中学一年の3学期に入って、影山くんが初めて隣の席になった。賢そうな顔をしているくせに、勉強はいまひとつのようだ。小テストの答案用紙には、赤ペンで20点とでかでかと書かれてしまっている。
「影山くん。bとd逆だよ」
まちがえた英単語を10回ずつ練習する、という宿題が出て、影山くんはノートの罫線をはみ出さんばかりの勢いでひたすら書き殴っていた。私も別に勉強は得意なほうではないけれど、さすがにbとdを間違えることは減ってきたのに。
「!」
「書き直さないと多分再提出だよ」
「それは困る。バレーの時間が減る」
指摘されてようやく気がついたらしい影山くんは、消しゴムでごしごしと間違えた単語を消す。そういえばバレー部なんだっけ。そこまで部活好きな人は珍しい。なんか変な人だなと思った。
それから影山くんの中で、私は頭いい人に分類されてしまったのか、分からない問題を聞いてくるようになった。基本的なことしか聞かれないから、答えているうちに影山くんは私を天才と見なしたようだった。
「この問題が分からない」
「それは私もわかんないなあ」
「みょうじも分からない問題あるのか」
「そりゃあるよ」
ふうんと頷いて、今度は別の問題の解き方を尋ねられた。これなら私にもわかる。訊かれるたびにもうちょっと勉強しないとなと思うようになった。
そんなことを繰り返しているうちに、私の小テストの点数はどんどん上がった。影山くんは部活ばかりしているせいかあまり変わらなかった。
「次のテストで赤点とったら補習って言われた」
「それは大変だ!がんばって!」
「なんで他人事なんだ」
「うーん?まあ私も頑張るけども」
「そうじゃない。勉強教えてほしい」
席が離れたというのに影山くんは私に助けを求めてきた。平日は多分無理だから、土日に時間を合わせて図書館で勉強することにした。
午前練が終わった影山くんと一緒に勉強していたら、男子バレー部がどこからともなくやってきて冷やかされる。男子ってほんと馬鹿じゃないの。
当の本人は気にしていないようだったけど、あまりにもうるさいので場所を変えることにした。ファミレスとかカフェ、はお金ないしなあ。悩んでいると「俺の家なら誰もいない」と提案されて、その案に乗っかることにする。
「え!?飛雄なに女の子と勉強してんの」
影山くんにはお姉さんがいるらしい。帰宅したお姉さんは私たちの姿を認めると驚いた顔をしていた。
飛雄って誰だろうと一瞬考えて、影山くんのことかと思いつく。「若いねーかわいいねー」お姉さんはにこにこしながらお菓子を出してくれた。
「今日は一与くんのとこ行かなかったんだ」
「勉強するから」
「えらいじゃん」
日が落ちるまで勉強して、帰宅して自室で鞄を広げたところで影山くんの家に筆箱を忘れてしまったことに気がついた。明日学校に持ってきてくれるだろうか。持ってきてくれなかったら、お気に入りの文房具たちを使えずにノートをとるはめになる。それはちょっと避けたい。
悩んでから、念のため電話することにした。影山くんはケータイを持っていないからお家に直接かけるしかない。親御さんが出たらどうしよう。緊張する。
数回コールが鳴って、お姉さんが出た。影山くん、と言いそうになって慌てて言いかえる。「飛雄くんはいますか」という声が震えた。
「あ、筆箱でしょ?いま飛雄が向かってるはず」
「え?」
タイミングよくインターホンが鳴った。玄関を開けると影山くんが立っていた。手には私の筆箱が握られている。
「わざわざ持ってきてくれたの?」
「大事な物なんだろ」
「まあね」
走ってきたのか、息が少し切れている。影山くんにとってのバレーボールほどじゃないけど、たしかに筆箱を無くしたらそこそこ落ち込むだろう。でも明日でよかったのに。私の家までそこまで遠いわけじゃないけど、歩いて5分という距離でもないし。
「また明日ね」
手を振る私に影山くんはぺこりとお辞儀をした。なんだか夢を見ているような心地で家の中に戻る。後ろから一部始終を見ていたらしい母親は影山くんのことを「イケメンじゃない!?」と大騒ぎした。
「影山さんね。覚えた。保護者会が楽しみだわ」
「変なこと言わないでね」
「大丈夫大丈夫」
母上の大丈夫はあまり信用ならない。
その夜はお風呂に入っている間もご飯を食べている間も歯を磨いている間も影山くんのことを考えていた。中学生にとって全てが十分すぎる出来事だった。