未だ緑が淡い。窓の外の景色がまだ色褪せているから、外は寒いんだろうなあとなんとなく思って、身体が勝手に縮こまってしまう。
 そうして外に出てみると、予想よりもうんとぬくい風に拍子抜けして、その気が緩んだ瞬間にウイルスだとか花粉だとか身体によくないものが、一斉に押し寄せてくる。

「え……?」

 気怠い身体を無理やり動かし、なんとかドアを開けるとふてくされた様子の堅治が両手でタッパーを抱えたまま立っていた。一体なんの用だろう。驚いている私に「親になまえの様子を見てこいと言われたから」と彼はもごもご言って、タッパーをこちらに差し出した。
 なるほど。おそらく昨日、母親が私の風邪のことをお喋りのついでに堅治のお母さんにも話したのだろう。ちなみに我が母は適当にカップうどんでも食べててと容赦なく言い残し、仕事に行ってしまった。

「もらって良いの?」
「お前が食わないなら俺が食う」
「……」
「冗談だよ。勝手に食ったらキレられる」

 卵焼きやら唐揚げやら美味しそうなお菜が入っているのがわかって、わずかしかなかったはずの食欲が刺激される。「ありがとう」「うん」堅治はそのまま帰るのかと思ったけれど、用が済んだのにも関わらずその場所に居て、居心地が悪そうに身じろぎをした。

「昼飯まだだろ?」
「……そうだけど」
「俺が準備するからお前は寝てろ」

 え。困惑する私には構わず、堅治は靴を脱いで家に上がった。踏みしめられた廊下がぎしりと音を立てる。久しく会っていなかった堅治の身長は、まだ伸びているらしかった。

「大丈夫だよ。自分でできる」
「いいから寝てろ。かわいくねーなー」

 キッチンに向かう堅治の行く手を阻もうとすると露骨に嫌そうな顔をして、「俺にうつるから来んな」とまで言われた。タイミング悪く咳をすると、ほら見ろとジト目で睨みつけてくる。肩を軽く押されてあっけなくよろめく。
 頭が重たいせいでうまく抵抗できなかった私は、どうしようもなくずるずると足を引きずって、自室のベッドに身体を埋めた。

 どういう風の吹き回しだろう。これは彼なりの優しさなのだろうけど、もう少し分かりやすくしてくれたっていいのになあとぼんやり思う。
 マスクが口と鼻を塞ぐせいで上手に息ができない。頭にもやがかかっているような感じがするから、堅治が来たのは夢なような気がしてしまう。
 うっかり眠気が襲ってきて目をつむる。そうして微睡んでいると、控えめな音を立てて扉がひらいた。

「起きろ病人」

 投げかけてくる声はやけにやさしい。

「せっかく俺が用意してやったんだから感謝して食えよ」
「作ったのは堅治のお母さんじゃん」
「あ?」
「何でもないです」

 許可も得ずにずかずかと部屋に入り込んできた堅治はここが女子の部屋だというのを分かっているのだろうか。分かってないんだろうな、きっと。
 ため息をついたのを堅治は誤解して受け取ったらしく、起き上がろうとする私の手を掴んで上に引っ張り上げる。慣れないことをしたからだろうか、思いのほか強い力だったせいで前につんのめった。「悪い」そっけなく謝られる。
 部屋の片隅にあるローテーブルを引っ張り出して、皿がいくつか載った盆をその上に置く。私の正面に堅治がどっかりと座ったものだから、いくらか困惑した。

 もたつきながら箸を握る私を堅治は静かに見ている。そんなに見られると食べづらいからやめてほしいのだけれど、他にすることもないだろうから仕方がないのかもしれない。
 いつまでもここに居るなんて暇なの?そう言おうとして、やっぱりやめた。身体の不調のせいで気が弱くなっているに違いなかった。

「へえーもうお前も高校生か」
「そうだよ」
「あんなにチビだったのに」
「歳ひとつしか違わないじゃん」

 まだ1週間分の私しか袖を通していない真新しい高校の制服が壁にかかっているのを眺めながら、堅治がにやりと笑う。私は箸をうっかり噛んだ。

「こんな大事な時期に学校休むなんて大丈夫かよ」
「え?なんで?」

 友達、出来ねえんじゃねーの。私が今日一番気にしていたど真ん中を突き抜かれる。テーブルの向こう側の堅治の足を蹴り上げると、いくつかの皿ががたんと揺れた。危ねえなとも痛いとも言わずににやにやと笑う顔に腹がたつ。そうだ、堅治はこういう奴だった。久しぶりすぎて忘れてた。

「まあなまえに友達できなかったら、俺が仲良くしてやるよ」
「さっさと風邪治して、友達も彼氏も100人つくるから別にいい」
「は?彼氏なんてできるわけねーだろ」
「そんなの分かんないよ」
「だってお前地味じゃん」

 ほんとに嫌なとこばかり突いてくると思う。やられっぱなしでいるわけにはいかないので、中学の卒業式に告白されたことを告げると堅治は目を丸くした。チッと舌打ちして、身を乗り出してくる。そんなに食いついてくるとは。

「で、付き合ってんの?」
「堅治には言いたくない」
「言えよ」
「やだ」
「そいつ俺よりイケメン?」
「超イケメン」

 ほんとうは顔は堅治のほうが格好いいと思うけれど、黙っておくことにする。不機嫌そうな表情を浮かべた彼は「さっさと別れろよ」と言った。その人とは付き合わなかったとは教えてあげない。そんなに私に彼氏ができるのがむかつくのだろうか。自分に彼女ができないからって。


 それからというもの、何を思ったのか堅治はことあるごとに私の部屋を訪れるようになった。悔しいことに彼氏はできないけれど、友達はそれなりにできた。
 できたのに、堅治は土日の部活終わりやらオフの日やらに「先輩が勉強教えてやるよ感謝しろ」と言いつつやって来る。母親は何も知らずに「最近また仲良くしてるのねえ」と嬉しそうだった。

「ねえ、堅治」
「……んだよ」

 目の前の幼なじみに声をかけても返事に力がない。眠気が相当強いのだろう。最近はいつもこうだった。そこまで疲れているのに私の部屋にやってくるのが心底不思議だ。
 工業高校に通っているし、もしかして私でも良いから女子と喋りたいのかも。一瞬頭をよぎって、そんなわけないと頭を振る。堅治が私のことを女子と見なしているわけがない。だっていままで散々馬鹿にされてきたのだ。

「そんなに疲れてるなら帰れば」
「……疲れてねーよ」
「さっきから居眠りばっかしてるし」
「お前これはアレだ、五月病のせいだ」
「もう6月になっちゃうよ」

 あんなに淡かった緑はもうすっかり色濃い。もうすぐ春が終わろうとしている。
 堅治は目をこすると、大きなあくびをした。なんとか身体を起こすと、ローテーブルに広げられたノートをぼんやり眺めている。腑抜けた表情をしていても綺麗な顔だと思った。

「部活そんなに大変なの?」
「あー、まあ大会近いからな」

 そういえば堅治の通っているところは強豪なんだっけ。見た目はちゃらんぽらんなくせに部活はちゃんとやってるんだってちょっと感心した。ちょっとだけ。



 堅治ったらお弁当忘れて行っちゃったのよ、と困った顔でおばさんは言った。これから出かけるから届けられないのだという。

「申し訳ないけど、なまえちゃん持っていってくれない?」
「もちろんです。暇だし」

 おばさんは何度も礼を言った。昔からずっとお世話になっているしこのくらい朝飯前である。
 伊達工までの行き方を検索してから家を出た。以前から堅治の高校に行ってみたいと数回言ったことはあるけど、毎度「ぜってー来んな」と大反対されていたので実際行くのは初めてだった。怒られるかなあ。

 おばさんに教えられた通り、休憩時刻を見計らって電話をかける。でも出なかった。『お弁当届けに来たけどどこにいる?』とメッセージを送っても既読はつかない。困った。
 とりあえず体育館らしき建物に向かおうと歩き始めたところで声をかけられた。振り返ると二人組の男子生徒がヘラヘラ笑いながらこちらの様子を伺っている。

「うちの生徒じゃないよね?何か用事?」
「あ、勝手に入ってごめんなさい。お弁当届けに来ただけで…」
「ふーん?彼氏とか?」
「違います。知り合いの」
「へえ。それ届けたら暇?」
「まあ暇といえば暇ですけど」
「じゃあ俺らと遊ぼ」

 校内に入って数分で声をかけられるとは思わなかった。工業高校はすごいところだと他人事のように感心する。私みたいな地味な女子でも興味をもたれるなんて。
 体育館のほうに向かいたいのに、彼らはそれを許さなかった。どこの高校通ってるの?今何年生?ライン教えて?次々と質問が飛んできて困ってしまった。早くしないと堅治の休憩時間が終わってしまう。

「おい」

 腕を引っ張られる感覚と聞き慣れた低い声がして、二人組の視線が私の背後に向く。堅治だってすぐにわかった。振り向くと、怖い顔をして男子生徒たちを睨みつけている。体格のせいかかなり迫力があって思わず息を呑む。

「こいつ俺のだから。もう声かけんなよ」

 堅治はそそくさと立ち去った二人組をもう一睨みすると、だから嫌だったんだよと大きくため息をついた。

「私べつに堅治のものじゃないんだけど!」
「助けてやったんだから文句言うな」
「……助けてなんて言ってない」

 我ながら可愛くないとは思う。でも私がどこの誰にナンパされてようが堅治には関係ない。不機嫌そうに彼の顔がゆがむ。預かったお弁当が入ったトートバッグを堅治の手に押し付ける。逃げようとしたがそれは叶わず、手首を掴まれてビリビリと鈍い痛みが走った。

「ふざけんな」
「だって本当のことだもん」
「勉強教えてやってるのも、風邪ひいたとき看病してやったのも、誰だと思ってんだよ」
「どっちもほとんどしてなくない?あれ記憶喪失?」
「なまえは何にもわかってない」

 わかってないって。分からないよ、全然分からない。考えていることがあるならちゃんと言ってほしい。
 堅治は自身の髪をぐしゃぐしゃにかきむしって、「あー」とか「うー」とかうめく様に俯いた。よほど言いにくいことらしい。いよいよ休憩時刻が終わってしまうと心配になってきた。

「堅治」
「あ?なんだよ」
「まさか私のこと好きとか?」

 ぱっとこちらを見た堅治の顔がみるみる赤く染まっていく。なにその反応。思いがけない展開に息が止まる。全身がどくどくと脈打つ。腕を掴む力がゆるんだその隙に、今度こそ私は逃げ出した。



 徹底的に堅治を避けるようにしてから数週間。電話もメッセージも無視していたのに、家に帰ると何故か堅治がいた。私の部屋に上げないでって母親に言っておいたのに、うまく言いくるめられたらしい。うちの母親、堅治に甘いからなあ。

「部屋間違えました」
「間違えてねーよバカ、逃すかよ」

 後ろからにゅっと腕が伸びてきて影がさす。がちゃりとドアが閉まった。ドアノブを回して引いてもピクリともしない。逃す気がないのは本当らしい。

「いま流行りの壁ドン?」
「もう流行ってねえだろ。何年前の話だよ」
「じゃあなに?なんで壁ドン?いやこれドアドン?」
「ドンドンうるせえな」

 なんとか堅治の興味を逸らせば力がゆるむかなと思ったけど無駄だった。そろりと振り向けば想定以上に距離が近くて面食らう。これは良くない。
 つとめて真顔を保とうとする。頬が発熱しているのかと思うほど熱い。対して堅治は涼しい顔をしていた。この前とは大違いだ。なんで?

「散々俺のこと避けやがって」
「気のせいだよ。それで何用です?」
「この前の話の続き」
「この前?なんのこと?とりあえずこの距離感やめない?照れちゃう」
「無理。だってお前逃げるだろ」
「逃げないって約束する」
「ハイハイ」

 約束すると言ったのに、堅治は動かなかった。横にずれればその分距離を詰められる。こういうの鉄壁って言うんだっけ。
 仕返しするべく「私のことが好きって話?」と尋ねる。「そうだよ」そう平然と返ってきて、ぞくりと背筋が震える。ちがう、こんなはずじゃなかった。

「俺でいいだろ。負けてる所ある?」
「相変わらずすごい自信」
「茶化すなよ」
「負けてるって何に、誰に」
「彼氏いんだろ」

 呟くように言った堅治の声は少し震えていた。反射的にそんなの居ないよと言う。堅治は唖然としたように目を見開いた。

「は…?」
「告白されたのは本当だけど付き合ってはない」
「は?は?じゃあ全部俺の勘違いかよ」
「そうなるね」
「何なのお前。責任取れ」

 勝手に勘違いしたのは堅治なのに、横暴なことを言ってくる。ハアと大きなため息をついて、さっきまでの余裕そうな表情はどこへやら、うろたえたように睨みつけてきた。空気がゆるんだのが分かって、その様子が少し笑えてしまった。

「なまえ」
「…?」

 気を抜くとろくなことがないのは春の初めに散々感じたはずだった。好きだと告げる堅治の低い声がするりと耳に入り込んできて、これまでで一番大きく心臓が音を立てた。ようやく調子を取り戻した幼なじみがにやりと笑う。いや、もうただの幼なじみではいられないようだった。

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