分かり難いんだよな、と眉間に数本の線を刻みながら希沙良は呟いた。
キッチンで銘茶を注ぐ冴子に向けて放った台詞だったが、相変わらず飛び道具のような勢いで理想的でない方向へ持っていかれる。


「そうね、ちょっと理解出来ないわね、あなたがここに居る理由が」

「今日マイナ2度、寒いだろ」

「…これも良い傾向と言えるのかしら」

「何が?」


差し出されたカップを口元まで移動させながら希沙良は冴子の返答を待つ。
テーブルの上に置かれたもう一方のカップからは、外気との温度差によって出来た結露が玉のように滑り落ちていた。



「それは勿論、寒さをしのぐためにあなたが選んだのがこの部屋だったことが、よね」


雪が降るくらいだもの、珍しいことが起きてもおかしくないわよね、と自分勝手に納得して、冴子はようやくカップに口を付けた。


「あいつは?」

「どこのあいつのことかしら」

「…この会話も毎回デジャブだよな」

「そうね、あなたが進歩しないから」


自身のことを棚に上げてよく言うものだと、お決まりのやりとりに辟易して希沙良は息を吐く。


「お前と二人でここにいたら、煩い奴がいるだろ、わかれよ!」

「わかってるわよ!煩いかどうかは別として、誰のことかなんてわかってるわ」


そして結局はいつも冒頭の台詞に行き着く。
分かり難い、ただその一言に尽きるのだ。
七瀬冴子と水沢諒の煮え切らない関係が、その分かり難い愛情表現に起因していることは誰の目にも明らかだった。
だからといって、キューピットよろしく二人の仲を取り持ってやろうなどという殊勝な精神を、希沙良は持ち合わせていない。


「くだらねぇ嫉妬の対象になるのは御免だからな、俺は」

「心配しなくてもその理由がないから大丈夫よ」

「理由?」


あの馬鹿が希沙良くんに嫉妬する理由がどこにあるの、と心底不思議そうに冴子は首を傾げていた。


「…お前なぁ、ちょっとこっち来い」


ぽんぽんと自分の腰掛けているソファを叩いて、希沙良は静かに冴子を促す。
生粋のお嬢様育ち、というのは良くも悪くも世間を知らな過ぎて時々正しい方向へ導いてやりたくなる。
クレジットカードだけで世の中を渡り歩く冴子を非難したのも、そう昔のことではない。改善されたのかどうかは別として、世間一般の女子高生はクレジットカードで缶コーヒーを買ったりしないということには、どうやら気が付いたらしい。


「何よ、改まって」

「理由がないって、言ったよな?」

「言ったわね」

「理由なんて、どうとでも作れるってわかってんのかよ?」


背もたれに二の腕を預けて、希沙良は空いた右手で冴子の胸元を泳ぐ髪を持ち上げた。
少し力を込めてその手を引けば、簡単に唇の合わさる距離だ。

ばっかじゃないの!最低、やっぱりあなたってそういう人だったのね!、と聞こえてくるだろう弾丸のような罵倒には適当に相槌を打って、だからあまり簡単に男を信用するなと言ってやるつもりだった。
何故か予定が狂ってしまったのは、冴子がいつまでも言葉を発しないからだ。そうして沈黙を保ったまま互いの瞳を覗き合うことが、口付けを交わすことよりも居た堪れないような気になって、湖に沈む鉄球の緩慢さで距離を縮めていく。
後悔しても知らないからな、と浮かんだ台詞は誰に向けたものなのか。
これではまるで、ソープオペラの悪役だ。その事実を見なくて済むように瞼を閉ざさんとしたところで、重厚な扉の開く音がした。

お邪魔しまーす、という絶対的に場にそぐわないふざけた声と、慎重な足音の温度差は水沢諒だけが持ち得る個性だ。
長いように感じた沈黙が、思わぬ形で引き裂かれる。
咄嗟に距離を離したのは、希沙良も冴子も殆ど同時だった。


「あ、れ?どうしちゃったの?仲良くお隣でお茶なんて」


飄々と振る舞ってはいるが、視線の鋭さがすべてを無駄なものにしていた。
どさりと音を立てながらフローリングに荷物を放ると、諒は真っ直ぐにキッチンへ向かう。
それ以上何も語らず、無言で手を洗い続ける諒へ視線を飛ばした冴子は、勢い良くソファから立ち上がった。
帰る、と静かに言い放ち、鞄を手に早足で玄関へ続く廊下へ消えて行った。


「おい!コート忘れてる!」


呼びかける希沙良の声が届いていたのかどうか、返事のない廊下からは窺い知ることは出来なかった。


「…今日マイナス2度、寒いよな」


再びの既視感に包まれながら、未だじゃあじゃあと水を流し続ける諒に向かって希沙良は投げかける。


「持って行って差し上げたら良いのでは?」

「そういうのはお前の役目だろ」


重たい空気に比例して鉛のようになった腰を上げた希沙良は、手にしたコートを差し出したが、それを受け取るべき腕は一向に現れる気配がない。


「ねぇきーさん、」

「…なんだよ」


常ならば無視を決め込むふざけた呼び方にも、今ばかりは返答せざるを得なかった。
差し出したままのコートを一旦腕の中に戻すと、先程まで目の前にあった香りが希沙良の鼻孔を掠める。


「いや、やっぱりいいです。忘れて、フォーゲットミー」


平常通りの人を馬鹿にしたような言葉を最後に、諒は再びその口を閉ざしてしまった。
すぐさま追いかけてあの細い腕を掴んで、お前は俺のものだと一言言ってやればそれで済むことがどうしたらこう悪い方向へ進んでいくのか。
頭を掻き毟って叫びだしたくなる衝動を抑え込んで、希沙良は玄関へと歩を進める。
鏡張りの見慣れた通路がやけに長く思えて、寒さに肩を震わせているであろう冴子の姿もずっと遠くに在るように感じていた。
この距離を詰めることが出来るのはただ一人だというのに、上手く廻らない世界がもどかしい。


「だから分かり難いんだっつーの…!」


乱暴に抱えたコートは持ち主の香りを残すだけで、当然のように返事はない。
怪しくなる雲行きを見上げて、希沙良は長いウェーブの髪を探した。
その背中にどんな台詞を投げかけるべきなのか。
その答えはまだ見つからない。





こころと心臓と胸が痛い
(20120202)


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