▽ 何も分からない
吸血鬼にとって人間の血は命の糧であり、吸血するということは、生きることでもある。
人間だって食事をしなければ死んでしまうだろう?
それと同じだった筈なのに。
筈だったのに。
僕の腕の中でぐったりと身体を弛緩させている彼女。
極上の香りを放つ餌がもう少し肥えるのを待とうとほんの気紛れに側に居た。
ただの餌と捕食者の関係でしか無かった筈なのに。
――どうしてこんなにも心臓が痛むのだろう。
エクソシストに心臓を杭で打たれた事はないけれど、例えるならばそんな痛み。
死んでしまうのではないのかと思う程の、鈍く、けれど鮮烈な、心臓を引き裂かれるような痛みが心臓から広がって、じわじわと蝕むように全身に走る。
「食べる気はなかったんだ」
呆けたように呟いたのはそんな言葉。
食べる気がなかった?
そんな訳がない。
僕は捕食者。人間の生き血を糧に生きる吸血鬼。
食べ頃になった極上の餌を目の前にして、食べる気がなかった筈がない。
現に彼女の側に居る時はいつだって空腹を腹が訴えていたじゃないか。
空腹を刺激する香りを放つ彼女の血液を、この二本の牙で啜り上げたくて堪らなかったじゃないか。
なのにどうしてそんな事を言ったのだろう。
人間の生き血を吸うという事は生きる事。
それで今までにも何十、何百と人間の命を奪ってきたじゃないか。
それにまた一人加わった。
ただそれだけの話じゃないか。
「今までは何とも思わなかったじゃないか」
餌に情を掛けたら死んでしまう。
だから吸血鬼は人間を餌としか見てはいけない。
それは防衛本能のように刷り込まれている言葉。
守れていた筈だ。
恐怖に戦き、泣き叫ぶ。死にたくないと喚き散らす。たまに恍惚として僕に命を捧げた人間もいたけれど、大半はそんな人間ばかりで。
人間から見たら僕の長い生の中で、何人も、何人も。僕だって死にたくないんだよと、内心で思いながらこの牙に掛けてきた。
なのに、どうして。
「……こんなにも苦しいの?」
ねえ、眠っていないで答えてよ。
そうして僕に教えてよ。
もう動かない君を思うと、どうしてこんなにも心臓が苦しくなるのか。
どうしてこんなにも涙が溢れ出てくるのか。
もう一度、その目を開いて。
僕を見て、そしてこの心臓の痛みを、涙の意味を
――どうか僕に教えてよ
しょうがないなぁと困った声で、けれど優しく微笑みを浮かべる君の姿が閉じた目蓋の裏に浮かんだ。
押し出されるように涙の量が増したけれど、その意味さえ僕には分からない。
end...
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