エピローグ

 店員から先程受け取ったばかりのコーヒーを口に運ぼうとしたものの、プラスチック蓋の狭い口から立ち上ってくる蒸気があまりにも熱くて断念した。飲みたいのにそれを阻まれる感じが無性に焦燥感を煽ってくる。
 意味もなく指先で熱いカップをくるくると回していると、ティーカップを手に持った長身の男が正面に座り、「もうちょっと落ち着きなよ」と顔をしかめる。

「落ち着けるわけなくない?あと少しで結果出るんだよ?」
「そうだけど、焦ってもしょうがないじゃん。大人しく観念しなよ」

 約2週間ぶりに会った幼なじみは相変わらず口が悪くて、内面は何も変わっていないことに心の奥で安堵してしまう。

 前回会ったのは約2週間前に大学の受験会場で、その前に会ったのは一年半前の夏、つまり高校2年の夏が最後だった。蛍と同じ大学に行くと決めてから毎日必死に勉強したものの、そもそもの学力は彼のほうがうんと上だったので、同じ大学を受験しただけでもかなり頑張った方だと思う。頭脳明晰の蛍が第一志望の大学に合格することはそこまで難しいことではないかもしれないが、私にとって合格するか否かはそれこそ手に汗握るほど大問題である。

「蛍は何飲んでるの?」
「ホワイトホットチョコレート」
「うわ、甘そう」

 それ裏メニューじゃない?と思ったが、だから何?と返されそうだったので黙っておく。カスタマイズしてるのをアピールする男ってカッコ悪いよねと昔言ってたのを思い出したからだ。

 店内にはちらほらと客が居て、パソコンで作業しているサラリーマンや本を読んでいる女性、一緒に勉強している若いカップル等が各々の時間を過ごしている。この中で、たった今人生の岐路に立たされている人はどのくらいいるのだろう。

 黙ってひたすらコーヒーを飲んでいる私を蛍はじろじろと眺めてから自身のティーカップに視線を落とし、長い指でカップの装飾をゆっくりとなぞった。

「珍しく一口欲しいって言わないんだね。あと静かすぎて気持ち悪い」
「動揺してるんだってば。蛍こそ貧乏ゆすり多くない?」

 図星なのか、むっとした表情を浮かべた蛍はたちまち私のカップを取り上げ、自身の口に運ぶ。一口ごくりと嚥下すると「にっが。よくこんなの飲めるね」と勝手に飲んだくせに勝手なことを言い放った。こんなバカなやり取りをしているうちに時間は刻一刻と進んでいく。

 時計を確認すると、合格発表の時刻まであと10分を切っていた。そろそろ行こうと声をかけると、いつのまにやら飲み終えていた蛍が頷き、ゆっくりと立ち上がる。


 外に出た瞬間、もう3月だと言うのに容赦がない冷気が肌を突き刺し、全身の筋肉が熱を逃さぬよう縮こまる感覚がした。大学のほうへ二人並んで歩きながら、一緒に合格発表を見に行こうと誘った数日前の自分を恨めしく思う。だって合格している気がしない。

「自己採ぎりぎりだったんだよね〜蛍は?」
「僕はまあ、解答欄ミスったりしてなければ大丈夫」
「さっすが」

 10メートルほど先に、私たちと同様に合格発表を見に行くのか、同じ歳くらいの男の子とその母親らしき人が歩いているのが見える。あの子も受かればいいのになあ、寝る間も惜しむくらい頑張った人はみんな合格できればいいのに。あの子のこと何も知らないけど。めちゃくちゃな願いだとは分かっていてもそう思わずにはいられない。

「大学でもバレー続けるんでしょ」
「多分ね」
「私は何のサークル入ろっかなあ、飲みサーはちょっと怖いしなあ」
「そういうとこは辞めときなよ」
「やっぱ蛍もそう思う?あ、あと必要な家具は一緒に見に行こうね」
「……そうだね」

 ハァとため息をついた蛍が突然私のマフラーを引っ張ったものだから思わずよろめき、抗議するべく顔を上げると頬をぎゅうと摘まれる。彼の冷たい指先にぎゃあと叫び声を上げると、呆れたように「もうちょっと色気のある声出せないの」と失礼なことを言われた。

「出せたらもうとっくに出してます〜」
「なまえに期待した僕がバカだった、ゴメンネ」
「ゆるさん」

 頬から手を離した蛍がかすかに笑う。ちょっと止まってこっち立って、と言われるままに彼に背を向けた状態で正面で立ち止まると、器用にマフラーを巻き直してくれた。優しいんだか意地悪なんだか、悔しいことに何年も前から私は彼にペースを崩されっぱなしだった。

「…番号あるから、大丈夫」

 言い聞かせるように呟いた彼の言葉がすとんと胸に下り、じんわりと温かな熱を持って全身に広がっていく。肺に酸素が満ちて、さっき飲んだコーヒーの苦味を舌が思い出し、驚くほど早い心臓の動きを自覚する。冷え切っている指先を自身の掌に押し当てながら、そういえば蛍と夏以外に会うのは初めてだなと思った。

 大学の正門を通り抜けて少し歩くと、合格発表の掲示板の前には思っていた以上に人が集まっていた。自身の番号を指差すポーズで記念写真を撮っている人が何人かいて、思わずごくりと唾を飲む。
 鞄から自身の受験票を取り出し、受験番号を頭の中でひたすら繰り返しながら目を凝らして合致する番号を探す。「あ、あった」と隣にいる蛍が声を出して、指差す先には彼の受験番号が確かに印字されていた。

「すごい!おめでとう!」
「それはいいから、なまえの番号なきゃ意味ないでしょ」

 せっかくめでたい瞬間だと言うのに、掲示板から目を離さずぽつりと言う蛍の姿を見てどうしようもない気持ちが込み上げてくる。自分の番号に近い数列を見つけてその先をひたすら追う。

「あった」
 蛍が呟いたのと自身で番号を目視したのはほぼ同時だった。
「受かってる!」

 思わず横にいる蛍の手を掴むと「だから言ったじゃん」と平然と言いのけ、やんわりと握り返された。珍しく穏やかな笑みを浮かべている彼の表情を見て、もう一度掲示板に印字されている番号を見て、合格しているという事実を確かめる。目の前がくらくらとして、体温が上がってきたかと思うと目の端からうっかり涙が出た。

「そろそろ行くよ」
「えええ、もう少し余韻に浸らせてよ…!」
「何言ってんの。家具見に行くんでしょ?アパートの管理人さんにも連絡しなきゃだし、忙しいよ」

 さっさと歩き始めた蛍の後を追い、ふと視線を上げると細い木にちらほらと梅の蕾がついていることに気がつく。もうすぐ春で、新生活が始まるのだと明るい気持ちに満たされていく。季節は巡り、夏以外の時間も一緒に過ごせると思うと高揚感で胸がいっぱいになった。

 春が来たらあれこれと新歓に顔を出し、あのサークルがどうだったとか好き勝手言いながら一緒に学食を食べたいな。夏は海に行って、花火も見に行きたいし。秋は大学祭があるだろうから、一緒に回ってくれるといいなあ。冬は雪がつもって通学が大変だろうけど、夜に家でゆっくり鍋をして風邪をひかないように気をつけよう。お互い友達ができて、レポートに追われることがあっても月に一回は一緒に美味しいものを食べに行きたい。バレーボールの試合はダメと言われてもこっそり見に行くんだ。

 まだ見ぬ未来を想像して、自分勝手な計画を蛍に伝えたら少し顔をしかめて、でもきっと一緒に過ごしてくれるのだと思う。

「月島くんはモテるだろうし、ふらふらどっかに行かないでね」
「なに言ってんの?なまえこそ、どこにも行かないようにちゃんと見張ってるから」

 出会ってからもう10年以上経つのに、お互いの知らない部分がたくさんある。そういう部分をこれから間近で実感して、喧嘩をすることもあると思う。それでも、彼のかすかなシグナルを見逃さなければ大丈夫だと思える。
 明日からは引っ越しの準備が始まる。数週間後には入学式があって、そのころには桜が咲いているのだろう。新しい毎日が始まる。
 春がきて、夏がくる。また夏がくる。


夏虫
210329 end.
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