研磨に名前を呼ばれると、ひらがなで聞こえる。そう彼に言ったのは、はたしていつだっただろうか。研磨はただ相づちを打っただけだったのか、それとも何かしらを答えてくれたのかは覚えていないので、かなり昔のことなんだろう。

   中学生になると、研磨は私のことを名前で呼ばずに名字で呼ぶようになった。普段は女子とほとんど話さない彼が私のことだけ名前で呼んでいるのを、クラスメート達が面白がって「なまえと付き合ってるの?」としつこく訊いたからだった。私はというと、あまりそういうのを気にしないタイプだったので、適当にスルーしている内にからかわれることはなくなっていた。けれども他人の目を普通より何倍も気にする研磨は、高校生になっても私を名字で呼ぶし、学校での会話は必要最低限のままだった。
   だから、私たちが幼なじみだと気がつく人は、誰一人いない。



「悪いけど俺、今日は部長会なんだわ」
「えーじゃあ教室で待ってる」
「いや、今回は時間かかりそうだから先帰っといて」

   先帰っといて。って、私が、研磨と?
   思わずクロの方を見上げると苦笑された。諦めろ。そう言いたいらしい。私と二人きりでいることを何よりも嫌う研磨が不服そうな顔をするのは、火を見るよりも明らかなのに。
   今日から試験一週間前だから部活停止期間になる。だから久しぶりにクロと研磨と三人で帰ろうと思ったのに、クロは試験明けの体育館振り割け会議に参加するらしかった。

   教室でクロを待つ研磨に報告するのが億劫になって肩を落とすと、いい加減仲直りしろよと言われた。別に喧嘩なんかしていない。仲直りと言われてもどうしたらいいのかさっぱりわからない。喧嘩だったら、ごめんねと謝って終わりだ。だけど、私は謝らなきゃいけないようなことは何もしていないし、研磨だって私に謝る必要はない。
   むずかしい顔をしているであろう私の頭をクロは何を思ったのかぐしゃぐしゃと乱雑に撫でた。「思春期だな」クロは歳が一つしか離れていないのに、まるで一人前の大人みたいなことを言う。



   学校の最寄り駅からいくらか離れると、研磨はだいぶ気が抜けたようだった。さっきまでずっと機嫌が悪そうに下を向いていたのに、今では何でもないような顔をしてスマホゲームをしている。年頃の男の子って面倒くさいなあと思う。研磨はいつもこうだった。周りに知り合いがいないと分かると昔みたいに私に接してくれる。けれども、学校ではまるで他人のふりだ。

   電車が揺れるたびに肩が擦れる。触れ合ったところからぬくい体温が流れ込んでくる。研磨は姿勢が悪いから、私より背が高いのに、座ると肩の位置がほぼ同じだった。まともに顔を合わせるのが久しぶりだし、クロがいないせいで会話もろくにできないので英単語帳を取り出すも、さっぱり集中できない。仲直りってどうしたらいいのかなあとずっと考えている。
   クロのいう仲直りというのは、学校でも普通に接するようになるということだろう。それは周りの対応が問題だと思うから、私にはどうにもできないんじゃないか。そう気がつくとバカバカしくなって思わず単語帳を閉じた。研磨が冷やかしなんか気にしなければいいのに。さっきから片方の肩だけにかかる重さがだんだん大きくなっているせいで余計に苛々する。

「研磨」
「……なに」
「ねむいの?」

   ねむい。ほとんど吐息のような声で返事をした研磨は、睡魔に抗うことを諦めたのか、完全に私の肩に頭をあずけた。寝息が驚くほど近くで聞こえる。うっとおしいくらいの長さの研磨の髪が頬をくすぐる。「でも、もう降りるよ」想像以上にうんとやさしい声が出てびっくりした。情けない話だった。幼なじみに戻った研磨はいとも簡単に私のいらだちを抑えてしまう。

   自宅の最寄り駅に着いても研磨が起きるのを渋るせいで、むりやり彼の手を掴んで電車を飛び降りると、間髪入れずに後ろでドアが閉まった。さすがに今ので起きただろうと思って顔を覗き込んでも、まだ寝ぼけまなこだったので呆れてしまう。そのまま仕方なく手を引いて改札を出ると、外はもう薄暗かった。クロは今ごろ学校を出たところだろうか。わからないけれど。
   研磨が遅れて付いてくるせいで後ろに引っ張られていた腕が、少しずつゆるんでいく。音もなく影が近づいてくる気配がして、やっと起きたのかと気が付いた。何を話そうと考えていると、やわらかな頭の感触に息が止まる。

「なまえって、いつの間に、こんなに小さくなってたの」
「……私が縮んだんじゃないと思うけど」

   寝ぼけてるんだか何なんだか、とにかく研磨は突然私の頭をぐりぐり撫で回したものだから、心臓がひっくり返った。完全に不意打ちだった。背後からなんて卑怯だと思う。ぐるりと身体を回転させて表情を窺おうとしたら、ばちりと視線が合って困ってしまった。

「急に、なんなの」
「いや…クロが触ってたから…」
「触ってたから?」

   理解不能だ。彼は目線を落ち着かなくきょろきょろ動かしたあと、何でもないと言った。何でもないはずがなかった。まさか、さっきのクロとのやり取りを見ていたんじゃないだろうか。
   研磨は億劫そうな表情を浮かべながら頭から手を離して、こんどは私の手を引いて歩きはじめた。寝ぼけてこんなことをしているのかと思ったけれど、その割に歩調はしっかりしている。なおさら訳がわからなかった。

「家ついたらなまえのノート貸して」
「……いっつもそれじゃん」
「うん。だっておれ、なまえがいないと赤点とっちゃうし」

   研磨はいつも、私の方が友達が多いことを気にしていた。人間関係には自信がないみたいだった。そんなこと気にしなくても、研磨を大事に思っている人はたくさんいるのに。
   日はもうとっぷり暮れていた。学校では私を冷たく突き放す研磨も私の名前を呼んでくれる。家に着いたら私たちはきっと名残惜しそうに手を離すだろう。どうしたって仲直りできそうになかった。研磨に振り回されている。いつまでたっても、私は。

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