たかが数年前のことだ。
過去というにはまだむず痒く感じる程度に鮮明な状態を保っている。
それでも確かにあの日々は終焉を迎えて、こうしてのらりくらりとライター業などというものに身を投じている。




体を灼き尽くすように気温の高い日だった。
節電節電と声を大にする世間に倣って停止してあった空調を、堪らずオンにする。

何をするにもこう暑くては敵わない。かつてこの手に宿っていた能力は成人を過ぎた頃から徐々になりを潜め、今では幽かな気配を残すのみとなっていた。
あれから人一倍夏が苦手になったような気がしている。


耳障りな音と共に吐き出される冷気が部屋中を満たしても、体の火照りは治まらなかった。

何にというわけでもなく舌打ちしてから、枕元にあった携帯電話を手に取る。
手際よく開いたメモリーから、七瀬冴子の名を表示させた。









「夏風邪ね、御愁傷様!」


無愛想なメールを送ってから一時間と経たないうちに、冴子はこの黴臭いアパートに足を踏み入れていた。
相変わらず華やかなはずのウェーブの髪は暑さのせいか一つに纏められている。
動きに合わせて見え隠れする白いうなじがやけに艶かしく、今更ながら彼女を呼びつけたことを僅かに後悔していた。

年月の経過は不思議だ。自身の行動を振り返ってしみじみと思う。あと三年でも時が早ければ、突然の心臓発作で死にかけようともコールの先は彼女ではなかった筈だ。そうすれば、こんな風に首筋の白い曲線に息を呑む醜態を晒さずに済んだろう、と今ここにはいない相手に悪態をつく。
悪かったよ、と懐かしい声が聞こえた気がしたが、記憶が作り上げた幻聴だと冷静に判断していた。


「生きてれば感じる程度の熱だろ、こんなの」


差し入れにと冴子が持ってきたビニール袋の中を探る。今しがたの幻聴を掻き消すように、がさがさと音をたてて中身を取り出した。
スポーツ飲料に果物入りのヨーグルト、冷却シートと体温計。
この家に体温計が無いだなんてよくわかったものだと感心していると、男の一人暮らしなんて大抵そんなものだとあっさり切り捨てられた。
どこの男の一人暮らしのことなのか、茶化すつもりで問いかけようとして思い当たる節が一つでないことに気付いて止めた。
彼女とその実兄、そしてあの馬の骨の奇妙な関係は、今も尚、続いている。


「それにしても、ただ生きてるだけにしては熱すぎるわね」

「燃えてんのかな」

「何が?」

「魂とか」


冴子が三度瞬きをした。


「…柄じゃないこと言うのね、驚いた」

「情熱系ライターだからな俺」

「精々火の玉レベルね、ノゾミ先生」


瞬間的な治癒力は消えても、翳す手の平から流れる癒しの気は残っているのだろうか。冴子が触れた額からすっと汗が退いていく。


「その呼び方やめろ、気味が悪い」


ふと訪れた沈黙に、それであいつどうしてる、と特に興味もなく呟いた。
どうもこうも相変わらず無駄に大きな図体で生きていると思うわよ、と冴子もまた興味のなさそうな素振りで答えた。


「十九郎くんは?元気にしてる?」

「…多分。会ってねぇ。からわかんねぇけど」

「さみしくないの?」


意外と平気、と考える間もなく口から零れる。
平気だと言えたのなら、それが真実だと思った。言霊、と昔どこかで聞いた言葉がふと甦る。


「お前は?さみしいのか?」

「そんなわけないじゃない」

「なんで」

「さみしい、っていうの、忘れたのよ」


それはさみしい思いをしたことがないからなのか、それともいつだってさみしさに囚われて、その孤独に慣れてしまったからなのか。
多分後者が正しいのだと、収束する炎のような瞬きが、そう思わせていた。
さみしい二人が身を寄せ合って過ごすには、この部屋は似合いだ。だからせめてもの救いに太陽の明かりが射し込んでくれたらと、重たい頭を窓へ向ける。
何も言わずに立ち上がり、くたびれたカーテンを開けた冴子の全身から光が流れ込んだ。

さみしさを失ったばかりの今、また新たなさみしさを手にしている。
そうして再び喪失の日々に舞い戻るのだ。
こうして自分を救い出す強い光が時々でも差し込めば、それはそれで構わないと重い瞼の裏で感じていた。





いつも喪失は簡単だ
(20120131)


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