「離してくれない?」
女にしては低めの涼やかな声はいつもとなんら変わりない。
俺にだけ向けられる甘さを含んだ、俺の大好きな恋人の声だ。
なのにこんなにも悲しいのは何故だろうか。
グッと掴まれた手首を見やり、彼女は困ったように眉を下げ俺を見上げる。
「離して?」
「いやだ」
「離してくれないと行けないんだけどな」
「行かなきゃいいだけだろ」
「そうはいかないわよ」
だってそれが私の存在意義で、義務だもの。
コロコロと鈴を転がすように、なんてことないのだとでも言うように、笑う。
その全てを受け入れてしまったと言うような笑みに、胸が締め付けられた。
俺の知らないところで、俺の知らない内に、彼女は決めてしまったのだ。
――それだけは止めてくれと、あれだけ言ったというのに。
「……なあ、」
「なに?」
「俺と逃げないか」
「……」
「お前を絶対守り切ると誓うから。だから、俺と一緒に逃げよう?お前ほど世界の安寧を願っている奴も居ないのに、そんなお前が世界の為に死ぬだなんて、馬鹿げてる」
だから逃げよう。
お前が死ぬことなんてないんだ。
死ぬ意味なんてないんだ。
「なァ、」
そんな嬉しそうに笑ってるだけじゃなくて。
頼むから頷いてくれよ。
諦めないでくれよ。
こんな言葉だけで、満足しただなんて思わないでくれよ。
「そう思われるだけの価値が私にもあったのだと、最期に解って嬉しいわ」
「っ、最期だなんて言うなよ!」
「――ありがとう。こんな私の為に怒ってくれて。本当に嬉しい。叶うのならこれからも貴方の側に居たいと、ほんの一瞬でも願ってしまった程に」
それが罪だとでも言うかのような言い回しだ。
そんな風に思わせてしまう彼女と俺の関係性に、涙すら零れてはくれない。
「――時間だよ。今度こそ離して」
お願いだから。
その言葉には応えない。
だって応えてしまったら、君は行ってしまうのだろう?
もう二度と言葉を交わすことすら出来なくなってしまうのだろう?
「ねえ、」
懇願する声に、嫌だと言った。
離してなるものかと掴んだ手首を強く握り締める。
「困ったわね。どうしたら離してくれるの?」
「……行くなよ」
「それは出来ない相談」
「じゃあ、離さない」
「ふむ。堂々巡りね」
緩く握った拳を顎に宛てて、困ったと眉根を寄せる彼女に、嘘つけと内心で吐き捨てた。
振り払えるくせに。
俺の力なんて小指一本もあればどうとでもなるくらい強いくせに。
どうして俺に選ばせようとする?
どうして俺に離れる事を望ませようとする?
どうして、
「……俺は、お前と生きていきたい」
どうしてお前は、そんなにも簡単に自らの“死”を受け入れられたんだ?
俺には理解できない。
納得だって、したくない。
したくなんてないのに、
「――私は世界の為に死にたい」
「……っ!」
「そんな顔しないで?出来れば貴方には笑っていて欲しいの」
「なら、俺と生きるって言えよ」
「無理だよ。私には出来ない。ヒトの希望を打ち砕いてまで、生きたいとは望まないから」
そう言いきった彼女に、頭の天辺から足の爪先までスゥと血の気が引いていくのを感じた。
――きっと、俺がこれ以上何かを言ったところで、彼女は自分の意思を変えないだろう。
それが分かったところで、悪足掻きを止めることなんて出来ないけれど。
だってそうだろう?
誰が好き好んで恋人を死なせる道を受け入れると言うのか。
「俺は…っ!」
「もういいよ」
なのに彼女は俺の決意を砕く。
開いた唇に人差し指を宛てる彼女の顔は、もう何も言うなとでも云うような顔だ。