊月はばれないように笑った。あまり素直ではない日向のことだ、端的に指摘するとしばらく照れ隠しに不機嫌になるだろう。せっかくの時間なんだしと、伊月はなるべく笑わないように日向の手からタオルを受け取った。
 いまだ湿った髪に日向は少し不満げではあったが、伊月がどこで寝ようか、と口を開くと途端に目に見えてうろたえ始めた。伊月はしばらく不思議そうにしていたが、自分の言ったことを反芻して徐々に顔を赤らめる。泊まりにきてと誘ったときにそんな下心は無かったどころか思いつきもしなかったが、考えれば日向とはそういう意味で付き合っているのである。家族のいない家に呼ぶというのは、つまりそういうことだ。
「えっと……あの、日向、そういう意味じゃなくて、」
「……お前、なんも考えてなかったの」
ごめん。真っ赤な顔で俯く伊月に日向はそれ以上なにも言わず、その腕を引き寄せた。力が強すぎたのかよろけるように倒れこんできた伊月をぎこちなく抱きしめながら、どうも格好がつかないなと眉間にシワを寄せる。残念ながら、小綺麗に格好のいい器用な恋愛はできない。
「オレ、お前ん家の畳の匂い好き。和室で寝たい」
首筋には顔をすり寄せながらそう言うと、伊月が小さく頷いた。息を吸い込むと肺にほんのりとシャンプーの香りが広がる。満たされた感情に、日向は抱きしめる腕の力を強めた。
「……日向、すっごいつまらないこと言っていい?」
「いつも了解なんて取らねえじゃん」
日向の耳元でああうん、それはそうだけど、と伊月はぶつぶつ口ごもる。それから不意に顔を離して、日向の目を真っ直ぐ見つめた。
「あのさ、こういうのを、幸せっていうんだなって」
思ったんだ。はにかんだ伊月の湿った髪をかき混ぜて、日向は心から吹き出しそうな幸せを包み込むように、もう一度強く伊月の身体を抱きしめた。
 次の日の朝、食卓にならぶ少し焦げたベーコンエッグとトーストを見て、日向は再度幸せを感じることになる。


ガーデニア
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ガーデニア(くちなし) 花言葉「わたしは幸せ者」
みなさまにすてきな日月の日があらんことを!
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