∵わるいのは、あなただ。

物事の美醜と善悪についてのみ言えば、愛することは常に美しく、正しかった筈だ。





もう何年も、それこそ毎日のように眺めてきた顔をサイは見つめていた。

こうして記憶していく彼女の表情も、あと三年経てば、もう何年も、やはり毎日のように眺めた顔に変わっていく。
振り向いた先は既に過去、と誰かが言っていたが、見つめた先も既に過去のようだとひとり物思いに耽る。


無言が続いても、居心地の悪さを感じるような関係では既になくなっていた。
だからというわけではないが、その言葉なき空間を引き裂くのが突拍子もない台詞だとしても、互いに遠慮はいらないとも思っている。




「もう誤魔化しの効かないところまできてるって知ってた?」



とは言えあまりにも突飛な話だったかと、サイは話の続きをすべきか否か逡巡していた。
アイスティーにミルクを注ぐ手の動きを止めて、サクラは訝しげに目を細めている。



「何の話なのか先に説明して」



尤もな返答しか寄越さないサクラに、続きを促された気になった。
ならばいいかと、思いついたそのままを滑らかな口調でもって告げていた。



「物事の美醜と善悪についてだよ」


「そこに至るまでの過程を話せって言ってるんだけど」



あんたの沈黙は時々恐ろしい、とサクラは眉根を寄せる。
回るストローの動きに合わせてグラスの中の琥珀色が白く濁っていった。




「サスケ君が戻ってから随分と経つけど、君はあまり変わらないと思って」

「いや、君たちは、と言う方が正しいかな」



一度、二度、困ったように瞬きをしてからサクラは息を吐く。
君たち、と言ったサイの言葉が誰を指すのか分からない筈はなかったが、そこには敢えて触れずにいるようだった。



「変化が善だとは限らないでしょ」


「不変が善とも限らない」



任務の合間に一息つこうかと入った甘味処は、真昼間にも関わらず老若男女で賑わっている。
その片隅で哲学的な掛け合いをすることになるとは、サイ自身も予測していなかった。

目まぐるしく変わっていく周囲の光景に、ふと湧いた疑問を投げ掛けただけのことだったのだ。
昨日の夜に何を食べたかと問うような、それくらい安易な質問のつもりでいた。




「どうしたって君はひとりしかいないのに、サスケ君とナルトは別の人間なんだ」


「仰る通りね」


水滴の揺れるグラスを人差し指で撫でながらサクラは頷く。
飲む気はないのか、ストローはいつまでも口元と逆の方へ伸びていた。



「どっちを選ぶの」


「そんな権利、私にはない」



溶けた氷がバランスを崩す。
グラスの底に落ちた欠片が、からんと静かに泣いた。



「選ぶのは君だと、あの二人が思っていても?」


落ちた氷は、急速にその体積を減らしていく。
残されたもう一方は、他と溶け合いながら歪で巨大な一塊となった。
そのどちらもが、あらゆる哀しみの縮図のようにグラスの中でひしめき合っている。



「愛することは美しいって、僕が読んだ本には書いてあったけど、」


「けど?」



「君たちの関係は割りと醜いね」



必要悪、という言葉がサイの頭を掠めていた。
善ばかりでは成り立たない、たった三人だけの小さな世界を思う。
誰も悪にはなりたくなくて、誰も善にはなりたくない。
その感情の共鳴だけが、哀しい不変を作り上げている。




「誰かを愛したことは?」



サクラがふいに顔を上げて問い掛けた。



「あるよ、勿論。対象は君であって、ナルトでもあって、この里でもある」


そういう意味ではサスケでさえもその対象であると言っても良い、と余談程度にサイは付け加えた。



「それは善の愛だから、わからないのよ」


「悪の愛があるの?」


「あるわよ、勿論」


少し前のサイの口調を真似て、サクラは断言した。



「愛せ愛せって言うけどね、あんたの言う醜さは、その愛から生まれたの」


くの字に曲がったストローの先を弄ぶ指先は、サイが出会ったことのない女のもののようだった。



「じゃあ君は、愛は悪だと言いたいの?」


「犠牲が必要な愛の場合はね」


犠牲とは誰のことかと問い質したら、サクラはどちらの名を口にするだろうか。
或いは、三人ともがそうであってそうではない、と中身のない台詞で結論付けるのだろうか。



「サクラ、」



揺れる翡翠の瞳に映る自身の顔を覗きながら、サイはゆっくりと口を開いた。
彼女が心の底から欲していた言葉だと知っていながら、こうして与えてしまうのは、善き愛なのか、悪しき愛なのか。





「わるいのは、あなただ」



知らない女を見る目で告げたサイに、サクラは満足そうに微笑んでいた。


(20110816 for the greatest project 追憶)