彼の家

「いいですか、くれぐれも頭に衝撃は与えないこと、お薬は痛くなったときのみ飲んでくださいね」
「はい」
「では、お大事に」
「ありがとうございました」

 主治医に頭を下げた後、モカは診察室のドアを閉め待合室の椅子に座った。今日は退院日。前日にジンから送られてきた制服はクリーニングしたてなのか、なんだか糊でピッチリとしていて新品のようだった。包帯の取れた頭は妙に軽い気がして、つむじの辺りに触れてみれば五センチ程の傷が痛々しく存在を主張していた。着替えの下着やちょっとした生活用品で膨らんだスクールバックを抱えて暫く待っていると、遠くから聞き覚えのある革靴の音。

「よぉ、元気そうだな」
「ジン!」

 ジンの顔を見るなり、立ち上がって嬉しそうに駆け寄るモカ。首筋の赤い印はもううっすらとしか残っていない。あの苺をくれた日から、ジンは今日まで二週間の間、一日もモカの病室へは来なかった。ただ二日置きに必ず苺を送ってきてくれていて、モカはそれを食べる度にあの日の事を思い出しては顔を真っ赤に染め一人で悶えていた。

「忙しくてな、本当に退院日になっちまった」
「ううん、苺、美味しかったから、ありがと」
「病室に忘れ物ねーか?」
「うん、大丈夫、元々荷物少ないし」
「なら行くぞ」

 ジンは自然な流れで、モカの手を絡め取る。まるで恋人の様なその仕草にモカは頬が赤くなってしまう。本当に、ジンは僕を愛してくれるのだろうか。絡められた指に恐々と力を入れれば、ジンは少しだけ笑って歩き出す。病院の門までの廊下がやけに長く感じて、モカはドキドキと高鳴る胸を抑えながらふと疑問に思ったことを聞いてみた。
 
「そういえば、僕のおうちは?」
「解約した、あと部屋にあったテメーの荷物も、全部俺のマンションだ」
「はわ……」

 モカが入院している間、ジンは諸々と準備をしていた。学校への休学届け、部屋の解約、バイト先への休みの申請等、全てモカの兄だと偽装した上で行った。モカは何から何までジンに任せっぱなしであった事に、今さら気付く。

「ぼく、なんにもしてなくて、ごめんなさい」
「あァ?んなこた気にしなくて良いんだよ」
「じゃあ、僕これからジンの家に住むの?」
「テメーはもう俺のモンだからな」
「ジンのモノ……」

 そう、もう自分は彼のモノなのだ。首筋の赤い印がそれを物語っている。なんだか心がぽわぽわとして、モカはぼんやりとまた付けられた時の事を思い出しながら、ジンの隣を歩く。

「乗れよ」
「えっ、あ、うん」

 いつの間にか、ジンの車の前まで来ていた様だった。目の前に止められているのは深い青色の傷一つ無い高級車。タクシーにすら乗った事の無いモカは、震える手で助手席のドアを開けた。車内はなんだか甘い匂いがする。広々とした座席に座ってみたものの何処か落ち着かず、モカは膝にのせているスクールバックを抱き締めた。

「どうした? そんなに力入れて」
「なんか、こんな綺麗な車乗ったの、初めてだから……」
「これから毎日乗る事になるぞ」

 そう言って笑いながら、ジンはサイドブレーキを下ろしてやんわりとアクセルを踏む。ハンドルを握り車を走らせる彼の横顔を、モカはただ熱に浮かされたような視線でじっと見つめていた。勿論その視線にジンが気が付かない筈もなく、ジンの藍色とバッチリ目があってしまいモカは慌てて窓の外に顔を向けた。

「あ、あの、そういえばジンのおうちって何処?」
「あぁ、駅の近くのマンションだな、まぁ学校には通いやすくなるだろうよ」

 器用に片手で煙草に火を付けながら、ジンは答えた。今までのアパートは駅まで歩いて20分程かかっていたが、近くなるならその分通学も楽になる。ジンの煙草の香りは仄かにラズベリーの香りがして、なんだか落ち着く。そうしてどのくらいたっただろうか。いつの間にか車の揺れが心地よくて眠ってしまったモカは、ジンに肩を揺すられ目を覚ました。

「ついたぞ」
「ん……、ぇ、っ、ごめんなさ、ねてて……」
「別に良い、それに……」

 モカの首に指を這わせながら、ジンが満足げに笑う。じんわりと痛むそこをサイドミラーで見やれば、付けられたばかりの真っ赤な印がよく目立っていた。

「これ……」
「付けても起きねーなんて、よっぽど無防備だなァ?」
「っ……!」

 みるみる赤くなっていくモカの顔は、まるで林檎のようである。ジンはそんなモカの手を取り、助手席からゆっくりと下ろした。辺りを見渡せば、そこは大きな地下の駐車場。ジンの住んでいるマンションの備え付けであろう。止まっている車の前の壁に部屋番号が書かれているのを、モカは無意識に口に出す。

「2009…、」

 四桁の部屋番号など、モカは見たことがなかった。それほどジンのマンションは大きいのであろう。ジンの車も、身に付けている服も、なんだか高級そうだと思っていたが、もしかしたらジンはすごいお金持ちなのかもしれない。モカの鞄を担いだジンが、モカの手を握ったまま駐車場の真ん中に備え付けられたエレベーターへと向かう。その狭さに少しだけ身体を堅くすれば、ジンに肩を抱かれて幾らかは不安が和らいだ。

「すごい……」

 ドアが空いた先は広い吹き抜けのエントランス。まるでホテルのような内装で、カウンターにはコンシェルジュが二人並んでいる。ジンは右側に立っている中年の男性の元へ行くと、何か話を始めた。邪魔をしては悪いと思ったモカは少しだけエントランスを彷徨くことにした。天井にはシャンデリア。エントランスの上は休憩所であろうか、机と椅子が数個並べてあり、人も数人いる。辺りを見渡していればジンに呼ばれて、慌てて近くに駆け寄れば今度は別のエレベーターへと向かった。

「わあ……」

 エレベーターの正面は、ガラス窓で外が一望できる。ジンは一から二十一まであるボタンのうち、二十のボタンを押した。上のモニターを見やればどうやら一番上の二十一階は屋上らしく。つまりジンの部屋は最上階という事になる。どんどんと上がっていくエレベーターの外から見える景色に、モカは釘付けだ。

「たかい……」
「怖いか?」
「ううん、"高いところ"は平気」

 モカは狭いところがあまり好きではない。それは押し入れに閉じ込められていた事も原因なのであろう。けれどもこのエレベーターは外がよく見える為、狭くは感じられない。問題は地下駐車場へと通じるエレベーターだが、ジンがいれば怖くはないだろう。電子音が響きエレベーターのドアが開く。暫く廊下を歩いて、ジンは一番隅の部屋の前で止まった。

「ここだ」

 二〇〇九号室。ジンがカードキーをかざせばドアが開き、きちんと揃えられた靴が数足ある玄関が見える。ジンに続いてローファーを脱ぎ、そのまま奥に進めば広いリビング。革製のしっかりした黒いソファーの前には、ガラステーブルを挟んで大きな薄型テレビ。ジンは自分の荷物をソファーに放り投げてから、リビングの先のドアを開けた。こじんまりとした部屋だが、正面の窓の前には広めの机が置いてある。その横にはモカに見覚えのある段ボール数個。

「好きに使えよ、空いてるこの部屋が、お前の部屋だ」
「は、はわ……」
「あとこれ、部屋の鍵だ、無くすんじゃねーぞ」

 ジンから手渡された青いカードキー。そのカードキーを手に取って、モカは本当に此処に住むのだと改めて認識する。ジンはモカのスクールバックを机の上に置いて、再び部屋を案内する為モカの手を取った。モカの部屋の隣のドアの先。ジンがカーテンを開ければ綺麗な夕日が、大きな窓の外から差し込んでくる。下を見れば沢山の小さな人や車が道路を走っていて、夜になればここから見える夜景はとても綺麗であろう。そうして次にモカの目に入ってきたのは、部屋の真ん中にあるダブルベッド。

「ここは寝室だ」
「もしかして……」
「一緒に寝るに決まってんだろ?」
「はわ……」

 モカの顔が赤くなっていく。二人が寝てもまだ充分な程スペースがありそうなベッドで、ジンと一緒に寝るのだ。もしかしたらエッチな事もするのかもしれない。けれども自分はこんな身体である。ジンに気味悪がられてしまうのではと、モカは思わず自分の身体を抱き締めた。

「まあ、とりあえずは明日、必要な物を買いにいかねーとなぁ」
「あ、っ、うん」

 新生活に向けて、まだまだ準備する事は沢山有る。モカは期待と、そして少しの不安を感じながら、自分の少ない荷物を紐解く作業を始めた。




20180824
エロもいれようとおもったんですが、文字数の関係上次に持ち越しです
プロットとは……