@大人になったら結婚しようなと言ってくれた彼氏には別の彼女がいた。高校生の口約束なんて大人が聞いたら笑ってしまうだろうけど、それでも天にも昇るほど嬉しかった。それなのに、今は地獄に落とされた気分だ。
 私は世界で一番かわいそうな女の子だなあと思いながら、小さく体育座りをしてひたすらグズグズ泣く。拭けども涙が勝手に溢れ出てくる。そんなことをしていると静かに自室のドアが開いた。母親が勝手に入ってきたのだと思って無視していたら、「おい」とぶっきらぼうな声が降ってくる。

「え……聖臣くん、何しに来たの」
「公欠分のノート見せるって言っただろ」

 そうだっけ。言ったかな。言ったような気もする。申し訳ないけど、全く思い出せないほど今の私にとっては重要な約束じゃない。

「そこのバッグに入ってるから、勝手に持ってって」

 私が指差したほうに彼は視線を向けたが、そちらに手を伸ばすことはなくじっとこちらを見つめている。眉間に皺が寄っていて機嫌が悪そうだ。今は聖臣くんのご機嫌取りするほど元気じゃないんだけどなあ。さっさとノートを持って帰ってほしい。そうしたら私はまた目一杯メソメソできるのに。
 思い切りティッシュで鼻をかんだら、頭が痛くなった。それでまた泣きたくなる。聖臣くんは不機嫌そうな表情のまま私の正面に腰を下ろした。その間もじーっとこちらを見つめている。

「泣くな」
「そんなのむり」
「……」
 
 目のふちをなぞられて息が止まった。他人の涙なんて汚いから触らないとか言うのかと思ってた。いやでも、私の涙だから触れられたのだろうか。みっともない自惚れかもしれないけれど。
 聖臣くんが私のことを好きなのは結構前から知っていた。口は悪いけど、どう考えても他の人より優しくしてくれたし、古森くんが「聖臣はなまえちゃんのこと好きだからね」とよく笑って言っていたし。あと私に彼氏ができたと知ったときはいつも面白くなさそうにしていた。たぶん好かれているのは本当なんだと思う。でも、全然美人でもスタイル抜群でもないからなんで私なのとも思う。

「もう帰ってよ」
「……馬鹿だな」

 どんなにみっともない恋愛をしても、聖臣くんは俺にしろとは決して言わなかった。それで良かった。俺にしろなんて言われたら私は頷いてしまうし、彼を選んでしまったらそれこそ墓場まで愛を誓わなければならない羽目になる。


A大学生になって、聖臣くんと顔を合わせることはほとんどなくなった。時間の使い道がかなり自由になって、聖臣くんはバレーボールを選んだし、私はサークルやバイトを選んだ。高校で大失恋をして以来、恋愛は乗り気になれなくて、合コンや異性からの誘いは適当な理由をつけてかわしている。友人たちの話を聞いていると、浮気やセフレの話が当たり前のように出てきて、恋愛ってそんなもんかと思った。

「今日も部活だったの?」

 大学からの帰り道、駅の改札を出たところでジャージを着た聖臣くんの後ろ姿を見かけて声をかけた。突然のことに驚いたのか一瞬目を見開いた後、以前と変わらぬ無愛想な視線を寄越してくる。

「そうだけど」

 彼の歩く早さがゆっくりになったのが分かった。仕事を終えたらしいスーツ姿の女性が足早に私たちの横を通りすぎてゆく。
 歩きながら近況を尋ねると、ぶっきらぼうでもきちんと答えてくれた。内容は変わっても彼は自分で決めたことは淡々と続けていて、変わらない様子に心のどこかでほっとする。

「彼女できた?」
「できてない。いらない」
「私の友達に紹介してもいい?」
「お前人の話聞いてた?」
「冗談だからそんな怖い顔しないで」

 私のことまだ好き?って聞きたかったけど聞けなかった。あの頃からだいぶ時間が経っているし、聞いたところでどうにもならない。それに、とんでもなく恥ずかしい質問だ。
 高校生の時に聖臣くんのことを選んでいたら、今でも彼の気持ちを独り占めできていたんだろうか。でも「聖臣くんにすればよかった」なんて口がさけても言えない。あの時の彼氏のことはちゃんと好きだったから。

「いつもこの時間に帰ってくるのか?」
「ううん、今日はかなり早いほう」
「普段は?」
「バイトあると日付変わるくらい」
「危ないな」
「大学生なら普通だよ」

 聖臣くんはバイトとかしてるのかな。してなさそう。接客絶対向いてないと思う。飲食店なんて論外だ。

「明日はバイトなんだよね やだな〜」
「あっそ」
「そっけなさすぎる」

 聖臣くんは家の前までちゃんと送ってくれた。別れ際に手を振っても振り返してくれなかったけど、代わりに私が家の中に入るまでじっと見送ってくれていた。

 次の日、バイトが終わってスマートフォンを見ると、珍しく聖臣くんから『バイト終わったら電話しろ』と連絡が入っていた。なにか急用でもあるんだろうか。
 駅まで歩きながら電話をかけると、彼は開口一番に何時何分の電車に乗るか教えろと言ってきた。意図がよく読めないまま、電車に乗ってすぐ乗車時刻を送る。既読がついた。

「なんで聖臣くんがいるの」
「俺は慎重だから」

 改札を出ると、聖臣くんが立っていた。どこかに行った帰りなのかと思ったけど、手ぶらだった。まさか家からわざわざ迎えに来たってこと?

「なんか直接言いたいことでもあるの?」
「いや、別にない」

 ますます意味がわからなくなって考える。昨日の会話を思い返してみて、確かにバイトの話はしたけど、それがどうしてこうなったんだと目眩がしそうだ。冗談のつもりで「私がバイトの日は毎回迎えにくるつもり?」と尋ねると、聖臣くんはうなずいた。いやちょっと待ってほしい。

「なんで聖臣くんが迎えにくるの?」
「夜道は危ないから」
「大丈夫だよ」
「そんなの分からないだろ」

 街灯の灯りがぽつぽつとアスファルトを照らす。深夜だから辺りはしんとしているが、都内の住宅街で何軒かコンビニもあるし、何かあっても誰かに助けを求めることはできるだろう。彼氏でもないのに迎えにくると決めた彼の決意が理解できない。私のことまだ好きなのかな。まさかね。街灯に集まった羽虫の群れを見つけた聖臣くんは顔をしかめている。


B大学4年の夏、聖臣くんは来年から大阪に行くと言った。そこを拠点とするバレーチームに入るらしい。

 就活のためにバイトをやめるまでの間、聖臣くんは本当にほぼ毎回、駅まで迎えに来た。何度もいらないって言ったのに無駄だった。じゃあバイトやめるって言ったら「始めたならちゃんと続けろ」と渋い顔をして言った。
 週に数回、短い時間だけど聖臣くんと話す機会があったのに、結局一度も告白みたいなイベントは起こらず、実は私のことは好きじゃないんだなと思ったりした。バイトをやめてからは全く会わなくなって、学生最後の夏休みまで聖臣くんのことはたまに思い出す程度だった。

「じゃあお別れだね。さみしくなるなあ」

 玄関口に立っている聖臣くんにそう言うと、彼はうんともすんとも言わず黙ったままだった。

「今さらだけど、聖臣くんのこと好きだったよ」

 彼の表情は変わらない。ちょっとくらい動揺してもいいのに。
 この歳になるまで、色んな人のことを好きになったけど、根っこのところはずっと聖臣くんのことが好きだった。でも愛は永遠じゃないし、彼との関係にもいつか終わりが来るのが怖くて、大事にしすぎてしまったと思う。聖臣くんも私のことが好きだったと思うけど、色んな人を好きになる私のことを汚いと思っているに違いない。好きだからと言って恋人関係になれるわけじゃないのが恋愛のむずかしいところだ。

「一生大阪にいるわけじゃないし、たまにはこっちに帰ってくる」
「そうだね。じゃあまた会えるね」

 聖臣くんがようやく頷く。この後部活に行くという彼に「駅まで送るよ」と言いながらサンダルを履くと、玄関の扉をあけて待っててくれていた。
 
「聖臣くん、大阪の空気に馴染めなさそう」
「失礼なこと言うな」
「ボケとツッコミできる?人の家入る時は邪魔すんで〜って言わなきゃいけないんだよ」
「邪魔するなら帰れってやつだろ」
「知ってるんだ」
「やらねえけど」

 ジクジクと蝉が鳴きわめいている。陽射しが肌を刺す。駅までの距離が何百キロメートルも伸びたらいいのに。春になるまで何千年もかかればいいのに。そんなことを考えているうちにあっという間に駅に着いた。聖臣くんがこちらを振り返る。

「部活がんばって。またね」
「……今度の大会、観に来れば」
「えっ、うん。行く」

 聖臣くんの表情が和らいだ、気がした。改札を過ぎて、歩いていく彼の後ろ姿を見送る。
 どんなに口調が厳しくても、聖臣くんはちゃんと目を見て話してくれるし、歩くペースも合わせてくれる。けれども彼は、いつからか私に全く触れなくなった。だから誰がなんといおうとも、この愛は墓場まで持っていくつもりだ。


C社会人になって、自由に使える時間が減った。自分のために働いているはずなのに、忙殺されて自分が自分じゃなくなっていく感じがする。
 ある日を境にぷっつりと糸が切れたように頑張れなくなってしまって、有給を使って新幹線に乗った。聖臣くんに新大阪まで迎えに来てほしいと連絡を入れると、分かったとだけ返信が来た。

「俺に今日予定が入ってたらどうするつもりだったんだ」

 久しぶりの再会だというのに聖臣くんは仏頂面をしている。

「それなら一人でたこ焼きでも食べてるよ」
「不用意なのは嫌いだって知ってるだろ」
「急に会いたくなっちゃったんだもん」

 眉間のしわが緩む。きょとんとしたような彼の表情に思わず笑うと、たちまち元の仏頂面に戻ってしまった。
 大阪を案内してほしいという私に、人混みは嫌だと聖臣くんは首を横に振った。まあそうだよね。

「じゃあどこでもいいよ」
「俺の家だな」
「えっ」

 文句あるのかとでも言いたげに睨まれる。せっかく大阪まで来たのに聖臣くんの家で過ごすなんてと思ったけど、会いたくて来たわけだからまあいっかと諦めた。あと迎えに来てもらった身だからなにも言えないし。返事を待たずに歩き始めた彼の横に並ぶと、歩くペースが少し落ちた。

「聖臣くんが関西弁になってたらどうしようかと思った」
「なるわけないだろ」
「ボケとツッコミはマスターした?」
「俺がすると思う?」

 知らない土地で昔と変わらない会話をしているのはなんだか変な感じがする。新大阪から聖臣くんの家までは思っていたより遠くて、電車を何回か乗り換えた。初めは慣れない景色が面白くて窓から外をずっと眺めていたけど、疲れもあったのか気がつけば眠っていた。

「起きろ」

 端的な言葉に目を開く。聖臣くんの肩に頭を預けていたようだったから慌てて謝ると、彼は「別にいい」とそっけなく言った。
 改札を出て慣れた様子で歩き始めた様子を見て、この土地に本当に住んでいるんだと今さらながら実感する。にぎやかな中心地に比べて、のどかな雰囲気のこの場所はわりと彼に合っているんじゃないかと思った。

「聖臣くんって、私のどこが好きだったの?」
「はあ?急に何言ってんの」
「もうお互い大人だし、思い出話でしょ」
「勝手に過去のことにするな」

 聖臣くんは怒ったように言った。立ち止まった私に気がついて、こちらを振り向く。

「過去じゃないの?」

 すがるような気持ちで尋ねても、彼は答えなかった。何を考えているのか分からない表情で、数歩先からじっとこちらを見つめている。
 どうしようもない気持ちに泣きわめきたくなった。もういいや。はやく東京に帰りたい。聖臣くんに汚いと言われると思って、もう立派な大人なのに他の人とキスすらできないんだよ、私。どうしてくれるの。
 じわじわと目の端に涙がにじんでくる。彼はそこで初めて動揺したように、泣くなと言った。

「なんで?汚いから?」
「ちがう」

 聖臣くんは慎重に私の涙を拭った。まるで繊細なものを扱うような手つきだった。

「聖臣くん」
「何だよ」
「好き」
「……クソ」

 目をこする私の手を聖臣くんはうんと優しく握った。お前は綺麗だよと言われた気がした。それで十分だった。くしゃくしゃになったティッシュが山をつくるほど泣きじゃくったあの日が帰ってこなくても、それでも。

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