互いの気付き



 レンという男はとても弱い。勿論それは喧嘩が弱いだとか、体が貧弱であるという意味ではない。彼の心はああ見えてとても繊細だ。ずっと想っていた幼馴染みが奪われた時、彼は熱心に相手の存在をバレないよう確実に消す計画を立てていた。それは結局のところ寸でのところで辞めてしまったが、彼が変わったのはその日からだ。誰彼構わず抱くようになり、一時期変な性病を貰っていた事もある。
 そんなどうしようもなく弱い彼の事を、それでもジンは親友だと思っている。学生の頃は父親の跡継ぎになど成りたくなくて、グレて喧嘩ばかりしていた。家でも学校でも、自分はヤクザの息子として、周りとは違う目で見られてきた。そんな自分に唯一普通に接してくれたのは、彼ただ一人だけだ。

「ジンはジンだろ、他の奴と何も変わらない」

 その言葉で自分がどれだけ救われたか。彼には分からないだろう。彼が居たから自分は父親の跡を次ぐ決意が出来た。お前も来るかと誘った時も、面白そうだと着いてきてくれた。それからずっと、彼は自分の右腕だ。

「私なら、あんなヤリチン嫌だけど」
「元ヤリマンの癖に、良く言うなァ?」
「元ね! 元! 今はちゃーんと家庭を持ってますからぁ」

 深紅のロングヘアーをかきあげて、椅子に座った白衣の女はジンの端末をひったくるように受け取った。そうして端末の端子にコードを接続し、デスクの上にある自身のパソコンと繋げ、モニターを凝視した。

「正常ね、後は……、盗聴機能かぁ」
「出来そうか? ユカリ」
「もうちょっと時間かかりそうだけど、なんとかね」

 事務所から少し離れた一軒家。見た目はただの住宅にしか見えないが、中に入ればそこは組の研究室。そしてこの女、ユカリにジンはここの全てを任している。ユカリもレンと同じく、ジンとは付き合いが長い。よく三人で別の学校にカチコミに行ったものだと、マウスを操作しているユカリの横顔を眺めながらジンは思う。やけに短いスカートから覗く足を組み直して、突然ユカリはジンの方へと椅子の向きを変えた。

「そういえば、私ね、妊娠したの」
「おぉ、それはおめでたじゃねーか」

 丁度ジンがモカを拾う前、ユカリは堅気の男と籍を入れていた。ユカリが此処で働いているという事を、相手の男は知っている。その事は相談を受けたジンしか知らない話だ。

「で、あの子とはどうなの?」
「どうって、何がだ」
「だからぁ、避妊よ、避妊」

 妊娠というものは、行為を行う上でどうしても付きまとう問題だ。しかしモカの場合、出来る方が奇跡に近い。今仮に出来たとしても、組の維持で忙しいジンにとっては邪魔なだけだ。

「ゴムしてるのかって聞いてるのよ」
「あァ? その必要は無ぇ」
「なんでよ」
「アイツは子供が出来にくいんだとさ」
「出来にくいっていっても、ゼロじゃないのよね? もし出来たら、どうするの?」
「下ろす」
「はい?」
「下ろすに決まってんだろ、まだ跡取りは必要無ぇ」
「はぁ……」

 わざとらしく片手を額に当て、ユカリは深いため息をつく。そんなユカリを見てジンは怪訝な顔をした。いつも以上に悪くなってしまったジンの目付きにも怯むことなく、ユカリは再び口を開いた。

「あのね、ジン」
「何だ」
「あのヤリチンだって、ヤる時はゴムつけてんのよ」
「そりゃ、アイツは誰彼構わず抱くし、一回病気になってるだろ、俺はモカとしかしねぇ」
「じゃなくてぇ……、アンタは要らないだろうけど、あの子はどうなのよ」
「……」

 まだ膨らんでいない自身のお腹を擦りながら、ユカリは続ける。

「私にとってこの子は、彼との愛の証よ、言うなればアンタとの子ってのは、あの子にとっても、愛の証なんじゃないの?」
「……」

 愛の証。モカにとっては一番大事な物。それを否定する事は、モカの不安定な心を確実に壊してしまう。ユカリから目を反らしただ無言で苦い顔をしているジンに、ユカリは追い討ちをかける。

「仮に出来たとして、その後アンタはどうするの?無理矢理下ろさせるのかしら?そんな事をすれば、アンタに愛の証を拒絶されたあの子の心の傷は、一生消えないわよ」

 ジンは自分の事しか考えていなかった。身籠るのはモカの方で、自分はただ出して満足するだけだ。中絶するにしても小さな身体のモカにはかなりの負担が掛かってしまうだろう。ジンは万が一を考えねばならない。

「……なんてね、ちょっとした妊婦の戯言よ」

 戯言などでは無い。ジンは自身の愚かさに改めて気付く。はい、と彼女から差し出された端末を手に取り、ジンは暫くの間己の左手に煌めくアメジストを、じっと眺めていた。





「進路……」

 周りのクラスメイトが次々と提出し帰っていく中で、モカの手元の志望用紙は白紙。ホームルームで配られたその用紙を、書けたものから順に下校していいとの事で、モカは机の上の紙を睨み付ける。

「やりたいこと、無い……」

 この学校に入ったのは、早くあの牢獄のような家から出たいという思いがあったから。モカには特になりたい職も、行きたい大学も無い。海月柄のシャープペンシルを置いて、モカはぼんやりと窓の外の雲ひとつ無い空を眺める。

「モカさん、かけた?」
「う、ううん……、まだ……」

 声をかけてきたのはロコ。あんな事をされた後でも、モカは彼に普通に接している。それは唯一の友達を無くしたくないという思いがあったから。少なくとも愛を向けられて、モカが嫌ではないのは事実だ。

「僕はかけたけど……、待ってようか?」
「ううん、いつになるかわからないし……、先帰ってていいよ」
「じゃあ、また明日ね」
「うん」

 教室を出ていくロコに手を降りながら、いつの間にか一人になってしまっていた教室の中で、モカは一人呟く。

「ジンの、お嫁さん……、な、なんて……」

 そう言ってからすぐ、モカの顔が赤くなる。前に彼が言っていた。卒業すれば、モカを連れて実家に帰ると。それは文字通り彼の家庭に入るという事だ。ペットと言えど家の事を何もしない訳にもいかない。それに……。

「ジンとの赤ちゃん、欲しいな……」

 ロコから貰ったアフターピルを見た時、モカはふと気が付いた。自分にはちゃんと子宮もある。彼との愛の結晶だって、作ることが出来るのだ。モカは今までそんな当たり前の事を忘れていた。

「僕、いつからこんなに我が儘になったんだろう……」

 左腕に巻かれた包帯を指でなぞり、そのまま薬指に光り輝くサファイアに触れる。ジンからの愛の証をもう二度も貰っているのに、もっと欲しいと思ってしまう。こんなわがままでは、いつかジンに嫌われてしまわないだろうか。そんな嫌な考えが浮かんできて、モカは思わず首を振った。

「……適当に書いとこ……」

 これはあくまでも三年生になるまでの、今の段階での希望だ。そんなに深く考えて書かなくてもいい。モカは適当にロコの書いていた学校と同じ学校名を書き、教卓の上の籠に入れた。



20190904