運命 モカの部屋は小さな押し入れ。物心付いた時には、既に薄暗く狭い空間がモカの生活空間だった。明かりは父親がくれた懐中電灯のみ。それを壁に刺した画鋲に掛けて、電球代わりに使っていた。幸いな事に、食事だけは朝晩と二回だけ押し入れの前に置いてあり、食べ終えた食器は家族が寝静まった夜中にこっそりと台所で洗った。「そんな身体、気味が悪いわ」 それが母親がモカに発した最後の言葉。モカには二つの性がある。モカの女性器の上には、とても小さな男性器。種は無く完全に使い物にならない男性器は、普通の娘が欲しかった両親にとっては邪魔でしかない。去勢という選択肢など、両親には無かった。ただ気味の悪い子供として認識されたモカは、この家に必要ない個体として、まるでこの家に居ないかの様な扱いを受けてきた。 勿論携帯機や端末など与えられるわけもなく、そんなモカのやる事など勉強しか無かった。モカが帰宅して真っ先に取り掛かるのが今日一日の復習と、明日の予習。時間が余ればさらに先へ、教科書だけでは足りず図書室から借りてきた参考書で専門的な知識も取り入れた。「モカさんの成績なら、特待生としてこの高校に行けるかもしれないわ」「本当?」 先生からそう言われた時、モカはチャンスだと思った。学費が免除される特待生なら、バイト代を生活費にして独り暮らしをする事ができる。もう押し入れの固い床で寝なくても済むし、明るい部屋で勉強が出来る。そんな当たり前の生活が出来る事に、モカは胸をふくらませた。両親も厄介払いが出来ると聞いて、資料に次々と判子を押してくれた。入試などもはやモカの敵ではない。合格通知を持って、待ちに待った引っ越し当日。モカはスクール鞄に入るだけの私物を持って、段ボールが隅に数個積まれた古ぼけた小さなアパートの一室に居た。「これからは、ここが僕のお部屋……」 少し埃臭くても、狭くても、モカには十分だった。カーテンを開ければ外が見えるし、日だって差し込んでくる。固い床ではなくきちんとした布団で寝られるし、お風呂だっていつでも好きな時間に入れる。今まで押し入れの隙間からこっそり覗いていたテレビだって、見放題なのだ。「うれしい……っ、うれしいよぉ……」 涙が溢れて止まらない。モカは玄関だという事にも拘らず、その場にうずくまって暫く嗚咽を漏らしていた。* その日ジンは仕事の打ち合わせの為、路肩に停めてある車の助手席で一人時間を潰していた。運転席にいたレンは別件の仕事で席をはずしており、ただぼんやりと窓の外を歩いている人々を眺めていた。「……なんだ? ありゃあ」 ふとジンの目に入ったのは、明らかに未成年の少女が、メイドの服装をさせられ店の前に立たされている姿であった。此処は深夜2時の繁華街。大きな胸を強調した服を着て客寄せをしている沢山の女性の中で、ただ一人背の低い浅葱色の頭は良く目立つ。しかもその店は巷ではちょっとした噂になっている評判の良くない風俗店で、少女のあまり宜しくない顔色を見るに言葉巧みに騙されバイトとして雇われてしまったのであろう。「可哀想になァ……」 あの少女がこれからどうなるのかも自分には関係が無い筈なのに、どうしてかあの少女から目が離せなかった。健気に看板を持ち通行人にアピールしようと、小柄な分必死にぴょんぴょんと跳ねている姿はやけに可愛らしく見えてしまう。ジンが暫く少女の様子を眺めていれば、別件での仕事が終わった様子のレンが運転席のドアを開け乗り込んできた。「何見てるんだ?」「いや、アレをちょっとな」「あら可愛い、ていうか、未成年だろあの子、見境無いねぇ」「テメーがソレ言うかァ?」「ははは……」 笑って誤魔化しながら仕事の資料を見ているレンを他所に、ジンは再び窓の外に目をやった。しかし元の場所に少女の姿はなく、辺りをキョロキョロと見渡せば路地の方へ入っていく男数名と、あの浅葱色の頭。「悪ぃレン、後頼む」「あーらら?」 突然車から出ていったジンに、レンは驚きを隠せなかった。普段女性の裸にすら見向きもしない彼があんな小さな少女一人を助けに行くだなんて、レンからしてみれば彼の性格からはとても考えにくい。「もしかして、ジンってロリコンなのか……?」 そう呟いた彼の言葉は、もしジンに聞こえていればキツい拳が落ちてきていた事であろう。* 「いやっ、やめて……!」「かーわいいねぇ、こんなフリフリ着せられてぇ」「なに? お嬢ちゃんもヤらせてくれるのぉ?」「っ……」 壁際に追い込まれたモカは、自分の身の危険をありありと感じていた。看板に書かれているピンクの文字を見ながら、こんなバイトならやるんじゃあなかったと、今更後悔しても遅い。三件目の面接を落とされた帰り道で、知らない男に呼び止められた時、うっかり高時給のバイトに目が眩んでしまった自分を恨む。近寄ってきた男達からはアルコールの臭いがして、モカは思わず顔を歪めた。「んん〜? なんだぁその顔はぁ」「イヤなのかよぉ、なら無理矢理にでも犯してやる!」「ひ……っ、た、たすけ……」 腕をキツく掴まれて、モカは絶望感に思わず目を閉じた。折角押し入れ生活から抜け出して、新しい生活を始めようとしていたのに、こんな所で希望がなくなってしまうなんて……。その瞬間何かが潰れるような音がして、モカはうっすらと目を開けた。「こんなガキに手出すなんて、テメーらはクズ以下だな」「な、なんだお前!」 若紫色の髪に白いワイシャツの青年が、その男の頭をグリグリと踏みつけていた。向かってきた別の男の顔面に青年が拳を捩じ込めば、男は簡単に地面に倒れてしまい動かなくなってしまう。「お、おまえ紫月組の……!」「なんだ、テメー俺の事知ってんのかァ?」「ひ、ひいい……!」 最後に残ったもう一人の男は、青年の顔をみた瞬間に情けない悲鳴を上げて路地から逃げていってしまった。残ったのは地面で伸びている男二人と、青年と、そして座り込んだモカ。「テメーも、こんな変なトコでバイトしてねーで、ちゃんとしたトコで働け」「あ、は、はいっ……!」 去っていく青年の背中をぼんやりと眺めていた少女は、ふとお礼を言っていない事に気が付いた。けれども足が縺れてうまく歩けず、少女は路地から出た途端に前のめりに転けてしまった。周りを見渡してもこの人だかりではあの若紫色を見つけるのは困難である。「……あれ?」 ふと少女の足元に、小さな名刺が落ちていた。汚れの付いていないそれに書かれた文字は、先程男が言っていた名前と一致している。紫月組という文字の下に書かれている、彼の名前。「仁……」 住所も、連絡先も、肩書きすらも書かれていないその名刺。恐らく彼は危ない仕事をしているのだろう。それでもモカは、その名刺を大事に握り締めゆっくりと立ち上がった。20180823
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