呼び名「じゃあ、また明日ね?」「う、うん……」 駅前でロコと別れたモカは、とぼとぼと歩きながらドラッグストアのトイレでの出来事を思い出す。買ったばかりの妊娠検査薬の反応は、間違いなく陽性だった。その報告をロコにしたところ自分の事のように喜んでくれたが、何故だかモカは気分が落ち込む一方だった。「いらないって、言われたらどうしよう……」 ジンはとても忙しい。そんな時にペットが妊娠してしまったら、邪魔だと思ってしまうかもしれない。学校を卒業するまではまだあと一年ある。それまで学校にも、彼にも黙っておく事など、モカにはとても出来ない。「うう、こわいなぁ……」 彼に報告するのがとても怖い。指輪をきつく握り締めながら、下ろし立ての水色のマフラーに顔を埋め、モカは寒い帰路をどこか重い足取りで歩く。マンションのエントランスから地下駐車場への狭いエレベーターに乗り、ジンの車が無いことを確認して、ほっと一息つく。まるであの時ロコの家から帰ったときのように、モカの心はずんと沈んでいる。「ジン、まだ帰ってきてない……」 部屋に上がり、ドアの隣にあるセンサーにカードキーをかざしてドアノブを回して扉を開ける。リビングを通って自室へ入り、マフラーを解いたモカは、自身の平たい腹にそっと触れた。「まだ膨らんでない、もんね……」 目を閉じても、鼓動はまだ聞こえない。小さく尊い命は、これから確実にモカの胎の中で大きくなっていくのだ。机に置いた鞄もそのままに、モカは暫くの間ただ自身の腹を撫でていた。「!」 リビングのドアが開く音で、モカは思わず驚いてしまう。彼が帰ってきたのだ。部屋を出ればそこにはジャケットをソファーに投げ、シャツのボタンを緩めている彼の姿があった。「お帰り、ジン」「あァ」 シャツを脱いだジンが、モカに手招きをする。そのまま誘われるままに彼の元へと近付けば、腰を寄せられ首元に噛みつかれた。「あ……っ、ん……!」「いい反応だな、このままここでヤるかァ?」 緩んだ包帯が落ちていく。彼の手が、モカのセーラー服の中へと侵入する。敏感な胸をやわやわと揉まれて、モカの下腹部が熱くなる。「ひ……、ぁあ……、まっ、て、ジン……」 流されてはいけない。妊娠しているのに、行為なんて、お腹の子に毒かもしれない。ましてや彼の片手は、確実にモカの下腹部に痣を残そうとしている。ジンの手を必死に押し退け、モカは息も絶え絶えに呟いた。「なんか、体調……、わるくて……」「どうした?」「んっ……、わかんない、けどっ……、うっ……」 また吐き気だ。モカはジンの腕を振り払い洗面台へと急ぐ。胃の中には何もないのに、気持ち悪くてたまらない。一体このつわりは、いつまで続くのだろうか。嗚咽を漏らすモカの背中を、ジンが優しく擦る。「顔色が悪いな、医者にいくか?」「ううん、寝てたら、大丈夫……」 ただの食あたり、そう笑いながらモカはジンに嘘をつく。言わなければならないのに、何故こんな嘘をついてしまったのか。モカの口から溢れた涎を舐め取って、ジンがモカを抱き抱える。「わ、っ」「今日は大人しく寝てろ、後で飯もってってやる」「うん……」 彼が器用に寝室のドアを足で開ける。そのまま柔らかなシーツの上に寝かされて、大事な海月のクッションを持たされた。「じん、あのね……」「何だ?」「ううん……、なんでもない」 不思議そうに見つめてくる彼に微笑んで、モカはゆっくりと目を閉じた。額に降ってきたキスがとても優しくて、モカは胸が苦しくなる。ドアの閉まる音を聞いた後、モカは静かに涙を溢した。*「そうか……」「どうした?若さん」 空調のついた事務所はとても暖かいが、窓から見える外は一面雪景色だ。壁にかかったカレンダーを見て、ジンはふと呟く。「モカの誕生日、二月なんだよな」「あぁ……、確かにゃんにゃんにゃん、だな」「なんだそれ」「ほら、語呂合わせ」 モカの誕生日は二月二十二日。世間では猫の日とも言うらしい。といっても、彼女が自分の誕生日を覚えているのかは分からない。去年は忙しくて何もしてやれなかったが、今年くらいは何かしてやりたい。自身の左耳のピアスを指で弄りながら、ジンはうんと考え込む。「今年はなにか貰ったのか?」「あぁ、ガトーショコラをな」「モカは料理できるのか」「いや、母さんに聞いたらしい」 モカはよくジンの母親と電話をしている。ジンが甘いものをあまり食べない事を知っていた為、苦めのガトーショコラのレシピを聞いたらしい。勿論その味は抜群に旨かった。美味しい?と不安げに聞いてきたモカに悪くないと言った時、嬉しそうに微笑んだ顔を、ジンは鮮明に覚えている。「モカの好きなものねぇ……」「水族館、新しくできたじゃないか」「あぁ、あのクラゲが見所のヤツか」 海の近くに新しく出来た水族館は、なんでも大水槽に沢山の水海月が居るらしい。色とりどりのライトに照らされ優雅に泳ぐ姿は、とても美しかったとユカリが言っていたのを思い出す。「クラゲ、モカは好きなんじゃないか?」「そうだな……」 週末時間を作ってモカを連れていこう。そうとなれば今手間取っているこの仕事を早めに片付けなければならない。乱雑に机の上に置かれた取引中の組の資料を二人で漁っている中、ふとジンが口を開いた。「そういえば」「ん?」「その若さんって呼び方、お前だけだよな、なんでだ?」「えぇ? 前に言わなかったか?」 下っぱから若中まで、組の者は皆自分の事を"カシラ"と呼ぶ。それなのにこの男だけは、自分の事を唯一"若さん"と呼ぶのだ。ジンとは違いテキパキと資料を纏めていたレンが、手を止めた。「俺にとって、ジンはカシラじゃないんだよ」「ほぉ……」 学生時代、なんとなくつるみ初めてから早十年。自分の隣にはずっとレンが居た。それは恐らく彼もそうなのであろう。今さら自分の事をカシラと呼ぶのが気恥ずかしいのだと言うことは分かる。それならば、名前で呼べばいいはずなのだ。「でも、ちゃんとカシラの事は敬意を持って呼ばないとだろ?他の組員も居る前でジン、だなんて名前で呼んだら、怒られるに決まってるだろ」「別に、怒らねーだろ」 レンがジンと長い付き合いな事は、組の皆が知っている。知っていなくても、レンはきちんと若頭補佐としてきっちり仕事をしているのだ。自分が居ないときは代理として、組の舵取りをしている。文句を出せる奴は居ないだろう。あのユカリでさえ、自分の事は名前で呼んでくるのだ。「だから若さんなんだよ」「なるほど、わからん」「駄目なのか?」「いや別に、テメーなら、どんな呼び方でもいい」「それって、愛?」「バカ言え、ほら、早く纏めねーと、終わらねーだろーが」「若さんはさっきから、ぐちゃぐちゃにしてるだけですけど」「苦手なんだよ、こういうのはァ」 事務所には二人きり。なんだかこうしていると、レンは学生時代を思い出す。勉強のあまり得意ではない自分に、いつも教えてくれたのは紛れもなくこの男だった。今ではすっかり、逆の立場になってしまったが。「若さん、本当は頭いいのになぁ」「うるせぇ」 笑いながらそう言えば、頭を紙で叩かれた。20190906
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