ある日それは突然起きた。
その日も仕事が丁度終わった時だった。
グッと伸ばした背骨がボキリと鳴るのを感じながら、ふぅと息を吐く。
その時、バンッという大きな音と共にソレは突っ込んで来た。
「ふぐっ!?」
丁度扉側を向いて椅子に座っていた私の腹部に直撃したソレ。
長時間座りっぱなしの身体が揺さぶられ奇声を発する。
腹部を見ると、そこには何故か幼い少年が居た。
しかも「しのは、あそべー」と、舌ったらずな甘えた口調で抱き付いていた。
「しのー、ふァッ!?」
私は驚きのあまりベリッと少年を引き剥がすとほんの少しの理性が働いてベッドの方に投げ飛ばす。
少年はいきなりの事に奇声を発しながらベッドの上に転がった。
驚いたとはいえ、ついうっかり見ず知らずの少年を投げ飛ばしてしまった。
怪我はなかっただろうかと、少年に近付き恐る恐る呼び掛ける。
「君、……大丈夫?」
「……」
何も言わない少年に不安になりながらもう一度「大丈夫?」と声を掛ける。
すると少年は、
「しのはすげー!!」
と、目をキラキラさせながら懲りずにまた抱き付いてきた。
私は何が何だか分からなかったが、とりあえずしゃがんで少年に視線を合わせる。
「少年。とりあえず怪我はない?それと君はどこの子かな?」
「? 何言ってるのしのは?半年前にしのはの家に来たの忘れちゃったの?」
半年前……いや、知らない。というかこんなに大きな子供が居る知り合いも居ない。
もしかして知り合いの子でも預かってるのか?
そう一瞬思ったけれど、いくらぽやぽやしている両親でも何か言うよなと即否定。
チラッと少年を見ればきょとんと首を傾げていた。
そして驚くことを口走ったのだ。
「おれね、はつじょーきが来たんだって、お母さんが言ってたの。でね、おれしのはが好きだからお嫁さんになってほしいの! だからしのは、おれと交尾して?」
「いや、人間に発情期は来ない上に私は少年と交尾する気がない。というか人間同士は交尾とは言わない。そもそも君はどこの誰なのかな?」
危険な発言が少年から聞こえたのでとりあえず早口で突っ込む。
けれど少年は良く分かっていないような顔でポカンとしていた。
「おれはレオだよ?しのはの事が大好きなごーるでんれとりばー、のレオ!」
元気良く『レオ』と名乗った少年。
そのまま少年は私を押し倒して上に乗っかってくる。
奇しくも我が家には半年前に両親が買ってきたゴールデンレトリバーの『レオ』という犬が居る。
……居る、が。
「は?」
目の前に居るのは少年―――つまり人間だ。犬じゃない。
だけど少年はゴールデンレトリーバーの『レオ』だと名乗った。
脳内整理が上手くいかずに頭の中がごちゃごちゃする。
……って、いや。
「止めなさい」
「なんで?脱がないと交尾で「待て!」……っ!」
考えてる場合じゃなかった。
レオは私の服を脱がせようといそいそとボタンを外そうとしていたのだ。
私は咄嗟にレオに言うように『待て!』と叫ぶ。
……すると面白いくらい綺麗に固まった。
あれ?この反応……
「……レオ?」
「ぅ〜、だから言ってるじゃん、さっきからぁ」
恐る恐る呼び掛ければプクーと頬を膨らませて拗ねる少年。
いや。普通は飼い犬が人間の姿で現れても簡単には信じないから。
色々言いたいのを堪えて身体の上で固まったまま動けないでいるレオをとりあえず退かす。
レオは恨めしそうな顔で私を見ていたが気にしない。
「とりあえず君がレオなのは分かった。とりあえず」
そう言えばキラキラした笑顔を向けてくるレオ。
まぁ、あそこまで見事な固まり方を見たらこの半年で見慣れた飼い犬のレオだと認めざるおえない。
躾をしたのは私だし。
だけどね?
「レオ。一応言っておくけど私は人間。それで貴方は犬。だから発情期の相手も犬。分かった?」
何当たり前のことを言ってるんだろうと冷静な頭では思う。
だけど多分言わないと伝わらない気がした。
だけど次の瞬間そんな期待を裏切る言葉をレオは発する。
「でも今は人間の姿してるよ?」
コテンと首を傾げるレオに項垂れる。
まさかウチの犬がこれほど馬鹿だったとは。
いや、むしろ頭がいいのか?
その後、種族の違いを延々と説いた。
それでも渋るレオに『おすわり』と『待て』をして涙を浮かべながら抱き付きたがったレオに説明し続けた。
それでも納得しないレオに最後の手段とばかりに。
「次、同じ事をしたら一生遊ばないよ?」
そう冷ややかに告げれば、私と遊ぶ事が大好きらしいレオは、
「もう……しない」
と、グスグスしゃくり上げながら呟いた。
そんなレオの姿にどっと疲れが込み上げてくる。
(めんどくさい事になったなぁ)
そうは思いながらも、泣き止まないレオを見兼ねてしょうがなく遊んであげる。
そうすれば現金なこの子はすぐに機嫌を直した。
どうして人間になったのかレオも良く分からないらしいけれど。犬の姿じゃない分、遊びやすくなったと思ったのは確かだ。
それも一瞬ではあったけれど。
「しのは!ぼーる!ぼーる!」
「……分かったから叫ばない」
人間になった分、良く喋るレオにぐったりとしながら、それでもレオの言う通りボールで遊んであげた。
さて、それから2年ほど経った訳だけれど。
「紫乃葉。遊んでー!」
「ふぐっ」
彼が成長したのは身長と体重、語彙だけだった。
舌ったらずで聞き取り難かったレオの語彙はこの2年間で沢山の言葉を覚えた故か、普通の会話が出来るまでに成長した。
そして3才になったレオは重くなった。
人間で言えば成人しているくらいの年だからしょうがないのだけれど。
それでも重い。
今みたいに不意討ちでのし掛かられて、奇声を発する事は良くある事だ。
「紫乃葉遊んでよ〜?お母さんも出掛けたし、紫乃葉もお仕事終わったんでしょ?」
さっきまで泣いていた癖に何のその。
私の腰に長い腕を絡み付けながら甘えるように喋るレオ。
レオは不思議と両親の前では人型にならない。
むしろ常時それで居てくれと思うくらいの徹底振りだ。
まぁ、犬好きな両親でもレオが人間になるなんて知ったら大騒ぎするだろうから良いんだけれど。
……あれ?何でだろう。あっさり受け入れてる光景が浮かぶのは。
「しーのはっ!ぼうっとしてないで今日はこれ読んで!」
「はいはい。分かりましたよー」
意識を少し飛ばしているとレオがこれ、と絵本を差し出してくる。
まだ漢字が読めないレオは、漢字があまり多くない絵本や児童書などを私と一緒に読むのが最近のお気に入りらしい。
「じゃあ読むから、離れて座って」
本を読む時、レオは何故か私を足の間に座らせたがる。
それが嫌だと隣を指せばレオはむぅっと拗ねた顔をして反論する。
「やだ。紫乃葉と遊ぶの久しぶりだもん!それに紫乃葉に抱き付けるし」
そう言って私の首に頭を擦り付けて甘えてくるレオに溜め息を吐きたくなる。
本当に溜め息なんて吐いたらレオが泣くのが目に見えているから飲み込むけれど。
確かに昨日まで仕事で構わなかった。
だけど一番最初に言った通り、忘れているかも知れないけれど私は犬が嫌いだ。
触れないわけじゃないから良いでしょ?と両親が涙ながらに訴えてきたから渋々飼うことを同意した。
そうじゃなかったら私は多分、一生犬に関わらなかったと思う。
正直何が可愛いのか未だに良く分からない。
というかここまで引っ付かれると逆にどんどん嫌いになってくるタチなんだよなぁ。
「紫乃葉〜」
「……それ以上騒ぐなら部屋から出てって」
「やだ!紫乃葉が遊んでくれなきゃ誰が俺と遊んでくれるの!?」
父さんと母さんが居ますけど?
むしろ2人はレオと遊ぶために日に日におもちゃを増やしていますけど?
実の娘が犬嫌いなのを知っていても尚、レオを飼いたがった犬好き夫婦だ。
といっても、かなりの躾下手で結局私が躾をする羽目になったけれど。
ふっと苦笑いを浮かべると、不意にレオが顔を近付けてきた。
そして眉を下げながら、
「しーのーはー……」
「……はぁ。分かったからとりあえず横に座って」
「うん!」
追い出されるよりは良いと思ったのかレオは満面の笑みで私の横に座る。
ピッタリと身体をくっ付けてきたが、まぁ、許容範囲だと何も言わずに絵本を開いた。
◆◇◆
そんなある日。
思わぬ。というか嬉しい?……いや、やっぱり嫌な言葉を朝から出掛けていた両親が帰ってきた時に言った。
「レオ!お前にお嫁さんが来るぞー!」
「ラブラドールレトリバーなんだけどね?もう可愛くって可愛くって!即オッケーしちゃったのよぉ」
「……はぁ?」
思わず怪訝な声が漏れ出る。
聞けば母の友人夫妻が海外転勤になってしまい、飼っていた犬を連れていけないから両親が飼うことになった。……らしい。
相変わらず私の意見を聞かずに決定されていた事に頭を抱えた。
「……もう私は面倒見ないからね?」
何も聞いていなかったけど、レオの件で反対しても無駄なことは分かりきっている。
だけど前みたいに躾をするのは嫌だと暗にそう言えば、うんうんと嬉しそうな顔で頷く両親。
「その子しっかり躾をしてあるから大丈夫よ〜。紫乃葉が嫌なら2階には行けないように柵を付けるし!だから紫乃葉は安心してね?」
「ああ、うん」
そこまでして飼いたいの?
疑問に思わずにはいられなかったけれど、母さんがそこまで言うなら別に良いかと無理矢理納得する。
躾をしてあるなら構う必要もないし、私に懐くこともないだろう。
そもそもそんなに嫌なら実家から出れば良いんじゃないか?と言われた事もある。
私だって本音は出たい。というか昔は1人暮らしをしていた。
なのに実家に帰って、今もまだ住んでいる理由。それは単純なこと。
レオを飼い始めた両親が躾下手で上手く出来ずに私に躾依頼をしてきたのだ。
そして躾が終わり帰ろうと思った時、両親の甘やかしが酷くて、放っておいたら病気になるなと思ったからだ。
正直嫌いな犬であるレオを心配する必要はない。
だけどレオに罪はない。
だから直ぐに甘やかして身体に悪そうなモノをあげようとする両親を止める為に住んでいた家を引き払って実家住まいにしたのだ。
さて、さっきの両親の発言に戻って。
このお嫁さん発言に納得していないのが1人、もとい1匹居た。