※大学生設定
自分は扁桃体が弱いのだというのが彼の持論だった。赤葦は、バレーボールや読書といった例外はあるがほとんどの場合、何に対しても好き嫌いを強く感じる機会が少ないのだという。世間の大学生が「あれは嫌い、これは好き」とお酒を飲みながら口々に言い合い、そして恋愛関係に至る点について、全く共感できないらしい。だから、あらゆるものへの好き嫌いを瞬時に判断する脳の部分、いわゆる扁桃体が弱いというわけだ。
「難しいこと言うよね。そんな深く考えてたら髪の毛抜けない?大丈夫?」
「考えすぎとはよく言われるけど」
「あ、見てこれ良さそう」
「なまえは人生楽しそうでいいよね」
スマートフォンの検索結果に良さげな観光地が引っかかり、画面を見せようと前のめりになると赤葦もテーブルの向こうから身を乗り出してくる。何だか馬鹿にされたような物言いだが、目の端を下げて笑う彼の顔をみて呆れられていないことは分かる。
好き嫌いが少ないのだという赤葦だが、彼は一風変わった場所に出かけることを好む。一年ほど前、週末にミイラ展に行くのだという赤葦の予定に私が乗っかったことがきっかけだった。一人よりも二人の方が感想を共有できて良いし不測の事態に対処しやすいという彼の主張から、事あるごとに行きたい場所に連れ回されることが増えていき今に至る。
寄生虫館や都内の教会巡り、リアル沿線すごろく、さらには秘宝館まで、よくもまあそんなに思いつくよなあと思いつつ、実は私もちゃっかり楽しんでいるということは赤葦にはまだ言っていない。
「いつも俺が行きたいとこ決めてるし、たまにはなまえが決めていいよ」
「えー急にそんなこと言われても思いつかない…」
「よくあれ食べたい、ここ行きたいって言ってるのに」
「そんなのいちいち覚えておけないよ」
テーブルの上に置いてあったチョコレートを口に放り込みながら自身のSNSのいいね欄を遡って考える。がやがやと周りの喧騒が耳に入ってきて、急に騒がしくなったなと顔を上げると先程よりもラウンジ内の学生の数が増えていることに気がついた。もう3限が終わった時間だろうか。
「赤葦は次授業?」
「いや俺はもう終わり。18時からバイトだけど」
ふうん、と返事にもならないような呟きを返し、SNSを遡り続ける。少し離れた席に座る二人組の女子大学生が彼氏と行ったディナーについて声を弾ませながら話しているのが耳に入り込んでくる。
「…あ」
「何?行きたいとこ思いついた?」
「うん。王道デートスポット巡りしたい」
私の回答が意外だったようでわずかに目を見開いた赤葦が首を傾げる。
「そういうのは彼氏とすれば良くない?」
「友達とするのが面白いかなって」
少し考える素振りを見せた彼は「その発想はなかったな、いいよ」と頷いた。決まりだ。
赤葦は彼自身の恋愛感情の薄さとは対照的に、ルックスが良く、勉強できるし、落ち着いた性格もあって好意を寄せられることが多い。バイト先のお客さんから連絡先をもらったこともあるそうだ。どうにかして人を好きになってみたくて告白された何人かと付き合っていたことがあるらしいから、デートスポットには何度も行ったことがあるのだろう。でもそれは恋愛関係にある人と行ったということだから、友達と行けばまた違った面白さがあるかもしれないと思う。
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「そういえば、赤葦くんと付き合ってるのって訊かれた」
「いつか訊かれると思ってた」
ふよふよと漂っているだけのように見えるクラゲはイルミネーションに勝手に照らされているものの素直に綺麗だと思った。何を考えているのか分からない、なんとも言えない表情を浮かべながら赤葦も隣でクラゲをじっと眺めている。
水族館はやはり定番のデートスポットらしく、周りは学生やファミリーよりもカップルが多いように見える。周りからも私たちがカップルに見えるのだろうか。
今日は予定通り、王道のデートスポットとして映画館とカフェ、水族館を順調に訪れている。思っていたよりも面白く、赤葦と私が好き勝手思いついたことを言い合いながら時間はあっという間に過ぎ去っていく。
「私たち仲良いもんね?」
「そうだね」
でも赤葦は恋愛感情が薄いのだという。だからこそ私たちのこの関係はきっといつまでも続いていく。
ぐだぐだなペンギンショーを見終わって土産店のほうへ進む。チンアナゴのストラップを手に持った赤葦が「次どこ行くんだっけ」と問い、「ディナーと思ってたけど、もう満足したから普通に居酒屋にしよ」と答えると、赤葦は黙って頷いた。
いつのまにか日が落ちて辺りはもうすっかり暗くなっていた。地面には二人分の影がゆらゆらと揺れていて、赤葦の影は私に比べてやっぱり長いなと思う。暗がりのせいであらゆるものの輪郭があやふやで、だからいつもより言葉少なめな彼が何を考えているのかさっぱりわからない。
普段よく行く安い居酒屋のチェーン店に入り、ご新規2名様でぇすという案内にしたがって席に着く。メニューを開き、生ビールといつも頼む小皿をいくつか注文したところで赤葦がかすかに息を吐いた。
「今日つまんなかった?」
「いや、むしろ逆。結構おもしろかった」
「じゃあどうしたの?」
なんでもない。そう返されてもハイそうですかと流すわけにもいかないほど彼の様子はいつもと違う。話す気がないなら無理に聞こうとは思わないけれど。
「今までの可愛い彼女と散々行ったから思いだしちゃった?」
「そんなわけないだろ」
「……赤葦って扁桃体弱いって言ってたけど、性欲はあるの?」
お通しのキャベツに手を伸ばしながら問うと赤葦の動きが一瞬止まった。急に何言ってんだという視線を感じて肩をすくめる。こっちとしては何を今更という感じだから、彼の反応が少し意外だった。ビールを一口嚥下し、ゴトンとジョッキを置く重ためな音が耳に飛びこんでくる。
「あるよ」
今度は私が動きを止める番だった。扁桃体が弱くても性欲は別なんだ、へえ。
これまで彼が付き合っていた女の子たちのことは好きになれなかったかもしれないけど、それとこれとは別なんだなと不思議な気分になる。その子たちとはどこまで行ったんだろうと考えかけて慌てて思考を止めた。友達の性事情のことはあまりイメージしたくはない。
「好きじゃなくてもできるんだね」
「男って大体そうだと思うよ」
「そうかな」
たとえばもし、私が赤葦と恋人になりたいと言ったら彼は私とセックスするだろうか。もし、恋人じゃなくても私がしたいと言ったら彼は応じるのだろうか。
性別が多様化している現代においても、男と女の友情は成り立つかどうかの議論は決着が着く気配がない。最終的には長い付き合いにはならないと主張する人もいれば、もう10年以上仲良くしている男友達がいると主張する人もいる。たぶん人による。でも、実は片方が一方的に好きでした、なんてオチだったら「そんなつもりじゃなかった」とあっという間に関係は破綻してしまうことが多い。
赤葦が頻繁に私と行動を共にするのは、私が彼のことを恋愛対象として見ておらず、そして彼の行きたい場所に文句を言わず付いてくるからだ。ただそれだけ。
「これなまえの好きなやつでしょ。俺の分も食べていいよ」
「ほんと?さすがモテる男は違うね」
茶化すように言えば「だろ?」と赤葦は満更でもなさそうに笑う。こんな感じの関係がいつまでも続けばいいのにとアルコールが回った心の奥底で思う。
私の扁桃体は赤葦のものとは作りが違う。彼がいう一般的な大学生のように好き嫌いがたくさんある。一限嫌い、映画の主題歌を歌っているバンドが好き、学部の教授は嫌い、流行りのスイーツが好き。好き嫌いであふれた世の中で、限られたものだけを一途に好きで居続けられる彼が羨ましいと思う。そして同時に、彼に選ばれるものたちのことが妬ましくなってしまう。人知れずどう言い訳しようとも、私は赤葦のことが好きだったのだ。
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