∵時に理性を超えて

僕はひとの心というものをよく知らないし、それはある種空想のようなものだった。
だから仮に僕の体の中心に何かが生まれても、それに名前をつけることができないのだ。






「最近絵を描かないのね」


ここ最近アカデミーの図書館に足繁く通っている。
心理学の書籍を集めた棚と、机の往復ばかりを繰り返し、黙々と活字を追っていた。

初めの頃は知りようもなかったが、名前と同じ髪色を持つ彼女もこの人気のない図書館の常連だった。
週に一度は必ず顔を合わせるようになり、いつしかそれは週に二度、三度、と回数を増やしていった。
尤も、明日もここで、などという約束じみた台詞は一度も交わしたことがなかったし、
こうして今、肩を並べているのも偶然でしかない。

そうして会話などほぼ存在しないまま日が暮れるまで読書に耽るのが常だった。
だから、彼女が冒頭の問いを発したことに少なからず動揺していた。



「…そうですね、最近はあまり」

「“愛する心”は理解できた?」



手にしていた本を一瞥して彼女は言った。
ハードカバーの表紙に明朝体で書かれたタイトルは、愛する心。


「いいえ、全く」

「本を読むより手っ取り早い方法があるわ」

「例えば?」

「愛せばいいのよ」



簡単でしょ、と彼女は白い歯を見せて笑った。



「予想通りの回答をどうも」

「なによ、馬鹿にしてるの?」

「まさか」



もういいわ、と時計に目をやって席を立つ彼女を黙って見つめる。
どこを超えたら愛と呼べるのか、誰を想うことが正しい愛の形なのか、問い質したところで虚しくなるだけだ。



「それじゃあ、そろそろ行くわね」

「気をつけて」


ゆっくりと図書館を後にする背中を見て、その頼りなさに不快感を覚える。
外を見れば既に辺りは暗くなっているし、街頭のない道も少なくないことを知っている。


ひとつ溜め息をついて、まだ近くにいるだろう桜色の髪を探した。
青白い蛍光灯に照らされた後姿は、戦場で見るよりもひっそりとしていて、奥に潜む暗闇に跡形もなく吸い込まれていきそうだ。


消えてかけた背中に声をかけると、彼女は静かに振り向いて笑う。
二人を繋ぐ直線の先に、ぼんやりと明かりが灯ったような錯覚を見ていた。


(20081101-20110929加筆修正)