角が削れて丸くなった消しゴムがうっかり自分の手を離れ、ころころと転がっていく。机から落ちたところで下を覗き込むと、正面に座っている北の足下に落ちているのが見えた。
 取りに行くために席を立とうとしたところで北が自身の真下の床に視線をやり、静かに身を屈めて手を伸ばす。窮屈な姿勢だったのか椅子が少しだけ後ろに滑り、勉強している受験生だらけの図書室にはやたら大きく響いた。何人かはこちらを一瞬見たがすぐに興味を失ったようで、あとは紙をめくる音とカチカチとなるシャーペンの音が戻ってくる。
 無言で手渡された消しゴムと共に北の乾いた指先が手のひらを掠め、ありがとうと呟いた言葉は静寂に飲み込まれていった。


「何を拗ねとるん」

 もう何百回も聞いたであろう下校時の放送に流れる音楽を聞き流しながら、下駄箱から靴を取り出したタイミングで北が問う。靴を床に放り投げ、右足のローファーがバランスを崩して倒れた。

「別に拗ねてへんし」
「嘘や」

 いつもなら乱雑に物を扱うのが気に食わず顔をしかめるはずの彼が静かにこちらを見ている。こういう時の北からはどうしたって逃げられないのはこれまでの付き合いで痛いほど知っている。

 別に大したことじゃなくて、本当に些細な出来事だった。クラスメートの女子が落としたペンケースから筆記用具があれこれと転がり出て、それに気がついた北が拾うのを手伝っただけの話。「気ぃつけや」とやさしく言う彼に対して礼を述べるクラスメートの上ずった声には少なからず好意が含まれていると、あの現場を目撃すれば誰しもが気づくだろう。
 周りをよく見ており、困っていれば誰に対しても平等に手を差し伸べる北のことが好きだった。でも良いと思っているのは何も私だけではない、ましてやうちの強豪バレー部元主将だ。宮ツインズが注目されがちだが、好意を寄せる人が多くいるのは当たり前だと思う。

「じゃあ拗ねとるけど、言いたくない」
「何で?」
「しょうもないから」

 首を傾げた北の横を通り抜けて昇降口を出ると、冷えた空気が皮膚を刺して思わず身震いした。着いてきた彼と並んで歩いていると体育館のほうから「北さんや!お疲れっす!」と叫ぶ大柄な男子が見えて、隣にいる彼もやや大きめに手を振り返す。
 北が部活を引退して一緒に過ごせる時間は増えたものの、受験がどんどん近づいてきているので会話は以前より増えたとは言い難い。いやでも、下校時間までこうして一緒に勉強して、帰り道を共にできるようになっただけありがたいと思った方がいいんだろう。クラスメートとのたったの数分間にすら嫉妬している自分の器が小さすぎて情けない。正直に白状したら幻滅されてまう。

 なあ、と北に呼ばれて、顔を上げてしまったら最後、目を逸らすのを許されなくなるのが分かったから、わざと俯いたまま歩き続けた。
「北は人の心読むの得意やし、分かっとるやろ」
 こういうのは相手の読心術に任せて逃げるに限る。面倒くさい彼女の典型例だという自覚はあるが、要するに察して欲しいということだ。

「分からへんよ」
「いや、北なら分かる」
「なんやその自信。ちゃんと言ってや、なまえ」

 前を歩く男子高校生の集団のうちの一人が痴話喧嘩か?とでも言いたげにちらちらとこちらを見ている。鼻は外気に晒されて冷たいし、上着のポケットに突っ込んでいる手は驚くほど熱を放っていた。

「…北の誰にでも優しいとこ、嫌いや」
「そうなん?」
「いや、好きでもある……」

 ふ、と笑う気配がして思わず見上げる。なんや急に素直やなあと言う彼のやわらかな笑みに心臓がぎゅんとなる感じがした。こんなのは反則だ。

「北のこと盗られると思ってまうもん」
「そう思っとるのは自分だけやで」

 吐き出した息が白く色づき、冷気に混ざって溶けていく。手繋ぐか?と訊かれてどうしようもなくなって、恥ずかしい気持ちを押さえ込んで何とか頷く。繋がれた手は乾いていて、熱が全身に巡るのが分かった。
 こういうのを平然とやってのける彼氏を誰かに盗られてしまうと思ってしまうのは当然の感情じゃないだろうか。私が絶世の美女で、スタイル抜群で、賢く愛嬌もあるような人間だったらもっと自信を持てたのかもしれないけれど。北はあまりにも完璧すぎる人間で、彼氏としても優秀で、どうしたって釣り合わないと嫌な考えがふつふつと浮かんできてしまうのがつらい。

「でもまあ、妬かれるのは悪い気せんわ。こんな気分になるんやな」
「これからもずーっと味わえるで」
「そうか。それはなまえもやけどな」

 え?と顔を上げると、北はこちらを見下ろしてわずかに首を傾げ「気付いてなかったん?」と問う。気づいてなかったというか、だって北は嫉妬という感情とは無縁であり、いつだって自信をもって落ち着き払っているのだとばかり思っていた。「嘘やろ…」と呟くと「嘘ちゃうで」とすぐ返ってくる。
 もう大分長い付き合いだから北のことはどういう人間かわかったつもりでいたが、この男はまだまだ未知数だなと思う。こんなことを言われて、帰宅後に私は果たしてちゃんと勉強に集中できるのだろうか。「心配せんでもええよ」と繋がれた手に力を込められ、北にはいつまでたっても敵わないなと小さく息を吐いた。

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