※699話の内容を含みますので本誌未読の方はご注意を※





目の前に立つサスケ君は、本当に立派な男の人になっていて、まるで近所のおばさんのような感覚で、大人になったなぁ、なんてひどく間の抜けたことを考えていた。

「お、おかえりなさい」
「…あぁ」

ただいまとは言ってくれないのかと、僅かな寂しさを覚えたのも束の間。突然の再会に、ようやく情報処理能力が追い付いてきた。

回された書類に目を通した後、目に余る誤字脱字の多さに腹を立て、文字通り鬼の形相で訂正を加えたのが半刻ほど前のことだった。
既に対火影専用となった赤いボールペンは、そのインクを出し切る勢いで書類の上を滑っていく。そうしてほとんど真っ赤に染まった紙の束を抱えて、火影室に怒鳴り込んだのが、今である。
ここまでの経緯をなんとなく整理してみたところで、彼の突然の帰郷を推測できたかもしれない事柄は一切見当たらなかった。
見慣れた扉の奥に、サスケ君が居るだなんてことは、本当に、微塵も、予想だにしていなかったのだ。

「えっと、今日はその、どういったご用件で?」

とはいえ、会話の始まりとしてこれは如何なものか。不動産屋じゃあるまいし、久しぶりに再会した思い人を前にここまで情緒のない台詞をぽろりと吐いてしまう程度には、私はとにかく盛大に混乱していた。
部屋に入るまで付けていた鬼の形相という仮面を、咄嗟に取り外すだけで精一杯だったのだ。もっとゆとりのある見方をすれば、そう出来ただけでも御の字である。


「お前に会いに来た」
「あ、そうなんだ」
「あぁ」


いつ戻るかもわからない旅に出たあの日、また今度と言ってくれたサスケ君と同じ顔をした男の人が、私に会いに来た、と笑っている。私に会いに来たのならば、ここに居るのも確かに頷けた。私は今も変わらずこの里で忍を続けていたし、吐き気と頭痛に魘されるほどの努力もして、それがそこそこ認められつつあって、時々はサスケ君は今頃どこに居るのかなぁなんてセンチメンタルに浸ってみたりして、それで、そのサスケ君が私に会いに来たと言って、目の前で幻術と見紛うような微笑みを浮かべていて、それで。

「え?私?私に会いに?」
「そうだ」

どうやら本当に私に会うことが目的だったようだ。こころが心臓にあるなんて信じてなかった。人は目で見たものの情報を頭で処理し、善悪も是非も、判断するのはいつだって脳だ。サスケ君に会いたかった私のひび割れたこころに、純度100%の水が沁み渡る。それと同時に、鼓動は加速していった。少なくとも私のこころは、どうやら心臓にあったらしい。
ただし、これまでの経験上、サスケ君の言葉に深い意味を持たせてはいけないことも私にはわかっていた。サスケ君にとって、私を含む元第七班がとてもとても大切な存在であることも、知っている。
私が特別なわけではなくて、特別という円の中にたまたま私という点が存在しただけのことだった。哀しいけれど、それが真実だ。
私に、というのはちょっとした表現の違いで、正しくは「私(も含めた皆)に会いに来た」なのだ。そうに違いない。


「それで、ナルトやカカシ先生にはもう会った?」
「ここへ来る前に少し話した」
「少し?そうなの?サスケ君、いつまで木の葉に居られるの?今夜はみんなでご飯とか、」

取り出せるだけの疑問符を投げ飛ばす私の言葉を遮るように、サスケ君はサとクとラという音をその美しい唇から発した。サとクとラという音とはつまり、私の名前だ。

「サクラ」

私の動きを止めるにも、思考を止めるにも、その一言は十分な効力を発揮する。ずっと昔からそうだった。他の誰が呼ぶのとも違う、艶のある低い声で紡がれる私の名前。糸が切れた人形のように、胸の前で交差していた両腕が落ち、私の指先は重力に従って火影室の床を指していた。

「は、はい」
「俺はこれから家に帰って、あの部屋を人が住める状態に戻そうと思う」
「え、じゃあサスケ君、もしかして」

「帰ってくるのね!」

手にしたままの書類を、思わず握り締めてしまったが、そんなことはもうどうだって良かった。元々、ミミズが這ったような文字を赤いインクで塗り潰しただけの紙っぺらだ。もはや価値を失ったその紙の束を執務机の上に置き、私はサスケ君の方へ視線を戻す。
手伝ってくれるか、と控えめに聞いてくる姿がなんとも愛おしくて、首が千切れる程に大きく頷いてみせた。

「草取りでも害虫退治でも、何だってやるわ!力仕事だってきっとその辺の男の子よりも立派にこなしてみせるから、心配しないで!」
「いや…とりあえずは人が二人、住めるようになれば良い」

人が二人、という意味深な言葉はこの際聞き間違いということにしておこう。根掘り葉掘り聞いたところで、サスケ君はきっと真意を濁す。そしてそれ以上に、サスケ君以外のあと一人が一体誰なのかを知るのが怖かった。彼の帰郷に湧き上がっているこの感情を、自ら地に叩きつけるような真似はしたくない。
きっとそう遠くないうちに、風の噂で耳にすることになるのだ。その日の為に、今は心の準備と、サスケ君に贈るべき言葉について熟考する時間が出来るだけ長く欲しかった。

「それじゃあ早速、行こっか?」
「……」
「サスケ君?」
「…ちゃんと分かってるのか?」
「人が二人住めるように、サスケ君の家を掃除する」
「人が二人だ」
「人が二人、ね」

一体何を確認したいのか全く以って読み取れなかったが、とにかく私が今すべきことは、余計な詮索をせずにサスケ君の望みを叶えることだ。思えば、彼からまともな頼み事をされたのはこれが初めてかもしれない。今日は本当に素晴らしい日だった。サスケ君がどこぞの女の子と一緒に暮らしているらしい、と風の噂で耳にする日が来るとしても、今日の思い出で当分は笑っていられるはずだ。あなたがサスケ君と幸せに暮らしているその家は、私が綺麗にしてあげたのよって、嫌味のひとつくらいは言ってしまうかもしれないけれど、その程度は許して欲しかった。
だって、私の初恋は今もまだ息をしている。あと数秒後には魂ごと消えてしまいそうに息も絶え絶えな初恋とはいえ、まだここで呼吸をしているのだ。

なんだかやけに視界がぼやけるなぁと目を擦ると、決壊したダムの如き勢いで両目から涙が溢れ出していた。
目の前で突然泣き出した私を、サスケ君はエイリアンでも見ているかのような顔で眺めていた。多分この後、彼は私に背中を向けて、振り向き様にウザいとか何とか吐き捨ててこの部屋を出て行く。どうせ似たような結末なら、この際聞きたかったことを聞いて、当たって砕けるのが良い。砕け散った私を、そのうち誰かが組み立て直してくれるだろう。そして、きっとその誰かは、私のこころを潤して、満たしてくれる素敵な人に違いない。初恋に、二度目の恋が上書きされる日を待つしかないのだ。
そんなことを考えていたら、ますます自分が惨めになって、もうこころが望むままに涙を流すしかなかった。
こんなに息が苦しいほど泣いたのは、本当に久しぶりのことだった。

「……サ、スケ君、そんな、二人って、一体どこの、女の子なの、」

止まらぬ嗚咽の合間にやっとの思いで単語をはめ込んで、手の甲で右目を拭う。左目に映るサスケ君は、なぜだかひどく呆れた顔をしていて、ついでに眉間の皺が三本に増えていた。

「お前は本当に…全く分かってない」
「だって!突然帰ってきたかと思えば、同棲とか?分かれというのが無理な話よ。一体相手は誰なの?私にだって、それくらい知る権利が、」
「サクラ」

まただ。さっきまで魔法のように思えていたこの声が、今は呪詛にしか聞こえない。私の言葉と動きを奪う、恐ろしい呪い。サスケ君が何を言おうとしているのか、知りたいのに知りたくなくて、目も耳も塞ぎたくなる。
そんな私のジレンマなど露ほども気付かず、サスケ君はさっさと答えを出してしまった。

「俺と、お前が、住むための準備だ」

へぇそうなんだおめでとう、と開きかけた口を思い切り閉じる。かちりと歯が鳴った。こんな時に返す言葉は考えていなかった。こんな時がやってくるとさえ思っていなかったのだから、当然だ。

「あの、一応確認するけど、オマエさんっていう名前の人のことじゃ、」
「ない」

最後まで聞くことすらせず、サスケ君ははっきりと否定した。
可能性をひとつひとつ潰して、もう答えはこれしかないだろうと思えなければ進めないのだ。とても遠回りな作業だけれど、そうさせたのはサスケ君だった。

「りょ、料理はまだ勉強中です」
「問題ない」
「寝相も良くないかもしれないし、」
「落ちないようにしてやる」
「疲れてお風呂で寝たりするし、」
「溺れる前に引っ張り上げれば良い」

サスケ君が前言撤回しうる可能性を列挙しても、数を数えるのと同じように滑らかに答えが返ってきてしまう。本当は、膝を抱えてこの喜びを閉じ込めて噛み締めて、消えてしまわないうちに私のものにしたいのに、そうしなくても良い程に確かなものが欲しかった。

「サスケ君から、ただいまを言ってもらえる人に、なりたかったの」

遠い昔に失くしてしまったその一言を、もう一度サスケ君の元へ戻してあげたかった。どんなに長い時間を要しても、いつかサスケ君が呼吸をするようにただいまと言えるものに、なりたかった。何に代えても、そうなりたかったのだ。そしてそれが、私の初恋の形だった。

「そうか」
「そうだよ」
「……ただ、いま」

不恰好に息継ぎの入ったただいまは、サスケ君の唇を動かし、空気を震わせ音になり、私の鼓膜にようやく届いて、それからこころに、深く深く沁みていった。サスケ君が巡ってきた世界中のどこにも、きっとこんなに素晴らしいものはなかったに違いない。だから、長い長い旅の最後に辿り着いた場所がここで良かったと思う。サスケ君の瞳が見てきたどんなに残酷な現実も、きっと今、救いをみつけている。美しく穏やかに細められた両目が、そのことを教えてくれた。

「おかえり、サスケ君」

ようやくあなたに、届いた。




シースルーハート
(20141230)


- ナノ -