酷い雨の朝だった。
雨粒そのものが水溜りのような大きさで屋根を、窓を、背中を、打つ。
一度濡れてしまえば、あとは同じだ。一粒肩から浴びれば、バケツの水を被ったように全身が滴る。それ程に、兎に角酷い雨だった。
どのみち家に帰って熱いシャワーを浴びることになる。屋根のある道を態々選ぶこともせず、色濃さを増すアスファルトの上を走り抜けていた。

商店街の角を曲がるところで、割れるような音がした。
その直後、空ががしゃりと光り、ああ雷だとようやく理解する。

絵に描いたような稲光を目にしても、恐怖はなかった。ぴりぴりと頬を撫ぜる電流の破片が、よく知った人物を彷彿とさせるせいかもしれない。恩師の放つ雷は、いつだって何かを守る為の優しい光でしかなかった。
そうして懐かしむように見上げていた空が、再び唸り声を上げた時、雷鳴の先に彼女の姿を見つけていた。

雨宿りでもしているのか、彼女は身じろぎもせず暗雲立ち込める空を見上げていた。その頭上では、大木から伸びた枝が怪物のようにしなっている。
名を呼ぼうと口を大きく開けた瞬間、星ごと覆ってしまいそうな強い光が、彼女と俺とを隔てた。
思わず額に手を翳し、右目を閉じる。その数秒の間に、あちらは真っ直ぐに歩き出していた。
ちらりと見えた白い横顔が、生命力の欠如したアンドロイドのようで、人違いかもしれないとさえ思わせる。実際にはあの儚げな髪色も、しなやかな四肢も、この世界にひとつしかないことを知っているのだから、そんなことは有り得ないのに。
頬を叩く雨粒が温かく感じられるのも、あの冷えた相貌のせいに違いなかった。



翌朝は、昨日の空を幻だと思わせる程の晴天だった。
昨夜遅くまで降り続いた雨のせいか、程良く湿った風がすぐ隣をすり抜けて行く。
覚醒しきらない意識を呼び起こしたのは、よく知った声だった。


「おはよう」


振り向いてみれば、いつもと同じ顔で彼女が笑っていた。エメラルドの双眼も、色素の薄い睫毛も、昨日までと変わらない。
原子レベルで何ひとつ、変わっていないのだと思う。
にも関わらず、昨日あの大木の下で何をしていたのかと気安く問えないのは、何かが違うと五感が訴えたからだ。

どうしたの、とこちらを見上げる双眸に、同じ台詞を投げ返したい。
薄く白い靄がかかったような、曖昧な瞳の色は一体誰のものだろう。


「昨日、あの商店街を抜けたところにある木の下にいたのを見たよ」

「……そう。声、掛けてくれたら良かったのに」

「掛けようとしたんだけど、ちょうど雷が鳴って」


タイミングを外したのだと言えば、それ以上は追求してくることもなく彼女は静かに足元を見た。


「サスケ君がいなくなってどれ位になるかな」

「…6年、とか?」

「そっか、もう、そんなになるのかぁ」


唇の両端が緩く持ち上げられたので、それが微笑であることは間違いなかった。
好き嫌いは別としても、その悲愴に満ちた顔を美しいものと認識してしまったことを、俺は少しだけ恥じていた。
特殊な性癖に気付かされたような、妙な感覚だ。
世の中でいちばん美しいのは犠牲者だと、どこかで聞いた言葉の真意が目の前で呼吸している。


「だから、あぁ違う、だからというわけではないんだけど、もう、サスケ君の背
中ばかり追うのはやめたい」

「本当は私、いつだって隣に立って同じ世界を見たかった」

「でも、そんなこと出来るわけがないのよ」


昨日の雷鳴が甦った。
あの稲光を見上げながら、彼女は孤独と戦っていたのだ。
そうしてその静かなる決戦で、穏やかに白旗を上げた。
たったそれだけのことだった。
凍土を裸足で歩くような痛みを、俺だけが無視してしまえばたったそれだけ、そうに違いない。


昨日、あの場所で彼女は雷に打たれて死んだのだ。
そしてこの身体もまた、彼女の放った言葉の雷鳴により、たった今息絶えた。
あいつを愛さない誓いをたてた彼女と、そんな彼女を愛せない俺。
長い時間をかけて身体中を満たしていた感情が、アイデンティティでさえあったのに、それを失った俺たちは、ただの泥人形だ。
彼女の頬を憮然として流れる涙を人差し指で掬うと、そこに一筋、泥の道が出来上がっていた。





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(20120119:Thanks for Donald Herbert Davidson)


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