月明かりに廊下がぼんやりと照らされている。時刻はもう2時を回っていて、聞こえる物音といえば自分の足が床を踏みしめる音くらいだ。することもないしコンビニでも行こうかなと寮の出入り口の方へのろのろと足を進める。どうせ時間は有り余るほどある。
 都内とは言っても郊外だからコンビニまで結構な距離がある。道路灯もほとんどないし真っ暗な道を一人で歩くのは少し怖いなあと思いつつ、自分のものではない、廊下が軋むかすかな音がふと背後から耳に入った。

「お前、夜な夜なまたどこほっつき歩いてんだ」
「伏黒か、びっくりしたー…」

 こんな時刻まで彼が何をしていたのかはしらないが、スウェットというラフな格好から、じきに就寝することはわかった。「夜のお散歩だよ」つとめて明るく答えると、伏黒の眉間に皺が寄る。何も言わず距離を詰められそうになったので、少し後ろに下がるとますます彼の表情は硬くなった。

「また眠れねえのか」
「え、いや、コンビニに急用があってね」
「いま何時だと思ってんだ」

 ぴしゃりと言われて口を噤む。彼の言った通り、ここ最近ずっと眠れないのは本当のことだ。でもそれを認めてしまうともっと寝られなくなる気がしてこわかったのだ。

−−お前、最近ろくに寝てねえだろ。
 そう指摘されたのは数日前の出来事だった。任務が終わって、伊地知さんに高専まで送ってもらう車の中。ぼんやりと窓ガラスから外を眺めていたときに、それまで隣で眠っていたはずの伏黒がこちらをじっと見て言った。そんなにひどい顔してる?と問うと、してる、と一言だけ返されて、女子への発言にわりと気を遣う彼が言うなんてよっぽど寝不足な顔をしているのだなと少しばかり傷ついたものだった。


「眠れなくても徘徊はすんなよ、危ねえだろ」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。お散歩だってば」

 呆れたようにため息をつく彼はもうとっくに眠りたいのかもしれない。任務に授業、それにある程度の家事もこなしているし、単独任務も任されているだけあって多忙な伏黒は疲れているはずで、身体は休息を求めているに違いなかった。だから、不眠症の私が彼の貴重な睡眠の邪魔をして迷惑をかけてしまってはいけないのだと思う。

「じゃあコンビニはやめて談話室にいる。これでいいでしょ?伏黒は早く寝たほうがいいよ」
「……お前はいつ寝るんだ」

 低く唸るような伏黒の問いかけには答えられなかった。だって、そんなの私が知りたい。
 目をつむれば数週間前に初めて殺した人間の顔が頭に浮かぶ。私が殺したのだ。もう受肉していたしすでに人間ではなかったから仕方がないと言われても、たしかにあれは人間だった。身体がどんなにヘトヘトでも、眠りたいとどんなに願っても、まぶたを閉じた途端にあの日が、あの瞬間が私を責め立ててくる。呪術師になると決めた時からああいう凄惨な場面は覚悟していたはずだった。していたはずなのに、自分のこころがどんどん壊れていくのを感じてしまう。ああ、やっぱり私って呪術師向いてないのかな。

「伏黒が一緒に寝てくれたら眠れるかもね」
 冗談めかしてそう言うと、彼は「そういうのは釘崎に頼めよ」と渋い表情を浮かべた。
「男と女でするもんじゃねえだろ」
「……野薔薇とはね、もう何回か一緒に寝てもらった」

 人肌というのはすごいもので、彼女が隣にいれば数時間程度は眠れた。けれども、毎日一緒に寝てもらうわけにもいかず、夜はこうして一人で時間をつぶすのが最近の過ごし方だった。
 一瞬動きを止めた伏黒はまばたきをして、長いまつげだなあと思わず見惚れていると、その綺麗な顔からは想像もつかないほど荒く小さな舌打ちをした。同じ歳とは思えないくらい大人びている彼のたまに見せる粗暴な男の子らしさが好きだった。

「メグミンが一緒に寝てくれないなら談話室で映画鑑賞でもしちゃお〜」
 うっすらとした絶望を抱え、ふざけるふりをしながら彼の横を通り抜けて談話室のほうへ足を向ける。彼の言動に一喜一憂するわけにもいかない。伏黒は見た目のわりにやさしいが、基本的に他人に干渉しない性格であることはこの数ヶ月で重々把握していた。
 何も音がしない。この世界でわたし1人のように感じる。数歩歩いて振り向く。伏黒はまだ同じところに立っていた。

「あれ?寝ないの?」
「……行くぞ」
「え、え、どこに?」
「俺の部屋だ」

 唖然と棒立ちになっている私との距離を伏黒は数歩でたちまち詰めた。手首を掴まれて月明かりの上を歩く。向かう先は本当に彼の部屋のようで、伏黒が本気で言っていることを知る。

「…まさか一緒に寝てくれるの?」
「それで、なまえは眠れるんだろ」

 ぶっきらぼうに答えた伏黒の横顔に、じんわりとぬくい体温が胸に満ちるのを感じた。これは彼の不平等な優しさだろうか。手首に込められた力はごくわずかであり、その気になれば振り切ることは簡単だった。逃げる選択肢すら残してくれる彼の配慮に甘い痺れが走る。

 男子が女子寮に入るのは至難の業だが、女子が男子寮に入るのはたやすい。こんなの女の子連れ込み放題だし、仮にも学校の寮なのだから間違いがあったらどうするのだろうとたまに思う。倫理観がどこかおかしい我が担任は、避妊さえすれば何やっても自由だからねと言いそうだけど。
 伏黒の部屋は綺麗に片付いていた。来るのは初めてではないけれど、此の所お互い忙しくて本当に久しぶりだった。ベッドの上の掛け布団は乱暴にめくられたままになっていて、もしかして彼はついさっきまでここで横になっていたんじゃないかとぼんやりと考える。

「お前はここで寝ろ、俺は床で寝る」
「…それじゃ意味なくない?」

 彼なりのせめてもの抵抗なのだと思う。分かりきっていて言っているのだ、この男は。

「一緒にベッドで寝ようよ」

 部屋の電気を消してからそのまま彼の右手をつかみ、ベッドの上に乗るとスプリングが軋む音がやけに生々しく部屋に響いた。顔をしかめた伏黒は諦めたようにため息をつき、しずかにマットレスに身を沈める。布団の中はまだ少しだけ温かくて、つい先程まで彼がここにいたことを教えてくれている。

「誰にでもこんなことすんのか」
「伏黒にだけだよ」

 ささやいた言葉が闇に溶けていく。狭いベッドの中、思っていたより距離が近くて頬が熱を持つ。小さく息をつくと、ふいに伏黒は左手で私の下瞼をゆっくりなぞった。かさついた指先が心地よくて目をつむる。

「くすぐったい」

はっと気がついたように手を離した伏黒は「悪い」と申し訳なさそうに言った。なにを謝ることがあるんだろう。尋ねようとすると、彼は寝返りを打ちこちらに背を向けてしまって、すぐに布と肌のこすれる音が止んだ。
 こっち向いててほしかったのになあ。名残惜しい気持ちのままに、身体の側面に置かれた彼の右手に手を伸ばす。一瞬ためらうように動きを止めた彼の手が私を振り払うことはなく、おずおずと握り返してくれる。呼吸で背中が上下しているのが暗闇の中でもよくわかった。ふたり分の体温が一つになって、血が通っているのだと当たり前のことを今更実感する。

 明けない夜はないという言葉はとうに聞き飽きた。私だってその言葉を信じていた。でも明けない夜もあると知ってしまった。夜は続く、続いてしまう。それでも。

「…今日は眠れるといいけどな」
「うん、ありがと。おやすみ」
「……おやすみ」

 背を向けたままでも手は離さないでいてくれる彼がいれば私はまだ息をすることができると思える。しんとした静けさと安らかな呼吸音が私たちを包む。カーテンが閉まっていて外は見えないけれど、私たちを照らす窓の外の月はきっと、ひどくやさしい。

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