産毛のような柔らかな黒髪を撫でると、掌の持ち主を探すように幼子は両目をぐるりと動かした。
漆のような髪と瞳の色は、間違いなく自身の遺伝子を受け継いでいる。女児であることを聞かされてから、どこかで母親の生き写しのような子を想像していたせいか、産まれたての姿を見た瞬間は僅かに驚いた。
薄く開かれた瞳の色を確認した時、込み上げてくる愛しさに言葉を失った。こんな風に無条件に、何の理由もなく愛しいという感情が湧いてくることを初めて知った日だった。




「あれ、サスケくん帰ってたの?」
「ああ…今日は報告だけ済ませて終わりだったからな」
「自分の家に帰る時くらい、気配なんて消さずにいたらいいのに」

おかえりくらい言わせてよ、と不満そうな顔をするサクラには、それもそうだなと同意してみせたものの、癖を通り越して既に自覚すらしていないのだから今更どうこう出来るものでもないだろうと思う。
声を張り上げて帰宅するような夫にも父親にも、恐らくなれはしない。手放しで迎えられることに、未だ慣れていないのだ。それでも、身に付いてしまった癖と同じように何もかもが当たり前になる日がやがて訪れる。そういう家族の形があっても良いのだという、いつかのサクラの言葉がそれを明確に信じさせた。

「良い子にしてるね」
「あぁ」
「サスケくんが居るってわかるのかなぁ」

蕩けそうな微笑みを浮かべて、サラダの頬を撫でるサクラの爪は短く切り揃えられている。桜貝のような指先がふっくらとした頬を行き来する様を、何時間でも眺めていられる気がした。いつまでも、それこそ命尽きる瞬間まで、こうして大切なものだけを傍に置いて生きていけたらどんなに良いだろう。誰もがそうしていられる為に明日からも家を空けるのだと、分かってはいても後ろ髪を引かれる思いが消えることはない。

「もっと、」
「え?」
「もっと、お前に似ていたら良かったのかもな」

髪の色や瞳の色が母親譲りの方が良かったと、思春期を迎えた我が子は思うのではないだろうか。彼女を縁取る花々のような色彩は、贔屓目なしに美しいものであったし、サラダの白い肌にも良く映えたことだろう。

「私は、この真っ黒な髪と目が好きだよ」
「まだ赤ちゃんだけど、きっとサスケくんに似て綺麗な子になると思うなぁ」

ね、サラダ、と言ったサクラの声に、娘は言葉未満の声を上げて反応した。まだ何も紡げない赤い唇を忙しなく動かしている。

「あっという間に大人になって、素敵な人と結婚して、」
「結婚?」
「いつかの話よ。…サスケくん、もしかしてもう妬いてるの?」

そうじゃない、と咄嗟に否定をしてみても、サクラは口元を緩めたままだった。
サクラの両親に挨拶をしに行った日のことがふいに思い出される。あの時、義父はどんな思いで娘を宜しくと口にしたのだろう。普通とはとても言えない生い立ちの無愛想な男を、嫌な顔ひとつせず迎え入れた義父の懐の深さには、改めて頭を下げたい思いだった。

「サスケくんは、もうお父さんなんだね」
「…当たり前だろう」
「そっか、当たり前か」

ソファの背もたれに置いていた手を離し、サクラはサラダを抱いて隣に腰掛けた。
母親の温もりに触れた娘は、ひどく満足気に目を閉じている。眠るのだろうか。まだ暫く、この黒目がちな双眼がくるくると動く様を見ていたかった。

「私はね、サラダがお腹に居る時にはまだお母さんじゃなかったと思うの」
「サラダが生まれて、毎日少しずつ、お母さんにしてもらえてる気がする」

全部サラダのおかげだね、とサクラはぎゅうと腕の中の子を抱き締めた。そんなに強く抱いたら死んでしまうんじゃないかというこちらの心配を余所に、サラダは閉じていた瞼を開けて笑っていた。両手を合わせたり広げたりして、時折高い声を上げて笑う姿には、母親の愛情を一身に受けて健やかに育っていく未来を、簡単に信じさせてしまう力がある。

「いつかサラダに私たち以外の家族が出来たら、」
「当分先の話だな」
「まぁそうなんだけど、でも必ずその時は来るでしょ?」
「別に来なくても構わないだろ」
「やっぱり妬いてるんじゃない」

サクラの腕の中から、こちらへ向かって腕を伸ばすサラダに手を差し出すと、人差し指に絹のような五本の指が巻き付いた。
サクラに茶化されて出来上がった眉間の皺が、その小さな指によって解かれていくのが自分でも分かる。

「…私の方が妬けちゃうなぁ」
「何の話だ」
「ねぇ、サスケくん」

一人分の隙間を埋めるようにサクラは一度ソファから立ち上がり、ぴったりとその体をこちらに寄せて座り直した。


「さっきの続きなんだけど、いつかサラダに家族が出来たら、その時はお父さんを引退して、また私の旦那さんに戻ってくれる?」


ちらりと見つめてくる碧い双眼には、言葉を詰まらせた自分の姿が映り込んでいる。答えを急かすようにサクラは二度、瞬きをした。

「…考えておく」

返事は半世紀後でも大丈夫よ、と微笑む彼女は、本当に待つのが得意らしい。言葉にするのが半世紀後になったとしても、答えは既に決まっていた。これからの五十年に思考を巡らせ、すぐ隣にある薄紅色の髪に触れると、サクラはその表情をゆっくりと緩ませた。花が綻ぶようなその姿に、娘が自分に似ていて良かったのかもしれない、と思い直す。彼女の生き写しのような子だったら、余計に手離せなくなってしまいそうだったからだ。

自嘲して溜め息を吐くと、こちらを見上げるサクラの瞳と視線がかち合った。なんでもない、と瞼を閉じながら、子どもじみた考えにも蓋をする。
半世紀経ったら正直に話すと約束しよう。今はまだ、父親としての威厳を守らせて欲しかった。




時間よ止まれ
(20150610)


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