∵マテリアルワールド
球体のこの世界には海ばかり広がっていて、私が立っているこの陸地は全体のほんの何割かに過ぎない。 それなのに。
積まれた書類の山の陰に、古びた地球儀を見つけた。
「埃っぽい」
向かいの席に座って、黙々と作業を進めていたシカマルがその手を止める。
「なんだよ?」
かさばる紙によって隙間なく埋め尽くされた机の上に、地球儀を運んだ。 シカマルは無言で机上の書類の山を寄せて、地球儀ひとつぶんの余地を作る。 彼のこういった口調と行動の温度差はいつも心地よかった。
「どうすんだよ、こんなの持ってきて」
眉間の皺が濃くなる。 元々細い一重の目が更に吊り上って見えるのは、決して機嫌が悪いせいではないのだと気が付いたのは最近になってからだ。
「どうも?」
くるくる、と形容するには古すぎる地球儀の回転は、螺子が錆びているのか時折濁った音を立てる。 よく見れば描かれた国の幾つかは風化によってその国土を失っているものもあって、戦争で簡単に消えていく命を連想させた。
「今すぐにどこへでも行けるなら、どこがいい?」
亜米利加、仏蘭西、露西亜。 馴染みのない漢字表記は新鮮で、うまいこと当てはめたものだと感心する。
「俺はここから出る気にならねぇ」
用足しですらめんどくせぇんだ、と欠伸をしながら言った。 どこまでも夢のない男は、どこまでも純粋にこの里を愛している。
「期待通りの回答でうれしいわね」
真顔で言うと、うるせぇと額を弾かれた。 手加減した指先から生まれるのは戦略だけではないのが本当で、その優しさをもっと多くの人が知ってしまえばいいと思う。 そして私の隣に留まる時間すらなくなって、私の甘えが許されなくなればいい。
「で?」
「なに?」
今度はシカマルが地球儀を回す。 また、濁った音が部屋の中を支配した。
「どこ行きてぇのかって話」
頭の中で世界地図を広げて考えた。 世界には底の見える程透き通る海があるらしい。 鉄の刺繍と呼ばれる鉄塔があるとも聞いた。 本当なら一度はこの目で見てみたい。 私の行きたい場所。
「私は、」
無駄に回る地球儀。 行き先は言えなかった。 もしも今、あの人がここに居たなら、きっと笑って言えただろう。 けれどここには居ない、それだけが事実だった。 求める場所はひとつきり、あの人の居るこの世界のどこか、だ。
「………愚問だったな」
少し居心地の悪い顔をして、シカマルは作業を再開した。 私はそんな表情に気が付かない振りをして、地球儀を回し続ける。
「地球ってほとんど海で、たったこれだけしか人の住める場所なんてないのに、」
回転を止めて触れたのは一面の青。 そこに彼が居ないことだけが確かだった。
「どうして会えないんだろうね」
「どうして居場所もわかんないんだろうね」
独り言のように私だけが話していた。それでよかった。 何も言わないシカマルの優しさがいつかのあの人と重なって、ほんの少しだけ苦しかった。 増えていくいつかの姿だけが、今も私を生かしている。
地球儀が、海が、陸が、歪な音を立てて回っていた。
(20120202加筆修正)
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