長ねぎが鞄に入りきらなかったので、手に持って歩いて帰った。日差しが暖かすぎて立ったまま居眠りできそうだった。花柄スカート・ベージュのトレンチコート・薄い色のスニーカーという格好がありきたりな春すぎて気恥ずかしいものの、重たいコートを着なくて良いという嬉しさで何度か走りだしそうになった。というか昨日の帰り道は思わず走った。
 ねぎをもった左手をゆすりながら、好きな人とスーパーで買い物をして一緒に帰ることは、この上ない幸せなんだろうなと想像する。先月の伸びきった前髪を思い出して、会いたいなとぼんやり思う。前髪長いね。そんなことは今どうだっていいよ。暗がりでのやり取りがぐるぐると頭の中を廻っている。
 ……。…………。


「え?なんでいるの」

 パチリという音とともに瞼の裏が明るくなる。目を開くと眩しさに目がくらんで、慌てて瞼を閉じ直した。声の主が焦ったように近寄ってくる気配がする。

「何でいるの」
 心なしか疲れているような声で、赤葦がもう一度静かに私に尋ねる。
「それ言わせる?」
「言ってほしい」
「……赤葦に会いたかったから」

 明るさに目が慣れて、ようやく初めてそこで視線が合った。約一ヶ月ぶりに会ったせいで、少しばかりずれた空気がお互いの間に流れている。赤葦は怪訝な表情を浮かべてわずかに身じろぎをした。
 驚かせすぎてしまっただろうか。そりゃそうだろうな。だって仕事から帰宅したら、しばらく会っていない恋人が自分のベッドで眠っているなんて。私だったら不審者かと思って悲鳴を上げると思う。

「俺疲れすぎて幻覚見てるのかな……」
「うん、全部幻覚だから気にしなくていいよ」
「随分と都合が良すぎる幻覚だ」
「いいからお風呂入ってきて早く寝て」

 ベッドから起き上がって促しても、赤葦はその場から動こうとしない。上品なトレンチコートがとても彼に似合っている。前回会った時に着ていた厚手のコートも彼らしくて好きだったけど。
 外から帰ってきたら最初に手洗いうがいをしましょうね〜と声をかけて、ようやく赤葦は我に返ったようだった。脱いだコートを受け取りクローゼットの中にしまう。洗面所に向かう彼にカルガモのようについていって、丁寧に手を洗う大きな背中をぼんやりと眺めた。

「お腹はすいてる?」
「適当に済ませたから大丈夫」
「社畜が言いそうなセリフ第一位だよそれ」
「休みの日はちゃんと料理してるよ」
「えらい」

 手を伸ばして頭を撫でようとしても身長差のせいで届かない。伸ばした手は空を切ったが、重力に負ける前に赤葦によって掴まれる。泣き出しそうな、よくわからない表情に心臓がぐらりと揺れた。
 あっという間に距離を詰められて、背中と壁がくっつく。彼の大きな身体に照明が遮られて影をつくった。触れるだけのキスをされて、困惑したまま瞳孔をじっと見つめる。やっぱりゆらゆら揺れているような気がする。

「疲れてるんだね。はやく寝よう」

 返事をしない赤葦のことは気にしないふりをして、生活感があまりないワンルームに戻る。ふらふらと思考停止しているように付いてきた男をソファに座らせて、シャツのボタンを順番に外していく。はやくこの人をお風呂に入れてベッドに寝かせないと。
 少しばかりの後悔が頭をよぎった。やはり来るべきではなかったかもしれない。いまは仕事を頑張っている時期だし、私の存在は邪魔まではいかなくとも気が散るだろう。

「朝起きたら居ないなんてやめてね」

 私の考えを全て見透かしているような口ぶりだ。考えとく、と曖昧な返事をして、視線から逃げるように一番下のボタンに手をかけた。ねえ。拗ねたような声を出す赤葦はずるい。

「はやくお風呂」
「なまえがいるのに、入れるわけないだろ」

 びりびりと鼓膜が震える。赤葦の声で名前を呼ばれるともうだめだった。

「明日も仕事あるでしょ」
「あるけど、一応休みの日だから。ていうか知ってるよね」
「……うん、知ってた」
「だよね。ちゃっかりしてるよね本当」

 疲れて果てているはずなのに、射抜くような視線で私を捉えて離さない赤葦は「帰らないって約束するまで動かないから」と子どものような駄々をこねた。今度こそ逃げられない。そう悟って頷くと、赤葦は満足げに私の髪を撫でる。

 次に目が覚めたのは、シャワーを済ませた赤葦がベッドに潜りこんできた時だった。シャンプーのいい匂いがするなあと朧げな意識の中で思う。おかえりという私の声は掠れていた。赤葦の熱い手が形を確かめるように私の頬を何度も撫でる。

「これ本当に幻覚だったらどうしよう」
「……幻覚だよ」
「ひどいな」

 眉をひそめると同時に鼻先をつままれる。ぬるい痛みに声をあげれば赤葦はくつくつと笑った。何なのと思いながら伸びきった彼の前髪をかきあげると綺麗な額が現れる。忙しくてまた切りに行く暇がなかったんだろう。
 シーツの擦れる音が心地よい。眠気に誘われて私は目をつむった。

「幻覚だから好き勝手なこと言うけど、俺はなまえと一緒に住みたい」
「え」

 遠のきかけていた意識が一気に引き戻されて思わず目を開く。赤葦は眠っているみたいにまぶたを閉じていた。寝言にしてははっきり言っていたような気がするけど。

「寝てるの赤葦」
「寝てる」
「へえ」
「……」
「私さ、スーパーで一緒に買い物したい」
「……」

 赤葦のまぶたは開かない。返ってこない返事の代わりに、規則正しい寝息が夜の中にこだまする。


 先に目が覚めたのは私の方だった。お疲れの彼氏様になにか作ってあげようと冷蔵庫の中を見てみたが、料理の材料になりそうなものは何もなかった。野菜もない。冷凍庫の中には一食分の米がラップに包まれた状態でじっとしていた。
 料理してるって言ってたのに。まずは買い物だなと思いながらぐしゃぐしゃと適当に髪を結わえる。視線をあげると、ベッドに横たわった赤葦がじいとこちらを見ていることに気がついた。

「いつのまに起きてたの」
「さっき。おはよう」
「おはよ、声かけてくれたらよかったのに」
「いいなあと思って」

 何を、とは聞かずに自分のかばんに入っている化粧ポーチに手を伸ばす。のそりと起き上がった赤葦は大きな欠伸をした。

「何もなかったでしょ」
「うん。買い物行ってくる」
「俺も行く」
「寝てていいよ」
「いやいいよ。それに一緒にスーパー行きたいって言ってたじゃん」
「寝てると思ってたのに聞いてたんだ」
「まあね」

 胃が空っぽなことを自覚しながら、だらだらと外出の準備をする。赤葦は寝癖を直すのに四苦八苦していた。というかあまり直す気がないのか、何回か撫で付けた後にまあいいかと早々に諦めていた。
 ガチャリと玄関のドアを開けた瞬間にぬくい空気が肺いっぱいに入り込んでくる。土とか植物とか、そういう春の匂いがどうしたって私を嬉しくさせる。花粉は許せないけど。

「ぶえっくしゅ」
「なまえって花粉症だったっけ」
「そうじゃないと信じたい」
「思いっきりクシャミしたけどね今」

 太陽がまぶしくて何度も瞬きをする。風は思っていたより冷たかった。たかを括って赤葦の家にコートを置いてきたのは失敗だった。でも日向は太陽光のおかげでそこまで寒くない。春はあけぼのというけれど、私はやっぱり昼の暖かい時間が一番好きだなあ。

「そういえば昨日、赤葦が一緒に住みたいって言ったのは幻覚?」
「幻覚かもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「ええ はっきりして」
「そもそも俺がなまえと付き合ってること自体、俺の幻覚な気がしてきた」
「哲学〜」

 仕事が大変すぎて、夢と現実の区別がつかなくなっている赤葦は重症である。ちゃんと実在してるよと手を伸ばすと、彼は本当だとしみじみ噛み締めるように握り返してくれた。

「俺と一緒に住む?」
「うん」
「来週引っ越す?」
「えっ早くない?」
「善は急げっていうでしょ」
「荷造りとかあるしちょっと待って」
「至急ご対応お願いします」
「急に仕事口調やめて」

 道の途中で黄色い菜の花が咲いていた。赤葦が美味しそうと言うものだから思わず笑ってしまった。スーパーに売っていたら買うことにしよう。地面も空も建物も全部、夢みたいにきらきらしている。

211111 企画提出用
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -