▼ ただ一言伝えていたなら
ただ一言、お前に伝えれば良かったのか?
「おい」
「は、はい……!なんでしょうか……?」
最近知り合った女。
名前はなかなか名乗ろうとしないので訊けず仕舞いのその女はびくりと体を震わせてから、こちらを向いた。
俺の住まう屋敷に時折来ては、父と何やら話している。
その顔は明らかに困っていて、けれど父はそんな女の事情など知らないと言わんばかりに話をしていた。
俺には全く関係のない話だけれども、気分が良いモノでもない。
それに、
「お前、あの放蕩馬鹿兄貴を婿に迎えるんだって?」
「……はい」
それに馬鹿兄貴を婿に取るらしい。
馬鹿な女だ。
「あんなヤツで良いわけ?女癖悪いし、賭け事はするし。ロクな男じゃねぇぞ」
「……はい」
「何?知ってて婿に取るってか。お前、案外馬鹿なんだな」
「……そう、かも知れませんね」
女は微笑んだ。
その顔は全てを諦めているかのような笑みだった。
俺は思わずたじろぐ。
「……ま、まあ、見るからにどんくさそうなお前が兄貴にどう扱われようが知ったことじゃあねぇけどな」
「そう、ですね……」
「何だよ……。言いたいことがあるなら、」
ハッキリ言え。
その言葉の先は紡げなかった。
「何してるの?」
「っ、何も……」
兄貴が現れた。
兄貴は女の腰を抱いて、面白そうに口角をあげる。
「ふぅん。まあ、良いよ。後でじっくり身体に聞いてあげるから」
ふふ、と笑った兄貴は女の頬を撫でる。
その顔は見たこともないような幸せな表情をしていた。
「ああ、そうだ。我が弟」
「……んだよ」
「あまり彼女に近付かないでくれないか?私は嫉妬深いんだ」
「嫉妬?兄貴が?」
女なら誰でも良いとまで食い漁ってきた、あの兄貴が?
困惑に目を丸くする。
兄貴はその間もいとおしそうに女に触れていた。
(余計な心配だったか……)
心の中でそう思って、女を見た。
「……っ」
女の顔は、人形のように表情を固めていた。
その紫の瞳には何も、目の前の兄貴すらも、映してはいない。
本当に、好きあっているのか?
親父の話では「お互い惚れ合って結婚することになった」らしいのだが。
疑問を抱えたまま、兄貴と女は結婚した。
純白ではなく、女の家のしきたりに添って純黒のドレスを身に纏うその姿は、この世ならざる美しさを持っていたが、とてもじゃないがその人形のような顔は幸せな花嫁の図には見えなかった。
その内、女は身籠った。
それを知った兄貴は女遊びを再開したらしい。
女を放置していることが多く、大きな屋敷の当主たる女は大きな腹を大事そうに時折撫でながら、書類仕事をしていた。
その肌は随分長い間、外の光を浴びていないのか、真っ白だ。いっそ蒼白いとも言える。銀の髪と同化してしまうのではないだろうかという不安さえ過る。
俺は用意された紅茶のカップに口付けながら言った。
「やっぱ、あんなヤツと結婚なんてしない方が良かったんだよ」
「……」
「お前、見る度に窶れてるし。あの馬鹿兄貴はどっか別の女の上で腰振ってんだろ?こうなるって分かってて、何でお前は了承したんだよ」
「……」
「おい!」
声を荒げても何も返さない女の、細い肩を掴んだ。
「……っ!」
「え、」
小さく悲鳴をあげた女に、そんなに強く掴んだだろうかとゆっくりと手を放す。
掌で感じ取った女の肩は細く薄い。
骨と皮だけなのではないだろうかという程だ。
こんな体にさせるまで、一体兄貴は何をしていたんだ。
「……私は、」
女は小さく、その紫の瞳を睫毛で隠しながら、それでも力強く言った。
「私は、愛した人を守りたかったのです」
「愛した人を、守る?」
「貴方は、もう、この屋敷に来ない方が良いです」
「お前に指図される謂れはねぇよ」
「私と命。どちらが大切ですか?」
「は?何言って……」
「私は、命を取りました。それだけのことです」
「お前が命を取ったって、誰がお前を守ってくれるんだよ」
「……帰ってください」
女は静かにそう言うと、机の上の書類に目を通し始めた。
俺は何も言えなかった。
女は消え入りそうなのに、異様にでかい腹だけが存在を主張していた。
そうして俺は、俺達は。
その日を迎えた――
「――様はわたくしを愛してくださったのです!アナタは早く離縁して!わたくし達の愛の邪魔をしないで!」
「……」
「言いなさいよ!早く!離縁するって言いなさいよ!」
女の家の玄関口。
たまたま出掛ける用があった俺は、数年振りに女の元へと訪ねてきた。
そうしたらこの有り様だ。
兄貴は何をしてるんだ。
兄貴を探して軽く視界を揺らすも、居ない。
仕方がないと呆れながら、助け船を出してやろうと近付く。
けれど、俺の手が女に届くか届かないかの、その程度の距離。
剣が俺の体の横を通った。
「……っ、あ、兄貴!?」
「何で、お前が居るの?」
「ちょっと用事ついでに、……じゃなくて!あぶねぇだろ!もうちょっとで串刺しに、」
「する気だったよ。お前が彼女に触った瞬間にでも」
だって、可笑しいでしょ?
「私だけの為に存在する彼女が、私以外をその視界に納めて、声を聞いて、触れるだなんて」
考えただけで気が狂いそうになる……!
頭を抱えて振り乱す兄貴。
この男は下半身は緩いけれど頭は冴えた、俺の知っている兄貴なのかと疑問に思う。
「……――様」
「……なんだい?私の愛しいハニー」
「私は貴方を愛しています。私には貴方だけです。だから、この女性と何があっても構いません。その剣を納めてください。私は……部屋に戻りますから」
「そ、うだね。そうだよね!君は私だけの存在!こんな玄関まで君が来たから可笑しなことが起きたんだ。お仕置きしないと、ね」
「甘んじてお受けします」
兄貴の目にはもう、俺も、喚いていた女も、入ってはいなかった。
女の腰を蕩けるような顔で抱くと部屋へと向かう兄貴。
俺はところなさげに視線を彷徨かせる。
どうして今、俺は、胸が痛んだ?
女が兄貴のモノだと言った時、酷く胸が痛んだ。
どうしてか、なんて。そんなもの……。
(人妻に言えるわけねぇよな)
だからそっと蓋をしていた。
決して開かないように。
なのに兄貴がアイツを大事にしないから――!
「なァ?どうして抵抗しねぇの?」
「……どうして、でしょうね」
「お前、ずっと、俺のこと守っててくれたんだな……」
「なんの、ことでしょうか」
「……良いよ。俺、やっとわかったから」
お前に守られていたんだと。
お前が身を呈してまで、兄貴から俺の命を守ってくれていたんだと。
「助けてやれなくて、悪い……っ」
「……最期が、貴方の腕の中で、私はとても、うれしいです」
今にも閉じそうな瞳。
背中に手を回して抱き起こしている、その腹には、鋭い剣。
兄貴は既に絶命している。
俺が殺したようなもんだ。
女と二人きりで居るのを見ていた兄貴が、その腰の剣で女を刺し、自分の首も掻き切った。
女は虚ろな眼差しで、俺を見ながら言う。
「やっぱり、うんめいからは、のがれられませんでした……」
「運命?」
「あなたと、あかいいと、つながっていたのに……」
「何言って?」
問い返して、けれど答えは返ってこなかった。
瞑られた瞳を飾る、銀の睫毛は涙に濡れている。
それを見て、俺はそっと呟いた。
「俺、お前のこと――」
その一言を言っていたなら、何かが変わっていたのだろうか?
「名前すら、知らないのになァ」
ツゥ、と流れた涙はぽたりと女の人形のように白い頬へと落ちた。
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