夏の夜が好きだ。土やら植物やらの匂いがゴチャゴチャに混ざり合って、ゆるやかな高揚感を与えてくれるし、雑踏の喧騒の中でも耳を澄ませば少し離れた所から虫の鳴き声が聞こえてくる。日中よりもわずかばかり気温が下がって、深呼吸をする余裕ができる。

「俺の誘い一回断ったくせに、急に思い出したようにお祭り行くって言うからさ〜なまえちゃんも行くって知って納得したね」

 明光くんは車から降りてすぐ近づいてくると、これからイタズラをする子どもみたいな笑みを浮かべながら小声で耳打ちした。忠も来てくれたし今でも仲良くしてるお前ら見てると俺も嬉しいよ、と笑う彼は私たちを優しく見守ってくれる保護者みたいだと思う。昔はよく一緒に遊んでくれて、くだらないことで蛍と喧嘩した時は仲直りのきっかけを作ってくれたものだった。
 「私が駄々こねたから」と一応言い訳してみたが、どうしても期待してしまうのは許してほしい。顔を上げると、忠と何やら喋っていた蛍がちらりとこちらに視線をよこしてすぐにまた前を向くのが見えた。お祭り会場の入り口で足を止めた二人の背中に追いつく。

「お前らほんとでっかくなったな。見つけやすくていいけど」
「そんなに背高いと学校でモテるでしょ」
「俺ツッキーが告られてるの見た!」
「山口うるさい」

 ごめんツッキー!と謝る流れが懐かしくて思わず笑ってしまう。本人たちは不本意だと思うけど、この二人ずっとコントしてるみたいだ。蛍が告白されたという事実に脳の奥の方がしびれる感覚がしたものの、その苦味がすぐ流れていくくらいにお祭りの雰囲気に飲まれ、気持ちはいつもよりずっと浮かれていた。



 辺りを見渡すと数メートル離れた場所で、焼きそば屋の列に並んでいる蛍がスマートフォンを操作しているのが見えた。明光くんも言っていたけど、平均よりも身長が高いおかげで、すぐ見つけることができるのが有難い。
 たこ焼きが入ったプラスチック容器を落とさないよう注意しながら近づくと、気配に気がついたようでこちらを振り返る。男子高校生らしく食べるイメージがない彼にしては、意外なチョイスだなとぼんやり思う。

「焼きそば人気なんだね」
「まあ回転いいからすぐ順番来ると思うよ」
「確かに。じゃあ私、忠のこと探してくる」

 忠と明光くんも含め、各々が食べたいものをまずは調達しようと全員一致で決定したのは十数分前のことだ。明光くんはもう大人だから大丈夫だとして、もう一人の幼なじみである忠は食べたいものをきちんと手に入れられただろうかと心配だった。
 後でね、と小さく手を振って片足に重心を乗せ、身体の向きを変えようとした束の間、手首を掴まれて危うくたこ焼きが地面に落ちかけた。

「なまえが迷子になったら探すの面倒だし、ここに居なよ」

 腕を掴まれたまま列が一歩進む。腕に置いていかれぬよう自分も一歩進んだが、捕まったままなので身体の重心はどこか居心地悪い感じがした。蛍の番がくるまであと二人だ。

「ちょっと!たこ焼き落としかけたじゃん!」
「ちゃんと持ってないのが悪いでしょ」
「…ここにいるから離して」

 子どもがつく嘘を見定めるかのような視線を受けてから数秒、ぱっと手が離れて手首がじんじんと熱を持っているような気がした。口が悪いのはいつものことだけど、今日はいつもより少し機嫌が悪いのだろうかという直感が頭をよぎる。
 本人に直接確認しようと顔を上げ、意外にも口角がやや上がっていることに気がついた。あれ?

 これは一体どういうことだと思案していると、背後から月島くんと呼ぶ黄色い声が聞こえて振り返った。自分と同じくらいの歳の女の子が三人立っている。三人とも淡いパステルカラーの浴衣の胸元はわずかに緩んでおり、アップされた髪には大ぶりの花飾りがついていた。

「月島くんもわざわざ仙台まで来てたんだ〜」
「…まあね」
「そっちの子は、もしかして彼女さん?」
「え?…そうだけど」

 蛍は「そう」が肯定の意味だと分かって使っているのだろうか。それとも私の聞き間違えか。月島くんやっぱり彼女いたんだ!と笑う女の子たちの声色はきらきらしていて目眩がした。
 おそらく同じ高校の子たちなんだろうなと容易に想像できて、自分が存在しないコミュニティで彼は普段生活しているのだと改めて思い知らされる。私の知らない、見たことがない会話や表情、動きが全部そこに詰まっているという事実に図らずも嫉妬していた。が、息をするように嘘をつく彼の器用さに振り回され心臓がどくどくと波打っている。

「まーた嘘ついてる」
「ああ言っとけば、下心で構ってくる奴もいなくなるでしょ?」

 可愛らしい笑い声を上げながら離れていく女の子たちのひらひら揺れる帯を見送りながら、上手いこと利用されたものだと冷水を浴びた気分になる。屋台のおじさんから釣り銭を受け取った蛍は悪びれる様子もなくこちらを一瞥すると、ゆっくり歩き始めた。

「……月島くんはモテモテだし、彼女できたらもう一緒に遊べなくなっちゃうね」
「なに言ってんの?なまえは4ヶ月前に知り合ったばかりの奴に負けると思ってるんだ?」
「思ってるよ。だって一年に一回しか会えないし」

 足を止めて振り向いて、一歩こちらに近づく。背中を丸め、ずずいと顔が近づけた蛍の表情から感情を読み取ることはできない。一瞬なまぬるい風が通り抜けて、ソースの匂いが鼻をかすめる。屋台の後ろの茂みからは、無数の虫が羽を擦り合わせて己の居場所を教える音がかすかに聞こえてくる。
 ふーん、と呟いた蛍は冷め切った目をしていて、私の言葉が彼を怒らせたのだとすぐにわかった。

 もうすっかり日が落ちて辺りが暗くなっているのとは対照的に、煌々と照らされた屋台の看板が色鮮やかに視界の端に揺らめく。離れていく高い背中を見つめながら、もし茂みの中にホタルが飛んでいたとしても、普通は気付くはずがないんだろうなと他人事のように考えていた。


◯◯◯



 人類が快適に過ごすことができない気温の中、熱がこもる体育館で朝から晩までバレーボールをするのは馬鹿げているとしか思えない。それを分かっていてもなお、ひたすら練習している自分も馬鹿だなと呆れてしまう。

 休憩時間に入り、少しでも暑さを紛わそうと窓際の床に腰を下ろすも、悲しいかな涼しい風は全く入ってこなくて、拭けども拭けども汗が滴り落ちてくる。「ノヤさんかっけー!」と叫ぶ日向の大声が暑苦しくて思わず顔をしかめていると、汗を拭きながら近付いてきた山口が隣に腰を下ろした。

「暑すぎるよね。これもう40度超えてるんじゃない?」
「どうだろうね、知りたくもない」

 さすがに東北だからそれは無いと言いたかったが、そう思ってしまうのも無理もない暑さだ。休憩時間だというのに走り回っている日向と西谷さんは、体温中枢がバグっているとしか思えない。あの人たちバカすぎて暑さ感じてないの?なんなの?
 ため息をつくと「そういやなまえっていつあっちに帰るんだっけ?」と思い出したように山口が首を傾げた。つい先日の彼女とのやり取りを反芻し舌が苦みを帯びる。

 たまたま家族の都合で知り合っただけの自分たちが毎日顔を合わせるクラスメートよりも親密になる方が難しいとわかっていたはずだった。親たちの都合で一生会えなくなる、なんてことも十分に起こり得るほど彼女との繋がりは随分とゆるいものだった。
 なまえが普段どんな人と仲良くしていて、どんな道を通って学校に通っているかなんて全く知らない。けれどもなまえに改めて言われるとムキになって、子どもみたいに苛立ちを全面に出してしまったのだ。結局あの日以来、顔を合わせていない。

「さあ……金曜って言ってた気がするけど」
「そうなんだ。会いに行かないの?」
「なんで?」

 質問を質問で返されたせいか、山口がわずかに動揺の色を滲ませて一瞬言葉に詰まる。

「…一年のうちに何があるか分かんないだろ」

 今度はこちらが言葉に詰まる番だった。次会うとしたら一年後だ。お互い高校2年生で、僕はバレーボールを辞めているかもしれないし、山口は転校しているかもしれないし、なまえがもう来なくなるかもしれない。
 でもどうせ僕らは子どもで、親や教師の言うことに従うしかない。毎日の中で決められるのは、自動販売機でどの飲み物を買うか、どの教科から宿題をするか、部活の帰り道に誰の曲を聴くか、なんてくらいのちっぽけな決断で、大して意味をなさないのは十分分かっている。

 集合ー!と主将の呼ぶ声が体育館に反響し、立ち上がった反動でスクイズボトルがかたんと小さく音を立てて倒れた。



 何度目かのコールでプチっという小さな電子音と「はーい」と電波に乗ってやや歪んだなまえの声が鼓膜を揺らす。名乗ろうとしたところで「ちょうど良かった」と耳元で彼女のくすくすとした笑い声が聞こえた。

「私も蛍に電話しようと思ってたところだったから」
「そりゃ奇遇だね」
「うん。明日帰るし、最後に会おうと思って」
「会う?」

 うん、と頷いた彼女に居場所を問うと、「もうすぐ蛍ん家着くよ」と返答が来る。たしかに電話の奥から虫が羽を擦り合わせる音が聞こえてきて、時計を確認すると21時に差し掛かっていた。来る前に連絡すればいいものを、いきなり来て僕が風呂とかに入ってたらどうするつもりだったんだろう。

 慌てて部屋から出て階段を下りると、キッチンにいる母親が怪訝そうにこちらを伺ってくる。「どうしたの?」「ちょっと外出てくる。すぐ戻る」返答も待たずに靴を引っ掛け玄関のドアを開くと、門の前になまえが立っていて小さく手を振った。

「ナイスタイミング!」
「なまえってほんと考えなしだよね」
「会って早々悪口?」

 拗ねたように一瞬口を尖らせるも、次にはもう屈託のない笑顔を浮かべていて、見ているこっちが調子を狂わされてしまう。換気扇から浴室の石けんのような匂いが漂ってきて自宅前にいることを思い出す。「歩きながらでいいよね」と声をかけ適当な方向へ足を進めると、歩幅の違いを実感してしまうような足音が背後から追いかけてきた。

 日中よりも気温が下がり、歩くだけではそこまで汗をかくこともない。大して遅い時間でもないのに辺りはしんとしていて、遠くから車が通る音と虫の音が聞こえてくる。夏の夜は嫌いじゃなかった。

「ごめん、蛍にひどいこと言ったよね」
「…何のこと」
「クラスメートには勝てないって言ったでしょ」

 足を止めて隣を見ると、なまえもこちらを見上げていて思わず視線を逸らす。勝ち負けの話を最初に出したのは自分であるものの、そもそも敵と味方ではない限り、人間関係に勝ち負けなんてあるはずがなかった。自分たちの繋がりはゆるいものではあるが、一年に一度しか会えなくても10年の付き合いが消えるわけではないし、クラスメートとは別の存在だろう。ていうかクラスの女子とか正直どうでもいいし。
 そう分かってはいても、なまえが自分の知らないところで仲良くしている知らない男には負けたくないと思ってしまう。一瞬間を置いて相槌を打つと、目の前の幼なじみが小さく息を吸うのが分かった。

「私ね、蛍と毎日会うクラスメートには負けるけど、大学は一緒のとこ行けるように勉強頑張るね」

 成人に満たない高校生にできることは随分と限られている。このような田舎では、学校に行って部活して宿題をしてまた学校に行く毎日が当たり前だった。でも、そんな毎日でもちょっとした積み重ねで、未来を変えることはできる。

 名前を呼ぶ声にはっと意識を戻すと、自分の腕の中には狼狽しているなまえがいて慌てて腕を離す。息が止まっていたのか大きく息を吸った彼女は「急に何するの」と上擦った声を上げた。無意識にこんなことをしてしまった自分の理性を怖いと思いつつ、それでもなまえの紅潮した頬を見れたのは気分が良かった。

「何でもない。そろそろ帰らないと」
「蛍はもうちょっと動揺とかしたほうがいいと思う」
「そんなこと言うなら送らないけど」

 いじけたような表情を見せた束の間、諦めたのか黙って着いてくる彼女がどこにも行かなければいいのにと願ってしまう。絶対言わないけど。あと僕だって動揺くらいするということも絶対に言わない。いつでも落ち着き払ってて余裕があるという認識のままでいればいいんだ。「手とか繋いじゃう?」とふざけて言うなまえの手をとると、驚いたように目を見開き、ゆっくりとこちらを見上げて何か言いたげに口を開く。

「うるさい」
「まだ何も言ってないよ」

 住宅街の街灯がゆらゆらと視界の端にゆらめく。街灯には小さな羽虫が集ってモヤがかかったようだった。

 明日も部活だし、次の日もその次の日も朝から晩までバレーボールだ。なまえは明日自分の家へ帰って、普段生活している土地で同じような毎日を繰り返すのだろう。けれども同じように見える毎日は、たしかに未来へと繋がっている。首元をぬるい風が通り抜け、握られた手にわずかに力をこめた彼女は夏だねえと小さな声で呟いた。

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