同じ家で生活をしてみて、サスケ君について知らない事が思いのほか多いことを知った。気付いた時には、サスケ君のことを好きな自分が当たり前になっていて、事実でも噂でも、彼に関する事柄には常々敏感に反応していたつもりだったのだ。
新聞をめくるサスケ君の背中を眺めながら、この家に来てから気付いた彼の癖や行動について、ぼんやりと思い返してみる。
たとえば、私が作る簡素な食事に箸を伸ばす前。サスケ君は必ず両手を合わせて、いただきますと小さな声で言うのだった。それは、並べられた料理の方が恐縮してしまうような丁寧さで、その仕草に見合うものを食卓に並べなければならないなと毎度私を奮起させた。
旅をしている最中でも、彼はこうして両手を合わせていたのだろうかとふと疑問に思う。欝蒼と生い茂る木々の根元、立ち寄った宿屋の一室。どんな場所であっても祈るように目を閉じる姿は、きっとただの流れ者には見えなかっただろう。気品というものは、その人が意識せずともひとりでに滲み出てくるものである。
伏せた目と、ぴたりとくっつく白く骨張った十本の指。私はそれを眺めるのが好きだった。
好きなところを挙げていったらきりがないのだけれど、寝食を共にするようになってから、ほんの僅かに空いた時間もこうしてサスケ君について考えを巡らせることが多くなった。近くに居ると煩わしさが生まれてくるものだと聞いていたのに、一向にその気配は訪れない。何せ起きがけの後ろ姿までこの胸をときめかせるのだから、お墓に入る時にもこの動悸を忘れることが出来ずに目を覚ましてしまいそうだった。
困ったものだな、とひとつ息を吐いたところでドリップしていたコーヒーが最後の一滴を落とし終えたので、マグカップを両手にリビングへ移る。

「どうぞ」
「ありがとう」

読んでいた新聞から視線を上げて、躊躇いもなくありがとうと告げたサスケ君は、マグカップを引き寄せて熱いコーヒーを一口啜る。
サスケ君の言うありがとうは、私にとってとてもとても大切な意味を持つ言葉だった。
私の居ない場所でも彼はこうしてその一言を何とはなしに口にしているのかもしれないけれど、止めどなく溢れ出てくる欲張りな心は、それを少しだけ淋しく感じている。サスケ君のありがとうを、自分だけのものにして未来永劫閉じ込めておきたい。黙々と新聞を読むこの人は、そんな私の馬鹿げた考えなど知る由もなく有意義な朝を過ごしている。

サスケ君の視線がほぼ真下を捉えた時、顔の傾きに追従した黒い髪がさらさらと落ちていった。鬱陶しそうに眉根を寄せると、サスケ君はその黒い髪の束を人差し指と中指で耳元へ寄せる。
読み物をする時やキッチンに立つ時には邪魔になるのか、長く伸びた前髪が無造作に耳に掛けられているのを度々目にした。
稀に重なる休日はどこへ行くでもなく二人で本を読むことが殆どで、同じタイミングで髪を耳に掛けてしまうこともあった。お揃いだね、と笑ってみせると、百年の恋が更に百年燃え上がりそうな微笑みを、そっと返してくれるのだった。

「サスケ君、今日は遅くなるんだっけ?」
「ああ。日を跨ぐだろうから、待たなくていい」
「うん、わかった」

帰りが遅くなる日には、彼は決まって待たなくていいと言うのだった。とは言え、任務帰り満身創痍で帰宅するサスケ君に、私はどうあってもおかえりなさいを伝えたかった。わかったと素直に聞き入れた振りをしても、実際に先に寝室へ入っていることは殆どない。十年後も同じようにしていられるかどうかはわからないけれど、今はそれが唯一完璧にこなす事の出来る役割であるような気がしている。

テレビ欄を数秒眺めてから、サスケ君は新聞を二回折り畳んでテーブルの上に置いた。テレビ欄なんて本当は全く興味がない筈なのに、全てに目を通さなければ納得できない人なのだ。最後の数秒は必ず番組名が羅列されたページを上から下へ滑るように眺めるのだった。こんな風に隅々まで目を通す読者が居て、新聞社も苦労の甲斐があるだろうなと他人事のように感じている。

「絡まってるぞ」
「え?何、」

正面から伸びてくる掌が、そっと私の髪に触れた。頬杖をついたまま視線を上へ戻すと、不意に目が合ってしまい何だか気恥ずかしくなる。
サスケ君が得意とする主語のない一言について逡巡する間もなく、彼は絡まり合ってしまった私の髪を指先で丁寧に梳かしてくれていた。
いつも整った髪で居ることよりも、美味しいコーヒーを朝一番に淹れることの方が大事になって暫く経つけれど、まさかこんなご褒美があるだなんて思いもしなかった。

「ありがとう」
「あぁ」

サスケ君みたいな髪質だったら人生もっと違ってたかもしれないなぁ、とぼやけば、髪の毛ごときでお前の人生は左右されないだろ、とサスケ君はすっと目を細めた。それは確かにたかが髪の毛ではあるけれども、されど髪の毛でもあるわけで、女の子にとって髪の毛というパーツは比較的重要なポジションを陣取っているものなのだった。

「十年前は毎朝ブローのことばっかり考えてたのよ、私」
「そしてナルト以下だと罵られた」

サスケ君は少し意地の悪い顔をして笑っていた。きっと今、彼の頭の中ではまだ幼かった私がハートマークを乱射する姿が再生されているに違いない。人の記憶に干渉できる筈もないのに、今すぐにサスケ君の脳内に侵入して、幼い私の口を塞ぎたかった。恥ずかしい。入る穴もないリビングでは、苦し紛れに彼から視線を逸らす程度のことしか出来なかった。

「……くだらないことばっかり覚えてる」
「俺は記憶力の良い方なんだ、諦めろ」

サスケ君の記憶力がとても優れていることなんて、とうの昔から知っている。過去となった失態をこんな風に笑われるとは、あの時は勿論想像もしていなかったけれど、もう二度と馬鹿なことは言わずにおこう。この先の十年の為、そう肝に命じておく。

「サスケ君、私ね」
「何だ?」
「サスケ君の為にしか生きられないんだなって思ったの」

漆のような双眸を僅かに揺らしたサスケ君は、静かに私の話に耳を傾けている。机上のマグカップからは、湯気はもう消えていた。或いは、既に空になっているのかもしれない。二杯目のコーヒーの用意はあと少しだけ待ってもらって、私は話を続けることにした。

髪の毛と恋の為に生きていたのが十年前。髪の毛と恋を失って、強くなる為に生きていたのが五年前。人が変わったかのようなこの方向転換を、成長と呼ぶ人も居たけれど、本当はその点と点は星座のように繋がっている。繋がっていることでようやく意味を成すのだ。
輝きを放ちながら、いつまでも私の心を照らしてくれる不動の星。

「十年前も五年前も、私が何かに夢中になる理由はいつもサスケ君だった」

今はサスケ君で満たされていく時間が、私の手足を動かしている。
彼に褒めてもらいたかった長い髪の私と、彼を連れ戻したかった傷だらけの私、それぞれの費やしてきた時間が急速に報われていくような毎日だった。

「だから、これからもよろしくね」

手を差し出して笑いかけると、サスケ君は僅かに戸惑いを残したまま私の左手を握り返した。私の手よりも少しだけ厚みのある、優しい掌だった。その温もりは手首を過ぎて肩を通り、首筋と耳朶を通過した後、私の頬を終着点に動くことを止めた。
あまり自発的に触れてくる人ではないというのに、なんだか今日は珍しいことがよく起こる。どうしたのと聞いてしまえば、その手はそそくさと引き戻されてしまうに違いない。だから私は何も言わず、サスケ君の掌に頬を寄せた。瞬きによって閉ざされていく視界が、皮膚から伝わる温度をより鮮明にする。

「それは俺の台詞だ」

そうして聞こえたサスケ君の言葉を合図に再び瞼を持ち上げると、視線がかち合う寸前で逸らされてしまった。離れていくサスケ君の掌は名残惜しかったけれど、観念して腰を浮かせれば、空になったマグカップがこちらを見上げていた。
いつもより遅い朝、サスケ君が家を出るまであと一時間。二杯目のコーヒーについて思案しながら、私は急ぎ足でキッチンに向かうのだった。




不動の星
(2015124)


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