私は猫だった。
かの名作の模倣ではなくて、唯一間違いのない事実を述べている。
神がこの身体に特別な能力を与えたとしても、まず最初の一言は、冒頭の台詞に違いない。
吾輩であっても、私であっても、猫であることに変わりないのだ。


さて、その私という猫は今、煉瓦色の毛で覆われた三角の耳をぴんと張り、湿った鼻先でアスファルトに触れて歩いている。
生ものの腐敗した臭いが充満するこの裏路地が、私の住処だった。
表通りにある飲食店が、毎晩大量の廃棄物を此処へ運んでくるお陰で、幸いにも食べることに苦労はしない。
食べることに苦労しないということは、猫にとってはそれだけで十分だった。
何より、裕福な家の飼い猫たちのように、趣味の悪い洋服を着せられることがないというのが野良の良いところである。



空気がしんと冷えて、いよいよ冬が訪れた或る夜、ひとりの人間が現れた。
暗闇から突然顔を覗かせたのは、翠色の目をした女。
寒くないの、と此方に向かって問い掛ける女の方が余程薄着で寒そうだった。
全身を体毛で覆われていることの暖かさを知らない人間たちは決まって同じ台詞を吐く。
可哀想に、と目を細めてみせるのは、自分よりも不幸な存在に安堵している証拠だ。掃き溜めを這い回る猫よりは幸せだと誰もが思いたがっている。
生物の数だけ幸福があることを、その時だけは都合良く忘れている。それが人間だ。

ぐぅと喉の奧を鳴らすと、大抵の人間はつまらなそうにして横を向く。かわいげのない猫、という台詞が、幾度となく投棄されていった。
人間の吐き出す負の感情までもがこの地に置いて行かれて、空気を黒く変えていく。けれどのしかかるその重たさには、やはりぐぅという音を出すに留まるのだ。それが私たち、猫だった。



女は立ち去る素振りも見せずに、それどころか腰を下ろして此方を見つめていた。
何の染みだかわからない変色したアスファルトの上に、平気の平左で座り込んで、膝を抱えている。
翡翠色の両目は、目尻が少しつんとしていて、私たちのそれと似た形をしていた。硝子玉のような目を暫く覗き込んで、飽きた頃には毛繕いに没頭した。


女は二言三言、ぽつねんと話していたが、やがてそれもなくなって、静寂だけが残った。
どれ程の時間がその静けさに支配されていたのか、時計を持たぬ私には知る術がない。
一分だったのか一時間だったのか、それとももっと長かったのか。
サクラ、という低い声が、残された静寂を奪って、掃き溜めに音を与えたことで、私は漸く時間の経過を知ったのだった。

サクラというのが女の名前らしいことは、声に反応して顔を上げた動作から窺い知ることが出来た。
ただ名前を呼ばれるだけにしては、妙に緊迫した感情が女の両目に表れる。
サスケ君、と女は呼吸音のように小さな反応を返したが、数歩先にいる男には恐らく聞こえていない。
通りの灯りを背にしていたせいか、男の相貌が明らかになったのは大分と距離が縮まってからのことだった。
縁起の悪い顔、とでもいうのか。
黒い髪、黒い瞳に黒い洋服を着込んでいて、街灯がなければ露出した肌だけがぼうっと浮き上がりそうな出で立ちだった。
腰を上げた女の正面に立った男から、巨大な影が伸びている。
女が持っていた柔らかな色が、一気に塗り替えられていった。
髪も、目も、今はただの闇。



この女は、破滅の道を往く。



動物的な勘。
そうは言っても、食べ物に困らないこの生活で殆ど失いかけている怠惰な本能だ。
僅かに残った第六感だけが、女の暗く淀んだ未来を告げていた。


水中を歩くような重たい足取りで男の方へ歩み寄る背中に、思い切り鳴いてみせる。
腹の底から、猫らしい音がした。
はっとして此方を見下ろした女の両目は、再び色を取り戻したが、それもたった一瞬のことだった。

付き合ってくれてありがとう、と目線の高さを合わせて言った後、不揃いな二つの影は街灯の中へ消えて行った。
互いに互いの手を握り合う後ろ姿が遠くなる。
繋がった指先から、女の色があっという間に浸蝕されていく。
隣を見下ろす男の黒い瞳に、女の瞳の色が写り込んだのも束の間、やがて漆黒がすべてを覆った。



破滅に向かう人の背を、見送っていた。
女の白い手を引き戻すことも、足元にすり寄ることも出来ず、ただじっと見送っていた。
私は無力な、猫だった。





或るふたり
(20120425)


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