∵記憶の不具合

失った視力に未練はない。
この先この目に映したいと思えるような尊いものは、もう現れないと確信していた。
思えば失ってばかりの人生だったと、年老いた者のような気分で溜息を吐く。


「大丈夫?」


深い呼吸に反応してか、サクラは不安げにこちらを見ていた。
見ていた、のだと思う。
実際にはその姿を映すことが出来ないので確認のしようがないが、こと彼女の一挙手一投足に関しては目に見えなくとも分かる気がしていた。


「何でもない。気にするな」

「だったらいいんだけど…」


徐々に消えていく世界に、まるで恐怖を抱かなかったと言えば嘘になる。
こんなことなら明日突然に死んでしまう方が、幾分かは楽だったのかもしれないとさえ思っていた。
下手に心の準備をする時間を与えられてしまった不運に、苛立ちもした。

ようやくこの目が何も映さなくなった日、日々の恐怖から解放される安堵の息を吐いたことを覚えている。


「さみしくない?」


何日かごとにやって来ては、必ずそう聞いてくるサクラの意図は掴めなかった。
物理的に独りきりになったわけではないし、何よりたとえそうなってもさみしいという感情はもう湧いてこないと思った。


「お前が思うよりずっと快適な生活だ」


なぜそんなことを聞くのかとは言わなかった。
ただ、否定も肯定もない返答だけで会話を繋いでいる。


「そう、」

「それは、さみしいね」


誰がとは一言も口にしなかったが、恐らく本当にかなしみを抱きかかえているのは自分ではなく彼女の方だ。



「あのねサスケ君、わたし随分と髪も伸びたの」

「リップの色も変えてみたんだ」



それは何の意味もない日常の切れ端のような話だ。
にも関わらず、サクラの声は僅かに震えているようだった。


彼女の些細な変化に、すぐに気付いてやることは出来ない。
どう足掻いても、この目はもう何も映さないからだ。



「サクラ、」



呼び掛けられて、こちらを見つめているだろう彼女の輪郭を掌で探る。
温かな頬を滑り落ちると、手の甲は真っ直ぐに伸びた髪を掠めた。



「髪の長さくらい触ればわかる」

「唇の色はわからなくても、体温は感じる」


「何か不満があるか?」


音のない空間に、強気に出過ぎたかと少し不安になる。
不満だらけだと言われても、それを覆せるだけの武器は持っていなかったので、仮に、もし万が一にでも、彼女がそう言ったならどうしたものかと嫌な汗が滲む。


うんともすんとも言わないサクラが、この時懸命に首を横に振っていたことは知りようがなかったからだ。


ただ、小さな振動でもって空気を震わせたサクラの声がありがとう、と告げた。

その一言が、どうしてなのかひどく心を満たしていく感覚を生んだので、視力を失ったことを初めて悔やんだ。

泣きながら笑うという器用な表現をするサクラの、恐ろしくかわいくないであろう顔を最期に刻んでおけば良かった。


視力を失くした日の朝に、笑顔だけ覚えていて、と無理に笑ったあの表情よりもずっと愛しく思えたに違いないのだから。


(20110105)