彼の過去「ははぁ……、モカがねぇ」 話を聞いたレンは茶化す事もなく、ただ一言そう呟いた。事務所には二人っきり、他の者が皆出揃っているタイミングを計って、ジンは彼にだけ昨日の出来事を話したのだ。「沈めれば良いじゃないか、得意技だろ?」「それはダメだ」「どうして」 ロコは唯一の友達。モカはそう言っていた。学校の事情に口を挟まない、手を出さないと決めた以上、ジンは行動する事に躊躇していた。仮に行動を起こして奴を消してしまったとして、それでモカの身に安全が保証されるという訳でもない。モカの事を狙っている不届き者は、他にも、居るかもしれない。「一人消したところで、どうなるんだ、そんなリスクを組の頭としては犯かしたくない」「またまたぁ、それは言い訳だな」「うるせぇ、クソヤリチン」「図星かぁ」 怒らせたら何をしでかすか分からないあのジンが、自分のモノに手を出されてこのまま黙って引き下がる訳がないと、レンは思っていたのだが。「その代わり、次は無い、っつっといたけどな」「若さんは優しいねぇ、モカと会う前と比べたら、ずいぶん丸くなったよ」「はァ?」「だってほら、ミスした奴には容赦無かっただろ? 警察に迎えに行く時だって、ムショの前でボコボコにしてた癖に」「……」「この前迎えに行った時、お前殴らなかったしな、成長だよ成長」「なんか言い方がムカつく」 モカを拾って約一年半。組の連中も良く噂している。最近の若はとても優しいと。父親の期待に応えようと必死になり、肩に力が入りすぎていたのかもしれない。それが取れたのは、紛れもなくモカがきっかけではある。「あれだ、ペット飼うと心が穏やかになるとか言うだろ、それじゃないか?」 ジンはふと思う。帰っても一人部屋で仕事の資料を読み漁っていた自分が、今では帰ればモカに付きっきりだ。モカの事で暫く組はレンに任せていたが、その事で特に焦った事も無かった。心に余裕が出来たのか、それとも自分がモカに夢中なだけか。「あぁそうだ、モカの端末のGPSアプリの試運転しねーと」「むしろ仕込んでなかったのか」「アプリ自体は入れてたんだが、設定が面倒でなァ……」 また何かあってからでは遅い。監視しておけばいざというときにも対応が可能だ。事前にメモしておいたモカの端末の固有番号を入力し、少しの操作をすれば画面にはちゃんとモカの学校の周辺の地図と、青色の丸が表示される。「ちゃんと学校だな」「ほぉ〜、科学の力ってのは凄いねぇ」「本当は盗聴機能も設定したかったが、相手のバッテリーがガンガン減る不具合があるしなァ」「これもしかして、例の開発してたアプリか」「おぉ」 テーブルに置かれたジンの端末をまじまじと眺めながら、レンは感心したように頷く。これならモカの監視も出来るし、アプリの試運転も出来る。一石二鳥の計画だ。「ちょっと出てくる」「何処に?」「このアプリつくってる奴の所だ」「成る程ねぇ」 端末を掴み事務所を出ていくジンの姿を見送ってから、レンは少しばかり目を瞑る。二人を見ていると、嫌でも思い出してしまうのだ。とても昔の話を。*「レンにぃ!」「リツ、走ると危ないぞ」 短く切り揃えられた翡翠色の髪が靡くのを、満面の笑顔で走ってくる彼女の姿を、レンは鮮明に覚えている。大きくなったら結婚しよう。そんな幼い約束を、自分だけしか覚えて居なかった事も。 二年前。田舎から此方に引っ越してきた彼女からの連絡を受け、レンは待ち合わせに指定された喫茶店へと出向いた。久しぶりに見る彼女はすっかり背丈も伸び、紺色のブレザーが良く似合っていた。後ろの高い位置で束ねられた髪を揺らしながら、嬉しそうな顔で言った一言。「レンにい、あのね、わたし、彼氏できた……!」 その報告は、レンの心の内側をボロボロに打ち砕いた。もっと早く、自分の気持ちを言っておけば良かったのだ。何処の馬の骨とも分からない男に、幼い頃から想っていた彼女が、こんな簡単に奪われてしまうなんて。震える手を誤魔化すように手元のグラスを握り締めながら、レンは精一杯の張り付いた笑みを浮かべた。「良かったな、泣かされたら電話しろよ、殴りに行くからな」「もう、アカリはそんな事しないもん」 アカリ、その名前だけを頼りに、組の力を最大限に使って全てを突き止めた。両親の名前、双子の妹が居る事、家の住所、通学ルート、親戚、友達関係……。そうして計画を実行に移そうとしたその日、彼の隣で笑う彼女の姿を見て、止めたのだ。「リツのあんな顔、始めて見たな」 あの笑顔が壊れる事を、自分は望んでいなかった。計画を実行してしまえば、彼女の笑顔は無くなってしまう。それから愛情なんてものは、捨ててしまった。彼女以外の女なんてただの動物にしか見えない。もしいつかまた、彼女が自分の元に戻ってきても、もうこんな血と欲にまみれた手では、抱く事なんて出来やしない。彼女の連絡先が残っている端末は、もうとっくに海の底だ。「俺には覚悟が無かったんだ」 自分にはジンの様な行動力も、覚悟も無い。一人の人間の人生を全て背負える程の、勇気も無い。そんな中途半端な自分が、嫌で嫌で仕方無かった。「リツ、どうしてるかな……」 探そうと思えば探せる。けれどもレンには出来ない。胸ポケットから取り出した小さな写真には、笑っている幼い彼女の姿。未だにこんな物を持っている自分に、心底嫌気が刺してしまう。乾いた笑いを漏らしながら、ゆっくりとソファーに倒れ込んだ。20190903リツくんですけど、女の子ですけど、モカくんと同い年です
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