宿りし愛



 鳥の鳴く声が聞こえる。素足のまま縁側に座り庭を眺めているモカは、緊張でガチガチになってしまった身体をなんとか解そうと、手元の冷たい湯飲みに口を付けた。じんわりと広がる仄かな苦味と、茶葉の香りはモカの固まった身体をほんの少しだけ和らげてくれる。それでもこの状況でリラックスする事は、とてもできそうにない。

「神水モカ、と言ったか」
「は、はい!」

 隣に腰掛けている男が、徐に口を開く。若紫色の短髪に、歳を感じられる顔の皺。髪と同じ色の無精髭を片手で弄りながら、少し緩んだ浴衣の合わせをそのままに彼は続けて話す。

「ワシは見た通り、こんなに弱ってしまった、もう長くはない」

 彼にとって、今日はとても調子が良い日だそうだ。浴衣の裾から見える腕は、今にも折れそうな程にとても細い。モカの腕も細いが、彼はそれ以上だ。

「ジンを、そしてうちの女房を、よろしく頼めるか」
「そ、そんな、悲しいこと……、言わないでください……」

 彼が亡くなれば、あの母親の笑顔も、ジンの笑顔も、無くなってしまう。それを支えるなんて事が、モカに出来るだろうか。モカにはそんな自信は無い。今だって自分はジンに支えられて生きているのだ。

「君になら出来るさ、うちの女房があんなにはしゃいでいる姿を見るのは、久しぶりだよ」
「お母様……」

 この家に来てから、モカは毎日ジンの母親と一緒に過ごしている。今はじいやと買い出しに行っているが、彼女が居ないだけで屋敷はとても静かだ。モカがここで過ごしはじめて約二週間はたっているが、彼女が居ない時間を過ごすのはとても久しぶりだ。ジンは朝から仕事に出掛けていて、モカはジンの父親と二人、昼食まで時間を潰している。

「モカ、と、呼んでも良いかな」
「はい、お、おとうさま……」

 お父様、だなんて……。モカはそう口走ったもののなんだか恥ずかしくなってしまった。俯いているモカを見て、父親が笑う。

「君を見てると、昔の、カナコを思い出すな」
「カナコ?」
「あぁ、女房の名前だよ、昔は君みたいに随分と大人しかったものだ」
「へぇ……」

 今の彼女からは、とても考えられない事だ。世話しなく屋敷の中を走り回り、いつも高い声でモカを呼び、料理や裁縫、色々な事を教えてくれる。彼女はああ見えて、家事がとても得意だ。

「モカ、二人を、よろしく頼む」
「……、は、はい……」

 顔が赤いのは、きっと夏の暑さのせいだ。モカはすっかり温くなってしまったお茶を、ずずと音をたてて啜った。





「モカさん、実家はどうだったの?」
「うん、ジンの実家、すっごい大きかった……」

 始業式の後、教室で皆が夏休みの出来事を楽しそうに話している中、モカも隣の席から声をかけられる。夏休みの間はずっと彼の実家で過ごしていたが、とても楽しかった。ジンの部下達からは帰りに沢山おみやげを貰ってしまったし、ジンの母親からはあの海月柄の着物を頂いた。また実家に帰ってくる時、着ていらっしゃいと。

「モカさんの彼氏さん、お金持ちそうだもんねぇ」
「うん……」

 帰ってきてから、またジンは忙しい生活をしている。たまに学校に迎えには来てくれるが、それでも家に送ってくれた後はすぐに出ていってしまう。実家では毎日寝床を共にしていた為、ほぼ毎日行為をしていた。新しく出来た痣を隠している首元の包帯に触れながら、モカは自然と笑みが溢れる。

「モカさん、最近良く笑うね」
「えっ?」
「それって、彼氏さんのお陰なのかな……」
「……」

 自分は良く笑っているのだろうか。ジンに拾われてから、沢山の人と出会い、そして自分にも愛してくれる人がいる事を学んだ。勿論目の前に居るロコだって、形は違えどモカを愛してくれている。その愛に答える事はできないが、それでもモカは嬉しいのだ。

「っ、あっ、ちょっと、ごめん……!」
「えっ? モカさん!?」

 突然襲った急な吐き気に、モカは立ち上がり急いでお手洗いへと駆け出した。女子用トイレの一番奥の個室に入り、水洗便器の縁を掴んで胃の中の物を吐き出す。最近よく吐き気を催してしまう。食欲だってあまり無いし、食べようと思ってもなんだか気持ちが悪いのだ。この現象はジンの実家から帰ってきてからずっと続いている。

「もしかして……」

 モカは自分の吐瀉物を眺めながら、勝手に溢れる涙をそのままにぼんやりと考える。実家に帰る前に、モカには久しぶりの月経が来ていた。それから逆算すると、もしかするかもしれない。

「っ、ロコなら、分かるかな……」

 ペーパーで口許を拭い、手を濯いでトイレを出る。心配そうに廊下で待っていたロコに、モカはどこか嬉しそうな声色で一言呟いた。

「ロコ、あのね、僕、妊娠したかも……」
「えっ! 本当!?」
「わからない、けど……」

 ロコが目を見開く。勿論モカも信じられない。このお腹の中に、彼との愛の証があるだなんて。

「モカさんの身体で妊娠出来るなんて、奇跡に近いよ?」
「えっ?」
「だって、モカさんの子宮、その……おちんちんのせいで、多分、小さいと思う……、子供、もしかしたら、ちゃんと育たないかも……、なんて、あっ、ご、ごめんね!?」
「……」

 そうだ、自分は他の人とは違う。この身体のせいで、彼との愛の証が無くなってしまうなんて、そんな事を考えたくはない。そして何よりも一番の心肺は、この事を彼が知ってどう思うのか。

「……帰りに、買ってみる?」
「検査薬?」
「うん」
「……買う」

 まだ宿っているとは限らない。ただ自分の体調が悪いだけかもしれない。ちょっとした風邪でも引いている可能性だってある。それでもモカはどことなく、確信していた。そしてその予感は、的中する事となる。


20190906