実家



「ついたぞ」
「はわ……」

 車から下りてすぐ、モカは見上げるほどの大きな建物に思わず声を漏らした。モカの背よりも随分と高い生け垣に囲まれたジンの実家は、連なった瓦屋根がよく目立つ二階建ての純和風の家だ。門から玄関へと続くアプローチの先に見えるのは、小さな赤い橋と、庭が見渡せるような広い縁側。開けられた障子の先の廊下を歩く数名の女性達は、皆エプロンの付いた着物を着ている。もしあれが家政婦だとすれば、ジンの実家は見た目よりも中はもっと広いのかもしれない。玄関の前に並んでいる男達は、ジンの部下なのだろうか。いつの間にか車を車庫に入れたジンが、ぼんやりと家を眺めていたモカの手を掴む。

「いくぞ」
「あ、っ、うん」

 ジンに手を引かれて、モカは両側に開かれた大きな門をくぐる。石のアプローチが続く途中にあるアーチがかった赤い橋の下の池を覗き込めば、そこには色鮮やかな鯉が数匹泳いでいる。周りを見渡せば石で作られた灯籠の様なものや、大小様々な石や、水の張られた大きな鉢、とても高い木だって幾つも生えている。これが所謂"日本庭園"という物なのだろうか。玄関への道を作るようにズラリと並んだ十数人の男達は、二人が橋を渡りきった途端一斉に頭を下げた。

「カシラ!おかえりなさいませ!お待ちしておりました!」
「あぁ、皆、久しぶりだな」
「はいっ!カシラも変わらずで!そちらが例のお嬢様ですか?」
「ひぇ!」

 突然サングラスの男に顔を覗き込まれて、モカは驚いてジンの後ろに隠れてしまった。

「おい、あんまり驚かすな」
「ス、スイマセン……」

 男が再び頭を下げる。そんな男に軽く会釈をして、モカはそのままジンに連れられ玄関へと入っていく。土間を上がった先に座った髭の生えた白髪の老紳士が、ジンとモカを見るなり深々と頭を下げた。

「坊ちゃま、モカ様、お帰りなさいませ」
「あぁ、じいや、久しいな」

 じいやと呼ばれたその男は、紺色の着物を見に纏い、腰辺りに黒いエプロンのような物を着けている。見た目からして彼も家政夫なのだろう。ジンに続いてモカが土間を上がれば、可愛らしいピンクのスリッパを差し出された。

「ありがとう、ございます」
「いいえ、滅相もない、ああそういえば、坊ちゃまのトランクのお荷物はお部屋でございます、後、お着替えも」
「助かる」

 脱いだジャケットをじいやに手渡しながら、ジンが思い出したようにふと声をあげた。

「親父の様子はどうだ」
「それが、体調があまり優れないみたいで……、今は眠っています」
「そうか……、」

 ジンの表情が曇る。モカはここに来る途中、車の中でジンの家の話を聞いた。ジンは名刺に書かれていた紫月組という組の若頭で、父親は組長だという事。そしてその父親は体調を崩して寝たきりだという事。家政婦が沢山居るのは、この屋敷を維持する為と、父親の世話をするためだという事。そしてこの家の全ての家政婦を指揮しているのが、紛れもなくこのじいやだという事。

「そういえば、母さんは?」
「あぁ、それなら……」
「ジンちゃぁ〜〜ん!!」

 バタバタとスリッパが廊下を叩く音がする。モカが思わず振り向けば、そこには濃い紫色の着物を着た、美しい女性。

「うわっ!」
「んもぉ〜〜!全然帰ってこないんだからぁ〜!」

 ジンと同じ若紫色の髪を見て、モカはすぐ分かった。この女性がジンの母親なのだと。もうすぐ五十近いとは思えない程、見た目は随分と若く見える。ジンに勢いよく抱き付き頬擦りをしている姿は、もしかするとカップルにも見えるかもしれない。

「母さん……苦しいって……」
「あら、ごめんなさいねぇ……、つい興奮しちゃったわぁ」

 そう言って笑う彼女の後ろ。丸く結われた髪に差されている簪には、よく見れば小さな海月がついていた。もしかして彼女も海月が好きなのだろうか。そんな事を考えていたモカを一目見て、彼女の目の色が変わった。

「あら! もしかして……、この子が電話で言ってたモカちゃん!?」
「は、はじめまして……」
「んまぁ〜! 何て可愛らしい!」
「わあ!」

 ひしと抱き締められて、ほんのりと香るのはラベンダー。そういえばジンの車の芳香剤も、ラベンダーの香りだった。柔らかな彼女の身体に、モカは自然と緊張で身体が固まってしまう。

「モカちゃん、いらっしゃい! 早速お着替えしましょ!」
「え、ええっ」

 そう言うや否や、彼女はモカの手を引き再び廊下を駆けていく。その様子を黙って見ていたジンが、深いため息を付く。

「全く……、変わらないな、母さんは」
「坊ちゃまが帰ってくるのを、お母様も心待ちにしておりましたから、それに……」

 じいやがジンの顔を見つめる。眼鏡越しの真っ黒な瞳は、とても優しい。

「はじめてでしょう、彼女という存在を連れてくるのは」
「……、そうだな」

 自分の異常な愛し方を受け入れてくれたのはモカが初めてだ。そんなモカを、ジンは絶対に手放したくはない。その為にはあの母親とは会わせておかなければならない。父親がいつ倒れるか分からないこの状況で、ジンは母親をこの屋敷に一人にしておきたくはなかった。

「まぁ、あの様子だと、モカの事も気に入ってくれたかァ?」

 どうせ後々、モカは毎日母親と過ごすことになるのだ。あの自由奔放な性格に、果たしてモカが付いていけるのかは分からないが……。じいやと共に、ジンは久しぶりに入る自分の部屋へと足を進めた。





「ジンから聞いてるわよ、モカちゃん」
「えっ?」

 モカの着ていたセーラー服を畳みながら、彼女が口を開く。姿見の前で下着姿のまま立っているモカは、座っている彼女を見下ろしている状態だ。

「身体の事なんて、自分じゃあどうしようもないもの、気にすることないわ」
「……」

 彼女は全て知っているのだろう。それでもこんな風に優しく接してくれる。彼女はモカのために用意していた着物を着せる為に、モカを自分の部屋に連れてきたのだ。

「ジンがね、彼女を連れてきたのは初めてなのよ」
「え、っ」

 モカは知らなかった。ジンのルックスはとても良い。少しばかり目付きは悪いが、一緒に歩いていれば高確率で若い女は振り向く。自分を愛してくれる前だって、沢山のペットを愛していたのだと思っていた。

「女なんて興味ない〜とか言ってたから、ちょっと心配してたのよね、ほらあの子、少し変でしょう?」
「変……」

 彼女が着物を広げ、畳の上に置く。淡い水色の生地に白く描かれているのは、モカの大好きな水海月の模様。それから彼女は、モカの下着をゆっくりと捲った。

「この痣だって、ジンにつけられたんでしょう?あの子ね、昔からそういう子なのよ、気に入ったオモチャとか、すぐボロボロにして……、まさか人間にもするなんて思ってなかったわ」

 モカの腹部には、もう消える事の無い青い痣が大きくついている。行為の度に抉られるその痣は、日に日に広がっている。それでもモカは、この痣がとても愛しくてたまらないのだ。

「でも、僕……、嬉しいんです」
「あら、それはどうして?」
「これは、ジンからの愛だから……」

 姿見に映る自分の姿は、他の人から見るとどう映っているのだろうか。両腕と首の包帯に、左頬にうっすらと残る痣。どれもジンが、モカに付けた愛の証だ。

「モカちゃんも、ちょっと変わってるのねぇ」
「えっ?」
「だって普通、殴られたりしたら嫌じゃない? まぁ、私の夫も、そんな人だったけれど」
「それって……」
「さっ! 早くこれ着て! うちの中案内するから!」

 立ち上がった彼女が、モカに着物を羽織らせる。丈を調整しながら彼女は前を合わせ、慣れた手付きで紐を括り、紺色の帯を巻いていく。最後に帯を締め上げて、彼女は改めてモカに姿見を見せた。

「うん、よく似合ってるわぁ!」
「かわいい……、あ、あの!」
「?」
「くらげ、好きなんですか?」
「ええ、モカちゃんも好きって聞いたから、この着物買っちゃったの!」

 彼女が子供のように笑う。母親とは、こんな風に接してくれるものなのだろうか。モカはもう自分の母親の顔すら覚えていない。思い出そうとも思わない。自身の肩に置かれた彼女の手に、モカはそっと触れてみた。

「あ、ありがとうございます……!」
「お礼なんていいのよ、この着物は、もうモカちゃんの物だから」

 小さな手を握り返される。見上げればそこには、嬉しそうに微笑んでいる彼女の顔。

「これからもよろしくね、モカちゃん」
「はい……!」

 彼女に手を引かれ、モカは部屋を出る。その手はほんのり冷えていて、いつも冷たいジンの手に良く似ていた。





「ジン?」
「あぁ、入れよ」

 二回のノックの後、ゆっくりと部屋の襖が開けられる。畳に座って端末を操作していたジンが、モカの姿を見るなり少しだけ目を見開いた。

「に、にあう……?」
「良いんじゃねーかァ?」
「ほんと……!?」

 この家に着いたのが昼前。そして今はすっかり夕暮れだ。モカはこの時間までジンの母親に散々家の中を連れ回されたのだ。勿論それがモカにとって嫌な訳ではなかった。母親と二人、庭で鯉に餌をやったり、台所で沢山の家政婦に囲まれながら二人で昼食をとったり、じいやの部屋を勝手に覗いたりと、楽しい事ばかりであった。

「ジンも、似合ってる……」
「あぁ……、これか」

 薄く縦縞の模様が入った黒の浴衣は、ジンに良く似合っている。いつもはワイシャツやスカジャン等洋服の姿しか見ていない為、モカは見慣れぬ彼の装いに、すこしドキドキしてしまう。

「かっこいい……」
「そうかぁ?つーか、突っ立ってねーで、こっちこいよ」

 モカは言われるまま、襖を閉めて部屋に入る。畳が一面に敷かれた部屋の、縁側の前に二組の布団が並べられている。テレビはジンの家にあるものとは少し小さいが、それでもモカにとっては十分に大きい。車のトランクに積んでいた二つのキャリーケースはまだ開かれておらず、部屋の隅に並べておいてある。まるでどこかの旅館のような部屋を見て、モカは思わずため息を漏らした。

「今日は疲れただろ?」
「う、うん……、けど、たのしかった……!」

 ジンの隣に座り込んだモカが、ふわりと微笑む。ジンと出会ってから、モカは随分と表情が和らいだ。拾った頃はこんなに柔らかな笑みを浮かべる事は無かった筈なのに。ジンは端末を机に置き、モカの浅葱色にゆっくりと指を絡ませる。

「親父にも会わせたかったんだけどな、まぁ、仕方無ぇか……、顔は見たんだろ?」
「うん、眠ってたから、ドアの隙間から、お母さんと様子見ただけ……」

 仰向けで布団の上に眠っていたジンの父親は、やはりジンに良く似ていた。若紫色の短い髪に、同じ色の無精髭。苦しそうに眉間にシワを寄せて横たわっている姿はとても痛々しく、モカは自分の胸が苦しくなった。一体どんな病気なのか、モカはジンに聞こうと思ったが、見上げて目に入った彼の悲しそうな表情を見て、思わず口を継ぐむ。

「……」

 モカは何も言わず、ただ黙って身体をジンに預けた。開けられた縁側の障子から入ってくる風が、とても心地良い。あそこに座って、二人で綺麗な庭を眺める時間はとても贅沢に違いない。今だって、ジンとこうしてのんびり過ごせることに、モカは喜びを感じていた。

「卒業したら、ここに暮らすの?」
「あぁ、嫌か?」

 モカは首を横に振る。ここはとても良いところだ。家政婦さん達もモカに必要なものはないかと、この部屋に帰ってくる途中何回も聞いてくれた。何もかも全て他人がしてくれる生活は、慣れるまでには時間がかかるかもしれないが。

「嫌じゃない、お母さんも……、家政婦さんも、皆、とっても優しいから……」

 ジンが笑う。そのまま腰を寄せられて、唇が重ねられる。ぬるりと入ってくる舌に、モカも答えようとぎこちなく絡ませた。彼の浴衣を握り締め、この甘い行為に、ただ身を委ねる。

「ふぁ……っ」
「着物ってのは、脱がすとまた着せるのが大変だからなァ……」

 彼が包帯を緩ませる。そうして首筋に牙を立てられて、モカは小さく甘い声を漏らした。

「夜までは、これでお預けだ、どうせ夕食までもう少しだしな」
「うん……」

 包帯を丁寧に巻かれながら、モカは少し残念だと思ってしまった。けれどもそれ以上に、夕食が気になってしまう。母親と二人で食べた昼食のオムライスは、今まで食べたことがないくらいにとても美味しかった。夕食の献立を聞いておけばよかったと、モカは思う。

「ごはん、なにかな……!」
「あァ?まぁでも、多分気合い入ってんじゃねーか?なんせ、一人息子が嫁連れてきたんだからなァ?」
「嫁……!」

 自分は、彼の嫁になってしまうのか。モカの白い顔が、みるみる紅くなっていく。

「僕、ジンのお嫁さんなの……?」
「あァ?俺はずっと、そう考えてたけどな」
「ペットじゃ、ないの?」
「ペットも嫁も、変わらねーだろ?」
「た、確かに……」

 どちらも彼に世話をされる事には変わりは無い。それならば特に名称は関係ないのかもしれない。ジンと絡ませた左手に煌めく互いの石を見て、モカは幸せを噛み締めた。



20190905