楽しい年末年始のはずが、体温はすでに38度を超えている。水を飲むだけで飛び上がるような痛みを喉に抱えつつベッドで朦朧としていると、いつの間にか日付が変わって新年を迎えていた。
今ごろ両親はリビングでテレビを見ながら良いお酒を開けているところだろう。今年こそはいい年になるといいなあ…。………。
「なまえ」
誰かが私を呼んでいる。まぶたの裏で窓ガラスから差し込む陽の光を感じて、ああ朝が来たのかとぼんやり思う。
「おい 生きてるか」
「……き、てる」
「あ?聞こえねえ」
自分のものではない低音に鼓膜が震える。こっちは体調が悪いというのにその荒い口の利き方は一体何なんだ。
渋々まぶたをこじ開ける。数秒思考が止まる。え。
誰かと思えば、なんと影山がこちらを伺っていた。とうとう熱にうなされて幻覚まで見るようになったらしい。これは重症だ。二つの意味で。
「私しんじゃったのかも……」
「生きてるから安心しろ」
「じゃあこれ夢?ちょっと私のこと殴ってみて」
「お前頭おかしくなったのか」
「殴ってくれないなら殴らせて」
「やめろ」
腕を振りかぶったら掴まれて阻止された。腕越しに伝わる指の感触にだんだん意識が戻ってくる。え、ほんとうに影山だ。
「!?なんでいるの」
「おばさんが様子見に来いって。そしたら治るって言われた」
「なにその謎理論…」
我が母親ながら難解である。ベッドサイドに置いてある体温計に手を伸ばすと影山が取ってくれた。脇に挟んで数十秒待つ。影山は私をじっと眺めていた。絶対可愛くないから見ないでほしいな。もう後の祭りだけど。
ぴぴぴ、と鳴って表示を見る。影山も覗き込んできた。距離が近い。
「さ、さんじゅうななど…」
「治ってるじゃねえか」
影山は絶対関係ないと思うけど、熱はもうほとんど下がっていた。喉の痛みはまだ残っているものの確かに身体は昨日よりもずいぶんと軽い。自分の免疫力強すぎる。
のっそり上半身を起こすと、ようやくそこで影山がランニングウェアを着ていることに気がついた。走りに行った帰りなのか、いまから行くところなのか。わかんないけどめっちゃ格好いいなと思いながら、せめてもの抵抗に自分の前髪を無理やり撫でつける。
「あけましておめでとう」
影山が澄ました顔で言った。順番がなんかもうめちゃくちゃだ。新年なのをすっかり忘れていた。
「おめでとう。今年もよろしくお願いします…」
「なんで敬語」
「影山選手だから」
「その呼び方やめろって言ってんだろ」
「じゃあトビオちゃん」
「それもやめろ」
「注文多いね」
「多くねえよボケ」
新年でも口の悪さは健在だ。時計を確認すると、時刻はもう10時を少し過ぎている。
影山は私を一瞥すると、お役御免とばかりに立ち上がって出ていこうとした。後ろ姿に慌てて「初詣もう行った?」という問いを投げつける。振り向いて「病み上がりだし行けねえだろ」と呆れたように言い返される。
明日なら行ける。それまでに全回復しとく。むりやりまた会う約束をした。
・
新年2日目だからか、地元の神社の混み具合はだいぶマシなようだった。おみくじを引いて、恋愛運は「待てば叶う」と書いてあった。いや相当長いこと待ってるんですが。
「影山はいつまでこっちにいるの?」
「明日東京に戻る」
「へーえ忙しいんだねえ」
積もった雪の冷気のせいで指先が痛いくらいに冷えている。影山の両手はポケットの中でぬくぬくと暖をとっているようだ。手繋いでくんないかなあ。
美羽さんに会いたいと言うと、影山は「家にいるから行けば会える」とそっけなく答えた。じゃあ行く、と返して影山宅のほうへ歩みを進める。おじゃまするのは随分と久しぶりだ。
「日向の送別会来る?」
「まだ分かんねえ。行けたら行く」
行けたら行くって、国見が言うならまた別の印象を受けるけど、影山は本当のことなんだろう。練習スケジュールとか大会とか色々あるだろうし。
歩きながら東京での暮らしぶりを聞いて、大学生活の様子を聞かれて、練習の調子を聞いて、国見のことをちょっとだけ聞かれた。そんなことをしているうちに、あっという間に家に着いた。
「なんで突っ立ってるんだ」
玄関先だけで挨拶しようと思っていたので、家に入るよう促されて面食らう。いいの?と聞いたら「なんで駄目なんだよ」と言い返された。お正月だし何となく気が引ける感覚はこの男にはわからないらしい。
おじゃまします、と恐縮しながら靴を脱ぐ。病み上がりのせいかちょっとふらついて、なんとか踏みとどまった。
「それ貸せ」
脱いだコートを手渡す時に、指先がほんの少し彼のそれに掠める。影山が驚いたように目を見開いた。
「手冷たすぎんだろ」
「女の子だからね」
「言えよ」
言ったところでどうにかしてくれんの、って言い返そうとしてやめた。影山のご両親に聞こえてたら恥ずかしすぎる。
私のコートとマフラーをハンガーにかけてくれて、リビングに向かおうとしたところでガチャリと向こうから扉が開く。顔をのぞかせた美羽さんが「なまえちゃんじゃん!」と嬉しそうに言った。
「大きくなってー!」
「それ会うたび言ってません?」
「そうだっけ」
「美羽さんは相変わらず美人ですね」
「ええー私ももうアラサーよ」
お世辞でもなんでもなく、美羽さんは全然アラサーには見えない。昔から美人でおしゃれで憧れだった。私が中学生の時に初めて会って、当時美羽さんは20歳くらいだったはずだけど、その時からすでに大人びていたように思う。
「大学生になってさらに可愛くなったね。男の子がほっとかないでしょ」
「悲しいことにほっとかれてます」
「聞いた?飛雄あんたチャンスあるよ」
「ちょっとやめてください!」
影山は聞いてるのか聞いてないのか分からない顔でミカンをむしゃむしゃ食べていた。ごくりと飲み込むと「おう」と返事をする。絶対これは聞いてなかったな。
そのあとカーペットの上で居眠りを始めた影山を横目に、美羽さんと色んな話をした。おすすめのコスメとか服のブランドをたくさん教えてもらって、気がつけば夕方になっていた。
「家まで送る」
挨拶を済ませて靴を履いていると、影山もついてきた。昔は送るとかそういう発想はなさそうだったから感動する。影山も大人になったなあとしみじみして、実は東京で学んだのかもしれないと思いついて少し落ち込んだ。我ながら面倒くさい女の自覚はある。
「次いつこっち来る?」
「わかんねえ」
「瞬間移動できたらすぐ帰ってこれるのにね」
「レシーブ無敵じゃねえか」
「たしかに。じゃあ新幹線でいいや」
どんなに恐ろしいサーブもスパイクも、超能力でぜんぶ取れてしまったらそれはそれでつまらなくなるのかもしれない。それなら次はいつ会えるか約束できないほうがいい。
寒さにたまらずくしゃみをすると、不意に影山が私の手を取った。「死人かよ」と顔を歪める。私の指先はとんでもなく冷たいらしい。
「しんでない。影山に会えるまで頑張って生きるね」
「もう風邪引くなよ」
「それは無理な注文」
指先から体温が入り込んでくる。家に着くまでに私の手はすっかり温まっていた。