会えたらいいなと思っていた時に、本当に会えてしまうことが一年の中で、何回か、ある。
「今帰り?遅いね」
「レポートがなかなか終わらなくて」
ああ、と納得がいったように頷く赤葦のまなこは今日も静かだと思う。図書館で難解なレポートに悪戦苦闘して、ようやく終わりが見えてきたのと空腹感がしくしくと腹を刺し始めたので諦めて帰路についた矢先だった。辺りは薄暗く、大学構内の電灯がやたら煌々と存在感を放っている。スーパーでも寄ろうかとよく回らない脳みその奥でぐるぐると考える。
「教養科目のやつでしょ?あれ結構むずかしかったよね」
「赤葦は終わったの」
「まあね、そんなに自信ないけど」
講義やバイト、サークルとそれなりに忙しそうだが余裕をもってレポートを終わらせているところがいかにも彼らしい。高校生の時は全国出場するほどの強豪バレー部でレギュラーであったにも関わらず、成績は常に上位だったらしいから、このくらい朝飯前なのかもしれない。
中高でやっていたバレーボールは、好きでも嫌いでもなかったと言っていた。好きでも嫌いでもないのに、全国出場するほどの練習量をこなしていたのなら、実は彼が思うよりずっとバレーボールのことが好きだったのではないかとたまに考える。
「あー!借りてた本、今日も持ってくるの忘れた!」
「別にいつでもいいよ」
「そう言って一週間経ってるよ。ダッシュで取りに帰るから待っててくれない?」
ぎりぎりまで寝ていたいという不純な動機から、大学から自分のアパートまではすぐ近くだった。走れば10分もかからないだろうと考え、赤葦を見上げる。彼は少し考えてから私の視線をじっと捉える。
「俺も行くよ」
鍵を回す手が少し震えて緊張しているのだと悟る。赤葦が私の家に来るのは初めてではないから堂々としていればいいというのに。ここで待っててと声をかけ、足早に部屋の中へと入ったところでようやく一息ついた。机の上に置いてあった彼の文庫本を手に取り、玄関まで戻ろうとするとガチャリと音を立てて赤葦が顔を覗かせる。
「ちょっと、片付いてないから見ないでよ」
「わりと綺麗だと思うけど」
それに俺そんなの気にしないし、と言われて、そうか、私は一体何をここまで気にする必要があるんだと我に返る。だって、赤葦はただの友達だった。
「ごはん食べてく?」
「うん」
断られる前提で誘ったものだったから想定外の展開に面食らう。何食わぬ顔で丁寧に靴を脱いだ赤葦が自分の部屋にいるのはなんだか変な感じがした。180cmを越える男がいると私の家の中にあるもの全ての大きさがバグってしまう。
カーペットの上に腰を下ろした彼を横目に冷蔵庫をあけると、いくつか作り置きのおかずがまだ残っていてほっと息をつく。人に食べさせるほど自信がある品ではないが、赤葦なら文句を言わずに食べてくれるだろう。
洗ってあったコップを適当に手に取り麦茶を注いでから、冷えたおかずを電子レンジに入れてスタートボタンを押すと、室内には無機質な家電製品の音が鳴り響いた。
「テレビ点けていいよ」
ローテーブルの上に二人分のコップを置くと赤葦が訝しげに眉をひそめる。
「別れたって言ってなかった?」
彼の視線の先には、かつての彼氏にもらった香水の瓶がある。本当によく気がつくなあと他人事のように感心した。
「捨てるタイミングがなかっただけ」
「なまえも大概だよね」
「赤葦に言われたくない」
料理が十分に温まったことを知らせる電子音が鳴った。立ち上がって赤葦の横を通り抜けようとしたところで突然、ねえと話しかけられて足を止める。座ったままの彼を見下ろすと「試したいことがあるから触ってもいい?」と言われて頭に疑問が浮かぶ。
「触るって何を?」
「何を、というかなまえに。嫌なら嫌って言って欲しい」
私に触るって一体どこにどのくらいいつまで何のために?試したいことって何?あまりにも唐突で、突拍子もない提案だった。色々訊きたいことはあれど、彼の視線に囚われたまま疑問はしゅるしゅると早急に萎んでいく。その場に腰を下ろすと彼の視線も追いかけてきて目が離すことは許されなかった。
「これまで通り、私と一緒に居てくれるならいいけど」
そう答えると一瞬目を丸くした赤葦は満足そうに笑い、そっと私の頬に触れる。ゆっくりと肩を押されて天井が目に入り、背中にカーペットの厚みを感じた。この体勢はどうしたって、そういう行為を連想してしまう。俗にいう「ムラッときた」ということだろうか。赤葦とこういう空気になるのは初めてだった。どこでスイッチが入ったのかさっぱりわからない。時折、彼の思考回路はどんなレポートよりも難解だった。
頬から耳にかけて彼の手で包まれて大きい手だと思う。手つきがあまりにも優しくて頭の芯がぼうっとした。空いている方の手でふくらはぎを撫でられて息が止まる。訳が分からなくて、手足はびりびりとしびれる感覚がするから、余計に思考は混濁していた。赤葦は今までの彼女にもこんな触れ方をしてきたのだと思うと、こんなこと言える立場じゃないけど無性に悔しかった。
「嫌って言わないの?」
何故だか愉しそうな赤葦とは対照的に、私は返答する余裕すらなくて呼吸をすることで精一杯だ。嫌な訳がなかった。でもこのまま触られ続けられると、いつもの自分じゃなくなりそうでこわい。
太ももを撫で上げられる感覚にひゅっと息を呑む。赤葦の喉がコクリと鳴る。気を抜けばうっかり好きだと言ってしまいそうだ。なんで私はこんなことをされているんだろう。
「ま、まだ触るの?」
「どこまで触っていい?」
質問を質問で返すなんて赤葦はずるい。じんわりとまぶたの間から涙が滲んで、下腹部がきゅうと収縮した。もうどうにでもなれと思った。
「全部」
いいんだ、と言って赤葦は口角を上げる。彼の笑い方はいつもと何ら違いなくて、骨の髄までびりびりと電気が走る。服の隙間から手が入り込んできて、敏感になっている皮膚のうすい部分から直にかさついた指先の感触が伝わってきた。
「……試したいことって何なの」
「俺がなまえを好きかどうか」
赤葦くん、淡々と答えたわりには今だいぶ大事なこと言わなかった?問い詰めるため頭をあげようとした瞬間、彼の手が私の胸にかかり思わず口を閉ざす。無遠慮に下着をずらされ触れられたところがあまりにも熱くて、声が出そうになった。眉をひそめた赤葦がわずかに身じろぎをすると身体に硬いものが当たり、彼も興奮していることに気がつく。
こんなに優しく触られたら、自分は愛されていると勘違いしてしまいそうだ。ここまでしておいて好きじゃないと言われたら、人間不信になっても仕方がないと思う。それでも私は聞きたかった。
「答えは出た?」
一瞬目を伏せて考える赤葦が口を開くまでの間、時間はのろのろと進む。やっぱり答えなくていいと言おうとしたところで目が合って息を吸うのを忘れてしまった。
「……これからも俺はどこか行くならなまえと一緒がいいし、なまえが俺以外の男と出かけてたら腹が立つし、あわよくばこうやって触りたいと思う」
「そ、それって」
好きってことなんじゃないの。そう問いかけると赤葦はそうかもねと言ってゆるやかに笑った。いや、もう好きがどういう状態か分からなくなってきた。好きって何だろうと中学生みたいな疑問が頭の中をぐるぐると回る。わからない、わからないよ。
自分は扁桃体が弱いのだというのが彼の持論だった。たいていいつも淡白な赤葦がそう言うのは意外ではなかったが、好きでも嫌いでもない中に、彼の大事な物が少なからずいくつかは紛れ込んでいるはずだと思ったのも確かだ。
純粋に勝ちを喜んだバレーの試合のこと、はじめてバレーを楽しいと思った日のこと、憧れだった先輩のこと。明らかに琴線に触れる何かにはなれなくても、彼の日常に少しでも私が溶け込んでいられるといいなと思う。
「キスはしないの」
「……していいの?」
意地悪く問われるまま素直に答えるのが癪だったので、腕を回して顔を寄せる。絡む舌のざらつきを感じながら電子レンジに放置された可哀想なおかずを思い出す。
あとで温め直して一緒に食べて、赤葦は美味しいと言ってくれるだろうか。もしかしたら何も言わず帰ってしまうかもしれない。それでも私は何度も作り、赤葦はまたきっと私の家にくると思う。そうして私はただただ食べられるのを待っている。
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