愛の意味



「ただいま……」

 カードキーをトレイの上に置いて、モカは震える声でそう呟く。部屋に上がる前駐車場を見たが、ジンの車はまだ無かった。時刻は夜の8時。真っ暗な部屋に彼が居ない事は分かっているのに、どうしてか緊張してしまう。

「いつ帰ってくるかな……」

 握り締めたままの手をポケットから出して、モカは深いため息をつく。結局帰ってくるまでずっと言い訳を考えていた為、飲むのをすっかり忘れていたのだ。ジンが帰ってくるまでに飲んでしまわないと、バレてしまう。

「おみず……、っわ!」

 モカがリビングの電気を付けた途端、タイミングを計ったかの様に玄関が開く。彼の顔を見たモカは、思わず目をそらしてしまう。

「っと、何してんだ、こんなところで」
「えっ、なんでも、お、おかえりなさい……」
「あぁ」

 リビングを通り越し自分の部屋へとそそくさと入っていくモカを、なんだか不思議に思いながらもジンもカードキーを置く。綺麗に揃えられたローファーの隣に自身の革靴を脱いで、リビングのソファーに身体を預ける。いつもなら鞄を置いてすぐ出てくるはずのモカが、一向に部屋から出てこない事に、ジンはなんだかとてつもない胸騒ぎを覚えてしまう。

「まさかな……」

 そんな考えをかき消すように、ジンはリモコンのボタンを押し、見もしないテレビを付けた。





 自分は自然に歩けていただろうか。ドアに背を預けながら、モカは再び錠剤を眺める。モカの身体は元々妊娠が難しい身体だ。生理だって不順でいつ来るのかも分からない。この一年の間ほぼ毎日ジンと行為をしているが、妊娠した事は一度も無かった。医者からは子宮が極端に小さい事と、少なからず男性器も付いている為ホルモンのバランスも影響していると聞いている。その為アフターピルなんてものは、飲まなくてもなんら問題はないかもしれない。

「……別に、いいかな……」

 貰ったものを捨てるのは忍びないが、証拠隠滅の為には仕方がない。モカは机の上にあったティッシュを数枚手に取り、薬を包んでゴミ箱へと捨ててしまった。

「これでよし……!」
「モカ」
「っひゃい!」

 突然開いたドアと声に、モカは驚いて変な悲鳴を漏らしてしまった。

「なんだその声」
「う、なんでも、ない……」
「風呂、入るだろ」
「うん」

 ジンと一緒にお風呂、それはとても嬉しい事だ。もしかしたらそのまま気持ちの良い事をしてくれるかもしれない。それでも今のモカは、あまり一緒に入りたくは無かった。

「どうした?」
「ううん、鞄の中出してから行くね」
「おぉ」

 閉じられるドア。モカはまたため息をつく。こんな様子では可笑しいに決まっている。鞄をひっくり返すようにして机に教科書やプリントを出し、保護者に見せる為の重要書類の入ったファイルを手に持ってから、モカは深呼吸をひとつして部屋を出た。

「ジン、これ進級したから、書類……、あとハンコ……」
「モカ」
「な、なに……?」

 ファイルをソファーの前のテーブルに置いたモカに、スカジャンを脱ぎながらジンが声をかける。そのままモカの元まで近付いて、首の包帯に指をかけた。

「あっ……」
「緩んでるな、見せろ」

 ジンがそのまま引っ張れば、長い包帯は簡単に床に落ちていく。露になったモカの傷だらけの首元を確認するように、ジンは指を這わせていく。

「じ、じん……、あの……」
「この痕は付けてない」
「へ?」
「モカ、正直に言え、じゃないと……」
「あ……っ!」

 気道が絞まる。モカの細い首などジンの片手で簡単に締め上げることができる。じわじわと力が込められて、モカの呼吸が苦しくなる。行為中に戯れで首を絞められる事はごく稀にあるが、こんな明確に、殺意を持った物ではなかった。

「じ、ん……、ちが、う、のっ……」
「何がだ、どうせあのノートの奴なんだろう、ヤったのか? どうなんだ?」
「ひ……、っぐ……」

 確実にジンは怒っている。こんなに怖いジンを、モカは見たことがない。その証拠に、彼の藍色の瞳はとても冷たい色をしていた。モカの瞳から勝手に溢れる涙を見てジンがゆっくりと呟いた。

「綺麗だな、その恐怖に染まった目……、言ったよな、俺はモカの目が好きなんだ、俺以外の奴に、その目を見せたのかって聞いてんだよッ!」
「っ! げほっ、が……っ! う……」

 崩れ落ちたモカの腹に、ジンが蹴りを入れる。そのままお腹を抑えて蹲るモカを足で押し倒して、ジンはモカの太ももに手をかけた。

「見てやるよ、どうせそんなに時間はたってねぇだろ、掻き出せば分かる事だ」
「ぁ、あっ!」

 乱暴にショーツを脱がされて、ジンの冷たい指が中に侵入してくる。溢れる蜜によってすんなりと入る様子を見て、ジンが嘲笑う。

「はっ、濡れてんなァ?首絞められて、蹴られて気持ち良かったのかよ、とんだ淫乱女だ」
「あぅ、っ、ごめんなさいぃっ」

 ジンにされることは全部気持ちが良い。それがたとえ怒りに任せた、殺意に満ちた行為だとしても。モカは胸の高鳴りを止められない。自分はこんなにも、厭らしかっただろうか。

「腹に力入れろ」
「えっ」
「早くしろ、殺されたいのか」
「っ、わ、わかった」

 ジンになら殺されても良いよ、だなんて、そんな言葉を今言ってしまえば、ジンはどんな反応をするのだろうか。モカは力む様に、子宮の辺りに力を込める。そうして何かがじわりと溢れる感覚と同時に、ジンが指を抜いた。

「見ろ」
「っ!」

 べったりとついた白濁色のそれは、紛れもなく彼が出したもの。ここで名前を出せば確実に、彼の身には危険が及んでしまう。

「……あ、あの、ね、したの……ほんとうは、しちゃった、の……」

 胸の奥から込み上げてくるのは後悔か、それとも恐怖か、絶望か。モカの震える声が、シンと静まり返った部屋に響く。

「愛してるって、僕の事、言ってくれたの……っ、僕、ジンに愛されるの、好き、ジン以外、愛してくれないと思ってたの……」

 愛される事は罪な事なのか。モカは愛されたい。誰にでも愛されたい。それは幼い頃からの、モカの心からの欲求だ。

「でも、他にもいたの……っ、僕、分からないから……! 愛って、沢山じゃ、だめなの? 愛って、何? ジン、教えてよぉ……」

 愛を知らないモカが、愛される事を喜ぶのは当然の事だ。いろいろな形の愛がある中で、ジンだけが特別な愛だと示す事は、モカに対してとても難しい事なのかもしれない。それでもジンには、それを理解させるためのひとつの切り札があった。

「モカ」
「ふぇ、……っ、ん…ぁ……」

 泣きじゃくるモカの涙を、ジンが舌で舐め取った。そのまま唇を合わせて、優しいキス。それはまるで、モカを慰める様な仕草。視線を合わせれば彼の瞳はもう、冷たくはなかった。

「いいか、テメーは誰の物だ?」
「ジンの、もの……」
「それは分かってるな」
「うん」

 自分は彼のモノ。それをモカは理解している。それならばジンが聞くことは、たったひとつだ。

「俺の物ってんなら、何で他の奴に愛されて喜んでるんだ?」
「!」
「テメーは、俺だけ愛していれば良い、俺も、モカだけだ」

 モカは忘れていた。彼は自分の主。それならば彼だけに従えば良い。仮に他人に愛を向けられたとしても、それは真実の愛ではない。受け入れるべき事ではないのだ。

「コレで、そう示した筈だろ」
「っ……!」

 合わせられた左手同士。互いの薬指に光るのは、真実の愛の証。なんだ、愛というものは、こんなにも単純で、簡単なものだったのか。モカの紫色の瞳から、ぼろぼろと涙が溢れていく。

「ごめ、ごめん、なさいっ」

 すがるように彼に抱き付いて、モカは小さな子供のように嗚咽を漏らす。

「僕っ、勘違いしてたぁっ、ジンだけがっ、ぼくの……っ! すてないでっ……、じん、ごめんなさいっ、僕もうしないからっ、すてないでぇ……!」
「誰が捨てるかよ、テメーは一生、俺のモノだ」

 モカが落ち着くまでジンは震える小さな身体を、そのままきつく抱き締めていた。



20190902