∵モンスター級ロマンス

老後は何も考えずに過ごしたい。
腐敗する政治だとか、対花粉の高機能マスクだとか、一階の自動販売機へ向かうのが億劫だとか、そういった煩わしい日常をこの地に捨て去って、一人の世界に没頭する。

夢というには物哀しいが、現実にするには困難だ。





「サースーケー君ー」


わざと間延びさせた声で名前を呼ぶ、こういう存在が自分のささやかな夢を遠のかせる一因だった。
そんな風に甘ったれた声で表現されるために与えられた名ではないので、聞こえないふりをして目を閉じた。



「寝てる?あ、今日は天気が良いからご機嫌斜め?」



「ご機嫌斜め?馬鹿か」



なんだ起きてたの、と一度目の無視を全く気にも留めず笑っている。
最後まで返事などしなければよかった、と猛烈に後悔したが、そうしていたところで一人で話し続けるに違いなかった。
サスケ君に話しかけている事実に満足してるの、と気味が悪いほど真剣な目で言っていたのを思い出した。



「花粉症って大変ね、こんな日に苛々して」


「苛々してるように見えるなら、原因はお前だ」


「そういえばね、いいものを持ってきました」


「…お前絶対そのうち刺されるぞ」



サスケ君になら刺されてもいいかな、あエッチな意味じゃないからね、と言いながらバッグの中を探る横顔を思い切り蹴飛ばしてやりたい。
真っ当な教育を施してくれた両親と兄に、感謝した。
そうでなければ迷うことなく椅子から立ち上がり、奇妙な色をした髪を鷲掴みにしていた。



「これです」


「なんだよ」



黒い筒が机上に置かれていた。
その隣には白地に花柄がプリントされた小さめの筒。

見ればそれが水筒であることは分かるので、確認したかったのはその中身と意図だった。



「シジュウム茶よ。別名、蕃石榴。グアバと言えば分かりやすい?強い太陽光と激しいスコールのもとで逞しく育つバイタリティ溢れる木からとれる葉と果実で出来ています。主な成分は食物繊維、各種ビタミン、カリウム、鉄、ナトリウ、」


「分かったから黙れ」



記憶力が優れているといえば聞こえは良いが、一つ聞くと十で返してくる彼女の癖は褒められたものではない。更に悪いのは、その膨大な情報量の中に求めている答えが含まれていないことである。



「ム」


「は?」


「ナトリウ、ム。最後まで言えなかったから補足」


「…蛇足に訂正しろ」



一時間しかない貴重な昼休みをくだらない掛け合いで終わらせるつもりは毛頭ない。
花粉のせいで調子の悪い喉を潤すには、一階まで行かなければならなかったし何よりまだ昼食も済ませていないのだ。



「サスケ君、毎年花粉で辛そうだから、花粉症に効くお茶を作ってみたの」


「は?」


「これ、サスケ君の分」



ピンクや水玉じゃ嫌だと思って黒い水筒も買ったのよ、と机上の筒を差し出す。
からん、と液体の揺れる音がした。

慣れた手つきで蓋を外して、そのままそこへ中身を注ぐ。
半透明の黄色みがかった液体が曲線を描いて落ちていった。



「はい、どうぞ」



笑って右手を差し出すものだから、条件反射で受け取っていた。
これでわざわざ一階へ降りる必要もなくなる。面倒なことはなるべく避けて通りたい。ただそれだけのことだ。



一口飲みこむと、やんわりと広がる甘さが口内を支配した。





老後は何も考えずに過ごしたい。
腐敗する政治だとか、対花粉の高機能マスクだとか、一階の自動販売機へ向かうのが億劫だとか、そういった煩わしい日常をこの地に捨て去って、一人の世界に没頭する。

その時山を眺める自分の隣に、湯呑を持つ薄紅色の髪をした老女が居てもいいような気がしてきたのは、喉の渇きがおさまったからだと思いたかった。


(20100310)